第一章『心の拠り所だった人』
(1)
嫌な夢を見ていたような気がする……。
ソリスは、夢と現実が混在する中途半端に眠っている状態で、何となくそう思った。
人は、夢を見ている間は夢を見ている自覚がない。
それなのに、目覚める直前になると、夢を見ていたのだと自覚する瞬間が稀にある。
夢のおかしなところは、夢を見ている間はどれだけリアルに思えても、目覚めてしまえば封印された記憶のように、全く何を見ていたのか思い出せなくなることがあるという点。
そして、ただ漠然と夢の印象だけを名残のように覚えているのだ。
それが心の躍るようなものなら寝覚めもいいだろう。
だが、わけも分からず悲しい気持ちになったり、不安に駆られたり、腹立たしさだけが残っていたなら、これほど不快な寝覚めもないだろう。
少なくともソリスは不快だった。
心の底から……というものとは少し違うが、眉間に皺が寄る程度には不快だった。
それを自覚すると、ソリスの意識は更に覚醒する。夢と眠りの世界から、現実へと近付くのだ。結果、ソリスの眉間には更に深い皺が刻まれた。
何か、痛い。
少しでも長く眠りの世界にいたいという、強い意志のなせる技なのか、単に意地っ張りなだけなのか、決して眼を開けようとしないソリスは、じわじわと両肩に違和感を覚え始めた。
両肩が痛いのか痺れているのか良くわからなかった。いや、それは何も両肩に限ったものではなかった。痛みにも痺れにも似たその感覚は、上に向かって続いていた。
何故そんな方向に痛みが? と思いつつ、痛みの向かう先を感覚だけで辿って行くと、手首が擦れる痛みに眼をきつく閉じた。
ある意味痛みの場所が特定出来たことは奇跡的なことだっただろう。眼を閉じたまま、痛みの出所が手首だと気付いたのだから。
「何なのよ……」
誰に対する怒りとも分からない怒りを込めて呟けば、
「やっと起きた……」
感情の起伏に乏しい聞き慣れた声がソリスの耳を打った。
「ああ、ディアナ。ごめん、また寝坊した……っ?!」
と、親友の名前を呼びながら眼を開けて、飛び込んで来た光景に眼を見張るソリス。
「ちょ、ちょっと、ディアナ! 何でそんな格好……」
慌てて問い掛けたのは当然のことだったかもしれない。
起き抜けに飛び込んで来た親友の姿。
ディアナは、荒縄で手首を縛られて天井から吊るされていた。
歳の頃は十四前後。黒緑色のさらさらの長い髪を頭の高い位置で左右に結い上げ、表情に乏しい人形のように整った表情。肌の色は日の光を浴びても焼けることが全くなかった白い色。瞳の色は鮮やかな緑。その眼に見詰められると誰でも一瞬言葉を失うほど綺麗なものだった。
ただ一つ、残念な点を上げるとするならば、その綺麗な瞳が常に半分隠れていると言うこと。ディアナは常に眠そうな気だるげな表情をしていた。
着ている物は薄手の白い長袖のシャツに、その上から袖のない夜色のワンピース。丈は足首まで。それでも膝下から横にはスリットが入っていて、チラチラと白い足が見え隠れし、その先の足を包み込んでいるのは足首丈の深緑色の靴だった。
同性のソリスから見ても、飾って置きたくなるほど綺麗な少女だった。
そのディアナが、何をどうしたものか天井から吊り下げられていたのだ。起き抜けにその姿を見たなら、誰でも驚くだろう。
だが、そうやってソリスが慌てても、痛みの一つも感じていないような、いつもの気だるげな表情で、ディアナはポソリと答えた。
「……あなたも同じ」
「え?」
と、言われて見てみれば、確かにソリスも天井から吊り下げられていた。
歳の頃はディアナと同じぐらい。赤いセミロングの髪に、赤い瞳。将来は絶世の美女になるだろうと約束された整った容姿。
着ている物は白い半袖の上に紺色のベスト。腰にはベストと同じ色の腰巻がスカートよろしく斜めに巻かれ、その下には緑色のハーフパンツ。そこから伸びる白い足に真紅のブーツ。だが、天井のランプに照らされた薄明かりの中の床には、その足は付いていなかった。
自分の体重の全てが荒縄で縛られている手首と、その付け根である肩。そして、関節の肘に集まり、苦痛となってソリスを責めていた。
「な、何なのこれ?!」
慌てて周囲を見回す。刹那、体を揺らしたせいで、手首に荒縄が食い込んだ。
「いっ!」
咄嗟に悲鳴を飲み込んで、表情を歪ませる。
「……馬鹿」
追い討ちのようなディアナの突っ込みに、ソリスは泣きたくなりながら、今度は体を動かさないようにそっと周囲を見回した。
さして広くない部屋だった。かと言って、狭いわけでもない。
明かり窓一つないために暗い室内を、天井のランプが懸命に照らしているが、力及ばず、室内をしっかりと見渡せるものではなかった。そのせいでよく分からないが、石の肌が剥き出しの床に揺れる自分の黒い影を見て、ソリスはかつて同じ状況に陥ったことがあることを思い出していた。
「ここって、地下?」
「……多分。そう」
かつて同じ体験をしたはずのディアナの声は素っ気無い。
あの時も、怯えて泣き出したくなっていた自分とは違い、淡々としていたなと思い出しながら、ソリスは訊ねた。
「でも、何だってこんなことになってるの?」
「……覚えていないの?」
このとき初めて、ディアナは『驚き』と呼べるものを含んだ気配を発した。
他人にはきっと判らないだろうが、自分にだけは判別できる感情の変化だと自負しているソリスは、少し嬉しいと思いつつ、頷いた。
