僕は少し無理をしている

コオロギ

僕は少し無理をしている

 玄関を抜けると、室内の涼しさにさっと汗が引いていく。

 すうすうと健やかな寝息を立てている彼女の横を抜け、エアコンの設定温度を確認した。また彼女がいじったらしい。十六度まで下げておく。

 次に冷凍庫をチェックする。容量の限界まで氷が詰め込まれている。まったく減っていないことに少しだけ不安を覚えて、冷凍冷蔵庫の方も確認すると、こちらの氷がなくなっていたので、ほっと安堵のため息を吐く。空いたスペースにコンビニで買ってきた氷を詰め込んで補充する。

 そこまで終えてから、風呂場へ向かう。さすがに水はきついので、ぬるめのお湯でシャワーを浴びた。

 部屋に戻ると、彼女がお腹を出して寝ていた。少し考えてから、服の裾を引っ張っておく。彼女が敷いてくれた隣の布団に体を横たえて毛布を被った。一瞬寒気が通過して、それと同時にくしゅん、と情けないくしゃみが一つ口から出て行った。それを合図に僕は眠りに落ちた。


「こりゃ風邪だね。会社はお休みしなさい」

 熱でぼやけた頭に彼女の声が遠く聞こえた。はい、と渡された携帯端末を受け取る。普段なら多少の体調不良くらいで欠勤したりはしないけれど、さすがに立ち上がれないようでは断念するしかなかった。

 布団に寝たままで会社に連絡を入れていると、彼女がまたエアコンのリモコンを操作していた。

 だから、上げるなって。

 文句を言いたかったけれど、今は体のだるさの方が勝ってしまった。

「何か食べたいものある?」

「いいよ、そんなの」

「いいから。何かないの」

 相当熱が高かったに違いない。僕は何事かを呟いた。彼女がそれに「オッケー」と満面の笑みで返事をしていたところまでは記憶している。だから、その直後に、僕は意識を手放したのだろう。

 次に目を覚ましたとき、キーンコーンカーンと近所の小学校のチャイムが聞こえた。

 いったい今は何時なのだろうと視線をさ迷わせた。時計にたどり着く前に目に留まったのは、テーブルの上に置かれたビニール袋だった。ぱんぱんに膨らんでいるその横には、くしゃくしゃの長いレシートも放置されていた。

「は…?」

 目にしたものが信じられなかった。自分が熱を出していることなど頭から消し飛んだ。跳ね起きて玄関に向かうと、彼女の濡れたサンダルが脱ぎ捨てられていた。水滴はそのまま室内へ伸びており、それは浴室まで続いていた。

 勢いよく浴室の扉を開けると、驚いた顔の彼女と目が合った。

「ちょっと、急に開けないでよ」

 氷の浮いた浴槽の中で、彼女は僕に抗議した。

 彼女はワンピースを着たままだった。かなり慌てていたのだろう。

 水中に浸った腕から先はまだ半透明で、きちんとした形を形成できていなかった。

 僕の視線を辿り、ばつが悪そうに彼女が笑う。

「いやあ外やばいね。溶ける溶ける」

「何考えてるんだ?!」

 心臓がかつてないほどの速さで脈打っている。

「君は大げさだなあ」

 彼女は僕を見て大きなため息を吐いた。

「わたしのことより、君はちゃんと寝てなきゃだめでしょう。まだ熱下がってないでしょ、顔真っ赤だよ」

「そんなことどうでもいいだろう!」

「そんなこと?聞き捨てならないな」

 すっと笑顔が消え、彼女が僕を睨む。

「無理してるでしょ」

「は」

「春はそうでもなかったけど、夏に入ってから尋常じゃなく無理してるでしょ」

「無理なんか」

「してるね、超してるね。君ね、自分が「寒い」って言わなきゃばれないとでも思ってるのかな。いくらわたしが世間ずれしてても、エアコンを最低温度で設定するのがおかしいことくらい分かるんだからね。ふつうは二十八度設定なんでしょ」

「いや、」

「誤魔化したって知ってるんだからね、テレビでやってた!」

 彼女が勢いよく水面を叩いた。

 よかった、元気そうだ、と僕は急激に体のだるさを思い出してその場にしゃがみ込んでしまった。

「ああ、ほら」

 彼女の手が伸びて、僕の額に載せられた。せっかく形が戻ってきたのに、また溶けてしまう。思わず彼女の手をどけようとしたら、もう片方の手に掴まれ阻止されてしまった。

「あのね、ちゃんと聞いてね。わたしはね、君に寄生するつもりはさらさらないの。わたしは君と、一緒の生活がしたいんだよ」

 また熱が上がってきたらしい。

 ぼうっとした頭に、彼女の冷えた手がとても心地よかった。


「どれがいい?」

 上体を起こして、彼女に渡されたコンビニの袋を覗く。そこには各種アイスがぱんぱんに詰め込まれていた。これは全種類制覇してきた可能性が濃厚だった。今後、庶民の金銭感覚を学んでもらわなければまずい、と心にメモしておく。

 彼女はすでにうずを巻いた真っ白なソフトクリームを手にしていた。透明なプラスチックをぱかりと外し、嬉しそうに一口目を齧っている。

「これがいい」

「いいね、涼しげで」

 僕はソーダアイスの包装を剥いた。

 彼女の瞳と同じ色をしたそれは、とても冷たくて、そして、とても甘かった。


 夜。

 彼女が熟睡しているのを確認してから、僕はそっと起き上がりエアコンの温度を確認した。

 案の定、二十八度に設定を変更されていた。これでは僕にも暑いくらいだ。

 ぴぴぴぴぴぴぴと設定温度を限界まで下げてから、ちら、と彼女の方を見た。

 …しょうがないなあ。

 僕は少し無理をして、三角形のボタンを連打した。

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