(2)

 ハッと眼を覚まして、ソリスは飛び起きた。

 知らない天井。知らない部屋。寒い外ではなく、暖かい部屋。ぬかるんだ冷たい地面ではなく、温かくて柔らかなベッド。夢と現実がごちゃ混ぜになり、軽くパニックに陥る。

「……大丈夫?」

「え? あ、あー、ディアナ、おはよう。そっか、ここ『虹の羽根』の……」

 既に身支度を整え終わっていたディアナに声を掛けられ、ようやくソリスは自分が今どこにいるのか思い出す。

 ここに連れて来られてから五度目の朝だった。いい加減慣れてもいいようなものなのに、眠る度に小さかった頃のことを夢に見るせいで、起きると軽いパニックに襲われた。

「……もう、五日になるんだね、ここに来てから」

「……そうね」

「……何だか、不思議だね」

「…………」問いに対する答えは返って来なかった。

 殆ど白に近い淡いピンク色の壁紙が貼られた部屋だった。本来は一部屋に一つベッドがあるところに、無理矢理二つのベッドを入れたため、若干手狭にはなっているが、特に私物もない二人にして見れば何の不便も感じられない部屋だった。大きな窓から朝日が入り込んで来る。カーテンが引かれているにも拘らず室内は十分に相手の顔を把握できるほどに明るかった。

 ベッドの足元には水差しが乗っている丸いテーブル。その奥の壁には小さな洋服ダンスと化粧台。とりあえず必要かもしれないと思われるもの全てが用意されていた。

 初めてこの部屋に通されたとき、ソリスは夢だと思った。

 こんなにも広く、清潔感の溢れる部屋が自分のものになるなんて信じられなかったのだ。

 確かに、タザルに初めて『銀の鬣』に連れて行かれたときも、部屋は与えられた。だがそこは汚いわけではないが、この部屋の清潔さとは何かが違っていた。大部屋だったからかもしれない。世話をしてくれた人達の性格が現われていたからかもしれない。少なくとも、当時のソリスにして見れば、それでも十分奇跡的なことに思えたが、ここはまた別だった。この部屋をディアナと二人で宛がわれたとき、嬉しさと同時に緊張して不安になった。

 本当にここを使ってもいいのだろうか? 自分なんかが本当に、いいのだろうか?

 そうやって戸惑っていたとき、ディアナは当たり前のように窓側のベッドへ腰掛けた。

 倣ってソリスもドア側のベッドへ腰掛けて、引っ繰り返った。

 あまりの柔らかさにバランスが取れず、座った勢いそのままに後ろに倒れるなんて初めての経験だった。慌てて起きようとして手を付くも、その手が沈んで上手く行かない。ソリスは大人しく引っ繰り返ったまま天井を見た。

 見知らぬ天井だった。何故そんなものを見上げているのか今一よく分からなかった。

 自分は今、『銀の鬣』にはいない。タザルと暮らした場所にはいない。

 でも、タザルと瓜二つのイオラインの暮らしている場所にいる。タザルから自分達を託されたイオラインと言う名の男の元。イオラインは本当にタザルの代わりになるために生まれて来ていたのだろうか? それとも、イオラインと生きるためにタザルが橋渡しの役目を負って自分達の前に現れたのだろうか?

 何にしても、不思議なことだと思った。全く同じ人間が後を任せて引き継ぐように、今自分達の前に居る。そして、自分達に『家』を提供してくれている。

 欲しくて欲しくて堪らなかった『家』。どれだけ望んでも手に入れられなかった『家』。それが今、自分のものになっていると言うのに、何故かソリスの心は晴れなかった。

 嬉しいには嬉しい。だが、素直には喜べない。複雑な気持ちのまま、ソリスは夕食に呼ばれた。広めの食堂に、ソリス、ディアナ、イオライン、シャルレイシカ、レイデット、そして、夕食の席で初めて紹介をされたダインと、グィンと呼ばれる褐色の肌の男の計七人での食事となった。上座にイオライン。その左手側にソリス、ディアナ、レイデットが座り、イオラインの右手側にシャルレイシカ、グィン、ダインが座った。

