アビレンスの帰る場所
橘紫綺
序章
『路地裏の少女』
気が付くと独りだった。
何故そこにいるのか、分からなかった。
いつから独りでいるのか、分からなかった。
ただ、当然のように独りだった。
硬くて冷たいレンガの壁に背中を預け、むき出しの地面に両足を投げ出して座っている。
裸足だった。
気にならなかった。
そういうものだと思っていた。
汚れていた。
着ている物もボロボロだった。
赤い髪はぼさぼさ。
汗と油と汚れで無残なもの。
顔も腕も汚れていた。
垢と泥と擦り傷で、笑えば可愛らしかっただろう六歳ほどの女の子は、ボロ人形のようにそこに座っていた。
本来ならば、きらきらと輝く大きな赤い瞳も、今となっては陰が落ち、瞼も半分落ちて何も映していない。
女の子は、そこにいた。建物と建物の間。どれだけ大通りが華やかに賑やかに美しくなろうとも、その場所にまで恩恵が来ることはない。
むしろ、表通りに光が当たれば当たるほど、路地裏と呼ばれる場所は暗く汚くみすぼらしく無残になって行く。
それはまるで、汚らしいものを押し込めて、それ自体を忘れてしまおうとしているかのように。光の中に生きる者は見ようとはしない。
そこで何が行われているのか、そこで何が起きているのか、見ようとする者はいない。
皆意識の外に追いやり、見ずに済むなら見ないで置こうと振る舞い続ける。
そんな人々の姿を、光を失った虚ろな瞳は映していた。
夜の帳が下りたなら、完全な闇に包まれる路地裏。
だが、昼間なら多少なりとも明るさはある。
ずっとずっと続くレンガの高い壁と壁の間。白い縦長の空間。
その空間に現れては消え、消えては現れる色とりどりの動く物。
あれは何だろうかと女の子は考える。
時折きらりと何かが光り、それが女の子の眼を貫こうとも、女の子はピクリとも動かない。ただ、何となく考える。
今の光は何だろう?
それが着飾った人間達のつけているアクセサリーに反射した光だと気が付くことはない。
遠くを横切る色とりどりの小さなもの達が、自分より大きな、そして、自分と同じ人間なのだと気が付くこともない。
女の子はただそこにいる。時の概念すら持たずにそこにいる。
誰がやって来ることもなく、女の子が動くこともない。
それでも夜になり冷え込んで来ると、女の子は少し動く。
汚れて擦り切れて殆ど意味のないほど薄くなったタオルケットを体に巻きつける。
あまり変わらなかったが、女の子はこだわらない。
いつから使っているのか分からないタオルケット。汚れ過ぎて元はどんな色だったのかも分からないタオルケット。だが、女の子にとって唯一の所有物。
長時間座っていたせいでお尻が痛くなる。
そう思うのも初めてだと思えるくらい、唐突に思う。
首が疲れて頭が傾ぐ。横になる。生きている者と思わずに近くをチョロチョロしていたネズミが驚いて逃げていく。
湿った土の匂いがした。
不思議だと思った。改めて思った。
自分が物の名称を知っていることを。
レンガも土も、闇も光も名称は知っている。
ただ、自分が何なのかわからなかった。
色とりどりの動いている物が何なのか分からなかった。
地面に倒れて暫くすると、逃げたネズミが戻って来た。
恐る恐る近付いて来て、臭いを嗅いで行く。
つぶらな大きな丸い眼に、可愛らしい黒い眼に、自分が映る。
それが自分だと思うまでに暫く時間が掛かった。
実際どれだけ掛かったのかは分からない。
全て基準は女の子の中にある。
随分掛かったと思えば随分掛かった。
すぐのことだと思えばすぐのこと。
だとしても、どちらにしろ女の子は特別何かを感じることはなかった。
ただ、眠かった。落ちて来る瞼に逆らうことなく眼を閉じて、女の子は眠った。
暗かった。とてもとても暗かった。
でも、それを怖いと思うことはなかった。
むしろ、心が落ち着いた。
このままここに居られたらどんなに幸せなことだろう……。
幸せとは何なのか知らない女の子。
それでも女の子はそう思った。
一体誰に言葉を教えてもらったのか、どうしてそういう表現を思い浮かべたのか分からない。だが、浮かんだものは仕方がない。思ってしまったことは仕方がない。
考えたところで、意味が分からなくなることはあっても、なかったことには出来はしない。通り過ぎて行ったものを思い出すことは出来ても、とどめておくことも取り戻すことも出来はしない。
だから女の子は悩み続けない。考え続けない。
それが無駄だと言うことを知っているから。
考えたところで答えがないことを知っているから。
そういうものだと思っているから。
だから女の子は目を覚ます。
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