第5話 「ただいま」と「おかえり」

「ほら。くっきりじゃない」


まじまじと俺の上半身を見つめながら夏菜が溜め息を漏らす。言っておくが決していかがわしい事じゃない。夏菜の部屋に連れられて服を脱げと言われたから脱いだに過ぎない。

あれ?言葉にするとなんかいかがわしい……?

詰まるところ、夏菜の部屋に来るまでの道中ずっと胴回りを痛そうにしていた俺を見かねて夏菜が状態を確認しているということだ。


「鬱血しちゃってるし」


棚から出したコールドスプレーを鬱血箇所にぐるりと噴出。家にコールドスプレーも常備しているとはさすがは夏菜だなと思わされる。

それにしても。本当にくっきりと鬱血している。ちゃんと手形までくっきりと。

それだけあの時のリョウコさんの力は強かった。


「ひとまずはこれで安静にしてて。これじゃ病院に行っても驚かれるだろうし」

「悪いね……」

「ホントだよ。こうなる前にもっと早く行くべきだったよ」

「面目ない」

「あんなに堂々と幽霊がいるなんて思わなかった。なんですぐ部屋を出てかなかったの?」

「家賃が魅力的なもので……我慢すれば住めるかなーと」

「秋くん。さすがに呆れてるよ私は?」


飛びきりのジト目が本当に呆れていると物語っている。

その視線がチクチク刺さって居たたまれない。


「あんな所を進める業者も業者だけど、そこを選ぶ秋くんも秋くんだよ。前例もあるって話だし、洒落にならないよ?」

「でもさっきみたいのは初めてだしさ。思ってるよりは大丈夫っていうか。まぁ違う種類の危ないはあったけど」

「今日初めてでもそれは遅かれ早かれの話でしょ?幽霊あれはダメだよ。存在がダメ」

「そんなに蔑ろにするほどじゃないと思うんだけどなぁ」

「秋くんはなんで幽霊あれに肩入れするの?」

「いや、そういう訳じゃないんだけど……」

「秋くんは危機感が薄すぎるよ。オカルトの類いなんて信じていない私だってあれは怖かった。本当に襲って来るなんて思ってなかったし。自分でもあんなに切羽詰まって塩を投げつける事になるとは思わなかったよ」


自分を抱いてブルッと震える夏菜を見て、思っていた以上に切迫していたんだなって今になって分かる。

俺の中で「リョウコさんは本気で誰かに危害なんて加えない」という根拠のない考えがあった。なんでそう思っていたのかは分からない。ただ漠然とそう思っていた。だから、危機感なんてお飾り程度でしか持っていなかった。

そうか。下手したら本当に夏菜も慎一も危ない目に遭ったかもしれないのか。

なんで俺はその事を失念していたんだ?いつから……。


「私も自分がお節介だっていう自負はある。いつだって、今だって、秋くんにそんな思いつめた顔をしてほしくない。でも、今回に限っては本当に心配なんだよ」


視線を上げると、今にも泣き出しそうな夏菜の顔が映り込む。夏菜のこんな顔は記憶を辿っても見つからない。

まさかそんな顔をさせるまでの事だったなんて、今の今まで俺は思ってもいなかった。


「そっか。ごめん……」

「ううん……謝ってほしくて言ったんじゃないから」


それから夏菜と話をして、あの部屋は解約するという事、生活が整うまで夏菜の部屋をシェアするという事で現状がまとまった。






その日の晩。いつもよりやけに近い天井を見つめながら俺は物思いに耽っている。

シェアの話になって夏菜はいの一番に寝具を購入して来ようとしてたけど、それはさすがに気が引けてしまうって事で、部屋にあったロフトをそのまま寝床として提供してもらった。

思い立ってからが早いから、ネットのカートにはもうすでに高級羽毛布団が入ってたから危なかった。

そしてここは文字通り夏菜のホームグラウンド。いつ仕込んだのか見当もつかないディナーコース料理。現地直送らしい柚子が浮かんだお風呂。寸法がなぜか狂いなくバッチリのシルクのパジャマ。もう寝るまでの間に至れり尽くせりの限りを受けた。