 食事の席で、ソリスとディアナはイオラインに紹介され、暫く一緒に暮らすことになったと説明された。瞬間、ソリスは何故かぎくりとしたが、ディアナが何も言わないので大人しくしていた。ダインと呼ばれた朱色の髪の男以外が笑顔で宜しく。というのに対して、ダインだけは顔すら向けなかった。

 本能的に、こいつとだけは相性が悪いとソリスは悟った。だが、それ以外は何事もなく食事は進んだ。どれもこれも美味しいものだった。ディアナが肉料理が駄目だと知ると、それ以降はディアナ用に野菜料理が増えた。誰も彼もが当たり前に話し掛けて来て、当たり前に世話を焼いてくれた。その代わり、当然のように手伝いもさせられた。

 考えてみれば、家事の手伝いなどやったことがないということに気が付いた。

 『銀の鬣』にいた頃は、完全専業制だったため、『手伝う』という行為自体がなされていなかった。調理場では専属の料理人がいる。それ以外の人間が立ち入ると、それはそれは恐ろしい剣幕で怒られる。どのくらい怒られるかと言うと、普通に包丁を振り回される。洗濯は洗濯でプロがいる。下手に手伝いを申し出ようものなら、干し方の角度から、洗濯物の畳み方、折り目の付け方を事細かに指摘される。だからこそ、下手に近寄るなと言い含められていた。お陰で今の今まで手伝いなどしたことがないと分かると、シャルレイシカは「じゃあ、これからやってみましょう」と言って二人を誘った。

 特別難しいことをやったわけではない。ただ後片付けを手伝っただけなのだが、『ありがとう』と言葉を向けられて、ソリスは気恥ずかしくなった。

 ソリスは、シャルレイシカから『ありがとう』と言われることが嬉しくて、気が付くとシャルレイシカの後を付いて回るようになっていた。だが、別にそれは懐いたからではなかった。情報を聞き出すチャンスを狙っていたと言う目的もちゃんとあったのだ。

 四六時中ディアナと一緒にいるわけではない。時には別行動も取る。取ると言っても建物の中から出ないで欲しいと注意を受けていたし、建物の中にいる『虹の羽根』のメンバーにも、二人を出さないようにと注意がなされていることは知っているため、おそらくまた本のある場所で時間を潰しているのだろうと思っていた。

 元々人と接することを極力避けるディアナなので、いるならきっとそこだとソリスは見当付けていたし、実際その通りだった。

 だからソリスは安心してシャルレイシカに『虹の羽根』のメンバーのことや『虹の羽根』の仕事について沢山の事を聞き出して置いた。何もかも情報を握ることがいざと言うときの助けになる。こちらが大人しくしていることでシャルレイシカたちが油断して、色んなことを話してくれるかもしれない。そんな思惑も初めはあった。

 だが、五日目にして、ソリスの心は簡単にぐらつき始めていた。

 こそこそと情報収集している自分が、何の関係もないお尋ね者を匿ってくれている気のいい人達を騙していることに心苦しさを感じ始めていたのだ。

 『銀の鬣』に居た頃も、皆がソリスとディアナに優しくしてくれた。当然中には面白くないと思っている人間もいたが、それは仕方のないことで、多くの人達が二人を『仲間』として迎え入れて、気を使ってくれた。

 だが、ここの人間は『仲間』と言う感覚と違っていた。ふと、その感覚を言い表すかもしれない単語が頭を過ぎるが、果たして当てはまるのだろうかと言う疑問が浮かぶ。

 何故なら、ソリス自身体験したことがない単語だったからだ。

 その単語こそ、『家族』と言うものだった。

 イオラインが父親で、シャルレイシカが母親……と言うと、年齢的に難しいかもしれない。むしろ、父親役なら一番年上だと言っていたグィンが妥当だろう。そうなると、イオラインとシャルレイシカは歳の離れた兄姉と言うことになる。ダインのことは良く分からないし、何だか腹が立つため家族の中に含めないことにして、考えた。