「呆れた……」
心の底からそう思ったらしく、ディアナが珍しく深々と溜め息を吐いた。
だとしても、ソリスには全く事の成り行きが分からなかった。
「だって、あたしが覚えていることと言ったら、『あいつ』から言われた最後の仕事をするために、この『ヒューマイン』にある屋敷にやって来て、ご飯食べたところまでだよ。
あのステーキ美味しかったよね。本当はちゃんと焼いた方が好きなんだけど、レアでもあれは食べられた。ディアナも好き嫌いせずにステーキ食べれば良かったのに」
と、口の中一杯に広がるステーキの味にうっとりしながら呟けば、
「……肉は嫌い」
と、素っ気無い返事が返って来た。
ディアナは完全なベジタリアンだった。別に動物愛護主義者でも何でもない。単に、肉類を口にすると戻してしまうため、初めから口をつけないのだが、周囲に説明するのが面倒なディアナは、『肉嫌い』で通していた。
「でもね、食べられるために殺された動物のためには、やっぱり美味しく食べてあげなきゃ駄目だと思うの。だって、そうじゃなきゃ、何のために殺されたのか分からないじゃない」
「……そうね」
「だからね、今度は少しでも食べる努力をしなきゃ行けないと思うの。
そうじゃないと、あたしが太っちゃうから」
「……そうね」
至極真面目な顔で言い聞かせて来るソリスを見て、確かに、肉料理が出て来ると二人前を無理して食べているのだから、その心配は当然だと思うディアナ。
「これは真面目なことなんだよ。栄養が偏ると、後で困るってタザル達も言ってたでしょ」
「……そうね」
本当に、その通りだった。
元々人買いの元にいたソリスとディアナを助け出してくれたのは、タザルと言う名前の義賊だった。
タザルは『家』を知らない二人に、『家』と呼べるべき場所をくれた特別な人間だった。
歳の頃は二十代の前半。濃い緑色の短い髪に、綺麗な緑色の瞳と優しい表情。背が高く、引き締まった体格の持ち主で、肩を出す格好を好んでいた。首にも手首にもジャラジャラとアクセサリーを付けていて、『男の人なのに変なの』とソリスが呟いたのをディアナは覚えている。
ディアナにして見れば『男でも身に付けるものだ』と思ったが、あえて口にはしなかった。それよりも気になったのが、何の意味がある物か、鼻先に黒い色のレンズがついた色つきメガネを掛けていることだった。普通にメガネのように掛けるのならまだしも、いつもずらしているのだ。色つきメガネは強い光から眼を守るために作られたものだと言うのに、まったくその機能を果たしていないのだから気になるのも当然のこと。何故そんな風に掛けているのかと訊ねると、本人は『おしゃれの一つだ』と、どこか照れたような顔で言っていた事を思い出す。
照れて答えたところを見ると、自分でもおかしいとは思っていたのだろう。問い掛けてからはあまり色つきメガネをしなくなった。
それを見て、少しだけ悪いことをしたな……とディアナは思った。
優しい人だった。面白い人だった。仲間の皆に好かれていた。遊ばれていたと言っても間違いではないかもしれないが、少なくとも、好かれていたことだけはディアナにも判った。そして、そんな楽しい仲間たちの中に、ディアナとソリスのことも迎え入れてくれた。
もしもあのときタザルがいなかったら、きっと今まで生きては来られなかったかもしれないとディアナは思っている。少なくとも、何も知らなかったソリスは生きていなかっただろう。
だからこそ、そんなタザル達を裏切った『あいつ』が許せなかった。
『あいつ』の名前はゴウラ。歳はタザルと同じぐらいだったかもしれない。筋肉質な体型に、悪そうな顔。いつも誰かを馬鹿にしているような笑みを口に浮かべ、ガラの悪い空気を辺りに撒き散らしていた。小麦色の肌にツンツン立っている髪の色は金色。眼は濁っているわけではなく、ある意味澄んだ灰色……だったとディアナは思っている。
本来はタザルたちと同じ『銀の鬣(たてがみ)』と言う名前の義賊に属していた。だが、その中にあってゴウラは異質な存在だった。素行は悪いし、言葉も悪い。力は強くて暴力的。何度揉め事を起こしたか分からない。力押しで行くときには大切な戦力だっただろうが、そうでなければただの暴れん坊だった。
そして、『銀の鬣』はタザルとゴウラの二枚看板で動いていた。
温和で人道的なタザルと、粗野で力強いゴウラ。
相反する人間ではあるが、それぞれを慕い、『銀の鬣』のメンバーは分裂していた。
中には当然どちらにも付かない人間もいたが、大体どちらかの肩を持っていた。
数にして見れば圧倒的にタザル派が多かったが……。
お陰で、ゴウラ側はタザル側を眼の敵にしていた。常に馬鹿にしていた。本人がいようといまいとに関係なく、腰抜けだの女々しいだの馬鹿にしていた。
タザル側は怒っていたが、当の本人が全く気にしていなかったため、大きな争いに発展することはなかった。
自分が動かなくても、ボスがその内何とかするさ。
それがタザルの口癖だった。
だが、虎視眈々と機会を窺っていたゴウラは、ある日クーデターを起こした。
いくらなんでも恩のあるボスに手を出すことはないだろうと思っていたし、ボスが簡単に負けるわけがないとも皆が思っていた。その油断を突かれた結果、『銀の鬣』はゴウラに乗っ取られ、タザルは人質となった。
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