確か俺は睡眠不足だったはずなんだけど、夏菜御殿の過剰サービスのおかげで逆に目が冴えて仕方がない。元気が有り余るって言うのも考え物なんだと初めて知った。

ここまで過剰なのは夏菜との付き合いでも初めてなんだけど、もしかするとこれは夏菜の心配に対する反動なのかもしれない。


「スー……スー……」


今はもう暗くなった部屋から微かに夏菜の寝息が聞こえる。ある程度安心して寝てくれてるといいんだけど。

……「安心して」か。自分で言っておきながらどこか引っ掛かりを感じてしまう。

だって「安心」は不安や心配があってこそのもの。だから夏菜は俺があの部屋から離れる事で「安心」した。それは夏菜も自分で言っていた通り純粋に恐怖があったから。恐怖が不安や心配を生んで「安心」を求めた。それはすんなりと理解できる。

じゃあ俺は何に、どこに引っ掛かっているんだ?それは多分、根本的なところで相違があるからなんだろう。

俺はリョウコさんに恐怖を抱いていない。それが根本だ。

だから不安も心配も生まれないし、危機感にもならないから安心を求めない。考えてみればシンプルだ。

でも、なんで恐怖を抱いていないのかが自分でも分かっていない。慎一に敵意を向けた時も、慌てはしたものの怖いとは思わなかった。

それこそ、最初の出会いは金縛りされて首絞められそうになってるからその時は恐怖があったような気がする。でも、それっきりだ。多分リョウコさんが不意打ち的に可愛かったから驚いたのもあるんだと思うんだけど、あの時から怖いなんて微塵も思いもしなくなった。

あの時リョウコさんの顔を、表情を見て―――。


「あ」


自分の中でこんがらがっていた糸がするすると解ける。それと同時に湧き上がる感情がすぐに俺の体を動かす。

確信と言えるほどのものでもないんだけど、居ても立っても居られないっていうのはこれなんだと思う。

静かに眠る夏菜を脇を通り抜けて玄関へ向かう。ここまでしてくれる夏菜に「ごめん」と心で謝りつつ、俺はそのまま部屋を出た。






パジャマだった事も忘れ、下手すれば徘徊しているようにも見えるかもしれない状態のままでも目的地に向かって走った。

その目的地は当然俺の部屋。リョウコさんがいるあの部屋。

運良く誰にも会わずにアパートの前に辿り着く。そのまま階段を駆け上がり、部屋が視界に入ってからそこまでのストロークをゆっくりと歩く。

いつもならもう盛大に、そして迷惑に開いていたドアがうんともすんとも言わない。どれだけ近付いてもいつものお出迎えはなくて、ここに越して初めて俺は閉じたドアの前に立った。

息を整えてドアノブを掴む。鍵は……かかってない。

ドアを開けて中を覗くと、飲み込むという言葉がしっくりくるくらい真っ暗だった。手探りでスイッチを入れるも電気は付かない。俺は一人で頷いて中へ入って行く。

靴を抜いで廊下を行くとしっかりと足裏がざらつく。朝のまま塩まみれだ。

暗さに目が慣れず、壁を伝いながらどうにかして居間に到着する。ここも上下左右なにも見えないくらい暗い。


(こんなに暗かったっけ?この部屋)