 自分に家族が出来た……。

 それはとても不思議な感覚だった。仲間とは違う存在。特別な存在。出会って五日でそんなことを思う自分が理解出来なかった。自分はおかしいのかもしれない。

 だからソリスは五日目にして、ようやくディアナに打ち明けようと思った。

「……ここの人達、皆良い人だね」

「……そうね」

「でも、『銀の鬣』の皆とは何か違うよね」

「……そうね」

「……何が違うんだろうね」

「……生きて来た環境じゃないかしら」

「環境?」

「人間扱いを受けて来た人間と、受けて来なかった人間の違い。心の余裕の違い。立場の違い。追う者と追われる者。陽の下の存在と日陰の存在。それが危機感の違いを生む」

「危機感?」

「そう。自分の身は自分で守らなきゃいけない環境とは違う。いつ騙されるかと考える必要はない。どうやって騙しきろうかと考える必要もない。だから、無防備に自分をさらけ出す。聞けば答える。求めれば与える。裏切られるとは思ってもいない」

「そうかな……」

 淡々としたディアナの声に棘が含まれる。

「少なくとも、自分達が優しくしていれば、こちらが言うことを聞くと思い込んでいるのが気に入らない」

「別に、あの人達はそんなこと思っていないと思うけど……」

「何故、そんなことが言い切れるの?」

「や、別に、言い切るつもりはないけど、だって、嫌な感じしないから……」

「……ええ。確かに全く嫌な感じはしない。でも、だからこそ、怪しいと思わなくちゃ。油断してはいけない」

「……イオラインにも?」

「そう」

「タザルと約束した人なのに?」

「そう」

「タザルが頼れって言った人なのに?」

「……そう」

「ディアナだって、グィンさんが畑仕事しているの傍で見てたのに?」

「……見てたの?」

「うん。見えてた。珍しいって思ったから。ディアナが話し掛けられて傍を離れなかったのを見るのは。だからディアナもここの人達のこと好きになったのかなって思ったのに、違うの?」

「……違うわ」

 ディアナの答えは、グサリとソリスの心臓を貫いた。

「私がここにいるのはここの人間達を信じたからじゃない。利用するためよ」

「利用?」

「そうよ。その気になればいつだって出て行ける。それをしないのは準備が整っていないから」

「準備?」

「そう。反乱を起こす準備。外に行って仲間達と連絡をつけなくちゃならない。でも、まだここを出られない。出ることは出来ても邪魔をされる可能性があるから。だから、自由に外に出られるまで様子を見る。それとも、あなたはここに居続けたいの?」

「え?」

「それはタザルへの裏切り……」

「!!」

 一瞬心臓が止まったような気がした。

 まさかそう来るとは思わなかった。

 自分が『虹の羽根』で暮らす人達を受け入れると言うことが、タザルへの裏切りに繋がるとは想像すらしていなかった。

「あ、あたしは別にタザルを裏切っているわけじゃ……」

 焦って否定を口にするソリス。だが、ディアナは容赦なく追い討ちを掛けた。

「十分な裏切り。イオラインがタザルに似ているからと言って、タザルや、『銀の鬣』に残っている仲間を見捨ててここに居座るのなら、それは立派な裏切り。イオラインはタザルじゃない」

「で、でも、タザルはイオラインに頼れって……」

「だから、頼るだけ頼ればいい。利用するだけ利用すればいい。でも、最終的にはタザルの復讐を果たすのが私達の務め。馴れ合って現状に満足するのは裏切り行為」

「それは、分かっているけど、でも、それとこれとは話が別……」

「別じゃない」ぴしゃりと言い切られる。

「私達がこうしている間にも時間は流れている。『銀の鬣』がどうなっているか分からない。今頃は私達が行方をくらませていることが知られていると思う。もしかしたら反乱が起こっているかもしれない。ゴウラが強硬手段を取っているかもしれない。そのせいで、沢山の仲間が死んでいるかもしれない。それなのに、私達だけこんなところでぬるま湯に浸かっているような『家族ごっこ』を楽しんでいるのは、楽しみ続けるのは、死んで行った者達に対しての裏切り行為以外の何物でもない。そんなことにも気付かないのなら、あなたとはもう一緒にいられない」

「そんな……」

 突然の拒絶。夢にも思わなかった相手からの拒絶の言葉。悪い夢でも見ているのだろうかと思った。目の前が暗くなる。後ろに引っ張られるような感覚に襲われる。心臓が早鐘と化す。掌に汗が噴き出す。頭の中が白くなり、言葉が口を吐いて出ない。

 あたしは今、何を言われているのだろう。

「ちょ、ちょっと、待って、どうして、そんなこと言うの? ずっと一緒にいたのに……、どうしてそんなこと、言うの?」

 焦燥感に駆られる。互いに手を伸ばせば触れ合える距離なのに、見えない壁が立ちはだかる。眼に見えない、それでいて、絶対的質量を伴って立ちはだかる拒絶の壁。

 小さい頃、無意識に『アビレンス』の力を使い、炎を生み出したとき、放火犯と間違えられて牢屋に入れられた頃からずっと一緒だったディアナ。人買いに買われたときも、いかがわしい娼館に売られたときも、タザルに救われたときも、反乱に出くわしたときも、常に、いつも一緒だったディアナ。タザルに次いで絶対の信頼を寄せていた存在。その存在に拒絶された。タザルに続いてディアナまで自分の前から居なくなる。ゾッとした。悪夢だと思った。今すぐ謝らなくてはいけないと思った。

「ご、ごめんなさい」

 口の中がカラカラに乾いて、掠れた声しか出なかった。

「ご、ごめんなさい、ディアナ。あ、あたし、別にそんなつもりじゃなかったの。ただ、ここの人達も皆良くしてくれるって思っただけで、でも、『銀の鬣』の皆とは感覚が何か違うくて、それがどういう意味か分からなくて、だから、その感覚が何か知りたくて、別にタザル達を裏切ろうとしてたんじゃなくて、だから、ごめんなさい。あ、あたし、ディアナにまでいなくなられた、あ、あたし……」

 頭の中に言葉が浮かんで来ない。焦りだけが先走る。すぐ目の前に居るのに、ディアナが手の届かない場所に行ってしまう。

「ご、ごめんなさい」

 だが、ディアナは何も応えてはくれなかった。それどころか、視線すら合わせてくれなかった。

 心臓が痛い。呼吸がままならない。苦しい。目頭が熱くなる。

 どうしよう。どうすればいいんだろう? どうして自分は余計なことばかり口にしてしまうんだろう? どうして許してもらえないんだろう。どうして? どうして自分からは欲しい物が逃げて行くんだろう。

 どうしてあたしは、許されないことばかりするんだろう?

 そのとき、部屋のドアがノックされた。

「おはよう、二人とも。朝食の用意が出来てるわよ」

 現われたのは何も知らないシャルレイシカ。

 ソリスはビクリと肩を竦めて動けない。代わりにディアナが受け答えし、ベッドから降りた。

「あら、やっぱりディアナは身支度済んでいたのね。ソリスも早く着替えて来てね」

 何も知らないシャルレイシカは、部屋の中に充満する絶望を察することなく優しい声で促して来る。ソリスが頷いて返したことは奇跡と言っていいだろう。

 お陰でシャルレイシカは部屋の前を後にした。拒絶の言葉を向けて来たディアナと共に。

 取り残されたソリスは、悪夢なら、早く目覚めてくれと祈らずにはいられなかった。


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