そう思った瞬間だった。


「!?」


不意にその場に押し倒される。お腹の辺りに誰かが乗って俺を押さえ付けているのが直な感覚で分かる。


「……リョウコさん?」


暗くて顔も姿も見えない。まるで暗闇と同化でもしているのかと思うくらいに。それでも、マウントポジションから俺を掴んでいるその手に目一杯の力が入っているのは伝わる。


「……ユル……サナイ……」


絞り出したかのように、でもハッキリと聞こえる。


「ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ……」

「……」


体の自由が無くなる。2度目の金縛り。どうやっても指一本動かせなってしまった。でも、幸いなことに口はまだ動かせそうだ。


「……リョウコさん。ごめん。一人で出てっちゃって」

「……ユルサナイ」

「そっか。許してもらえない、か。困ったな」


ゆっくりと首に両手がかけられる。まるで氷を当てられたように冷たい。金縛りで抵抗も出来ない。

でも、体が動こうが動かなかろうが俺に抵抗する気持ちはない。

その代わりに胸につかえる言葉を吐き出す。


「なんか、ここに来た時みたいって思ってんだよね。俺はこうして全然身動き取れなくてさ。忘れられない体験だよ」

「……」

「そんな体験なのに、結構なインパクトのはずなのに、大事なとこだけ忘れるのは本当にダメだよなぁ」

「……」

「カワイイって言った時の、リョウコさんの泣きそうになったあの顔を忘れるなんてさ」

「……!」

「だから確認しなきゃって思ったんだ。リョウコさん。今はどんな顔してる?」


体が震えている。それは俺の首を掴むその手から伝わる。

怒らせてしまったならこのまま絞め殺されるかもしれない。でも、そんな考えとは裏腹に俺の体からリョウコさんが乗っていた感覚が無くなった。

同時に金縛りも解けて体の自由が戻る。俺はまた手探りに壁を伝って電気のスイッチに触れた。

今度は問題なく電気が点いて部屋が照らされる。暗かったせいで光に目がチカチカされながらも部屋を見回していくと、うずくまるようにしてリョウコさんが部屋の隅に収まっていた。


「なんでまたそんな隅に」

「……来ないで」

「言いたい事があるから面と向かって言いたいんだけど」

「……ムリ」

「そっか。でも、ごめん」

「!?」


両肩を掴んで強引に体を回す。

そこには、泣きじゃくったボロボロの顔がしっかりと俺の目に焼き付いた。


「や、やだ……!離して……!」


体を戻そうと力を入れるリョウコさんを全力で留める。

意地悪じゃない。確かめたかった。リョウコさんの泣きそうだったあの顔の意味を。泣きじゃくってるこの顔を。リョウコさんの気持ちを……。


「教えてほしい。どうしてリョウコさんは泣いてるのかって」

「……」

「俺はそれを教えてほしくて戻って来たんだ」

「……」

「だから離さない」

「……君のせいだよ」

「俺のせい?」

「ずっと、ずっと、ずっっっっと……寂しかった」

「……」

「居たくもない部屋で独りは寂しかった……!気付いたら幽霊になって、私なのに私が分からなくて。だから分からないまま人を怖がらせて、当たり前にみんな私から離れていく……。近付けば近付くほど誰もいなくなる。そんな50年……寂しくて死にたかった!死にたくて死にたくて仕方なかった……!そんな私に言うんだもん!カワイイって!君が……!」

「リョウコさん……」

「カワイイが恥ずかしかった。会話が楽しかった。目が合うのが嬉しかった。そこにいてくれるのが幸せに思った。だから、だから……」


あぁ。そうか。そうなのか。俺は、思い違いをしてたんだ。

一番初めの時、もしかしたら俺はこの幽霊に呪われるんじゃないかなんて疑心暗鬼になった。

でも違った。呪いをかけたのは俺の方だったんだ。

あの夜。あの時。俺の一言がリョウコさんに呪いをかけたんだ。こんなにも苦しそうに気持ちを吐き出させるようにしてるのは、誰でもない俺だったんだ。

この部屋に来たのは成り行きだった。リョウコさんに言ったカワイイも条件反射だった。それからのリョウコさんの気持ちなんて深く考えず、自分の打算でここに居座り続けた。そんな結果が、こうしてリョウコさんは苦しむ羽目になっている。

どうする事が正解なのか、今の俺じゃ見当がつかない。我ながらなんて無責任なんだろうって思う。

そんな俺が何出来るんだろう?正解なんてまともに選べた試しがない人生の俺に、一体何が出来るんだろう?

一丁前に悩めば正解を選べるんだろうか?いや……俺が俺である限りもどかしいくらいに外していく気がしてならない。

今さら格好つけても遅いんだ。

だったら……。


「どこにもいかないで……!!!」

「分かった!!!」


だったら、答え続けよう。正解なんて後から考えればいい。

目の前の涙を受け止める。今はそれでいい。


「え……?いいの?居て、くれるの……?」

「そのつもりだよ」

「一緒に居てくれるの……?」

「同居は継続です」

「……!!!」


ラグビータックルのように体ごと俺に突っ込んでくるリョウコさん。力いっぱい抱きしめられて、金縛りじゃないのに全然動けない。

でも、ひとまずこれで良かったような気がする。


「ずっと、ずーっと一緒にいてほしい!」

「なんかプロポーズみたいだなぁ」

「お嫁さんにしてくれるの!?」

「そうは言ってないんだけど……まぁ、ちゃんと俺を堕としたらそうなるのかも?」

「ホント!?滾る……!!」

「ハハ。ほどほどに。それはそうとリョウコさん」

「え?なに?」

「ただいま」

「ふふふ。おかえり」


胸に顔を埋めたリョウコさんはどこか嬉しそうで、恥ずかし気だった。

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