第6話

 ――あなたもここに生きているの?

 二年前、少女はそう言った。両過激派のデモ隊が銃撃戦を起こした市街地で、マシンガンの音の隙間を縫うように。ごく普通の民間人の子どもだった。美しい黒髪と純白のワンピース。装甲車の裏に隠れて銃弾を回避し、ふたつのベレッタのキャッチを押す僕に、少女は摘みとったちいさな花をさしだした。僕はぽかんとしてその花を見つめた。リリースされた空のマガジンが地面に落ちる。彼女のワンピースと同じ、白い花だった。手の熱で少しだれている。だが太陽の光をめいっぱい集めようとひろげられたその葉とちいさな花びらが、砂埃まみれの、銃撃戦の最中の市街地にひとひらのぬくもりを転がす。

 ――あなたもここに生きているの?

 僕は答えた。シラアイ生まれのシラアイ育ちだよ。彼女は首を振った。あなたが生きているのはシラアイじゃないよ、私が生きているのもシラアイじゃないよ。

 大きな目で、無表情で花を差しだしてそう言う少女を、僕は当時、理解できなかった。新しいマガジンを出してグリップに手のひらで叩きこむ。じゃあなんだ、ユウオウだとでも言うのかい? 僕の質問に彼女はふたたび首を振った。ここはここでしかないよ、きっと、生きていることは確かだもの。

 彼女の瞳は星のかけらでも入っているようにきらきらしていた。その瞳に圧倒されそうだった。僕らの価値観や理論では永遠に見えない、決定的に何かが欠けているために手が届かずにいる領域に、彼女はいる気がした。身震いする。僕が生まれるずっと前から先人たちが両手に抱こうとしては重みに耐えきれず、手放しては誰もが追い求めてきたあらゆるものが、巡り巡って彼女の持つちいさな花に変化したのだと思った。口から出かけた年寄りじみた言葉のすべてを死ぬ気で胃に戻した。

 少女の両親らしき外国人の夫婦は銃撃戦に巻きこまれて死んでいた。過激派に区別をつけろと文句を言うのも無駄だと分かっている。だけど遺された彼女はどうなるのか。一旦は評議会に身柄を引き渡しても、その後のことを僕は知らない。

 僕は同じ小隊の子どもたちに声をかける。この子は無傷だ、早く安全なところへ誘導しろ。少女より少し年上の子どもたちが、銃弾が飛び交うなかアサルトライフルを抱えて走ってきて、少女の手をつかんだ。走り去る直前、僕は彼女にたずねた。名前は?

 少女は手に持った花を絶対に離さないまま、僕を肩越しにふりかえって笑った。サチコ。



「シラアイとユウオウは昔、ひとつの国だったんだ」

 アスペル元帥の言う昔、は三百年ほど前だ。「当時はイギリス領だった。独立後は複数の国に分裂し、そのうちシラアイは代を重ねて世界一の石油輸出大国になった。それが現代になって隣国を覇権統治するとは、ひねくれものもいいところだな」

 机の上にひろげられた地図を前に、空き部屋で休憩をとる僕とミツとアスペル元帥。時間がまだあるとはいえ人命がかかった非常事態に、評議会全体が荒れていた。あれこれと激論を交わす声が四方から響く。テロリストが民間人を人質にとり国営ラジオ局を占拠した事件は音速で世界じゅうに伝わった。世論は割れた。『橋』のためなら多少の犠牲もいとわない容認派、非武装の民間人の命を脅かすことへの批判派。『橋』の価値が分からない僕らはどちらにも同意できずとまどう。

 共存派もそうだが、元々、極右の過激派テロリストから中立に限りなく近い穏健派まで、反ユウ派と言っても実際は熱量の落差が激しい烏合の衆だ。元政治家、警察官、軍人、武器商人、国際テロ組織、武装した民衆などのメルティング・ポット。そのため思想が同じでも内部で反目していることはこれまでもよく聴かれ、今回のラジオ局占拠はさらに顕著に溝を深めることになった。派閥内でも亀裂が発生し、離脱する者が増えた。アンチ反ユウオウ派となった彼らは、しかし共存派とは一線を引いて、新たなひとつの派閥となりつつある。

 そして連合諸国の過半数は、暴動の鎮圧以外で市民を危険にさらすことは問題だと、リーブルと彼らを援助する元老院を糾弾した。大統領暗殺事件の擁護問題を受けてユウオウへ経済制裁を行い、弾圧のために武力介入してきたアメリカ軍をはじめ多数の国外勢力が、今回の事件に抗議してはじめてシラアイから撤退の意を示した。資金援助や軍需品の提供もすみやかに中止された。石油の輸出制限を恐れた保守派の国家は黙っているが、正義感の強い民衆は熱く批判する。国内の治安維持が困難になるとの声もあがっている。ソビエト連邦政府の諜報員が胡乱な噂を流してリーブルを扇動した、などという虚偽の情報もあふれた。

 これだけ世界を揺るがせて、敵にまわして、しかしリーブルは現状を崩さない。彼の大勢の支持者は幻滅し、嘆き、離れていった。国際社会からの孤立を覚悟してまで『橋』を見つけたいか。

「なんでユウオウが嫌いなんでしょうね」僕は地図上のユウオウの場所を指先で叩きながら言った。「僕らなんて、普通にユウオウ人の友達がいたんですよ。仲が良く、もちろん悪いやつじゃない。素敵な友人だった。なのにユウオウの民族を嫌い、国全体や国民全員、国家そのものの存続を許さないシラアイ人がいるのはやっぱり不思議」

「前も言っただろ、家族を殺された人が加害者を恨むのは当然だって」ミツが横槍を入れる。「問題はむしろ、それを他人に押しつけることだ。どんな因縁があろうと、その遺恨や復讐を全く関係ない赤の他人の背中に乗せようとするのは人としてだめだろ」

「それが悪化したものが紛争か」元帥が鼻で笑う。

 陽が沈みかけている。橙色の光が室内を包む。このまま朝まで誰もが走りまわりつづけるのだろう。局員だけで百人以上がいる国営ラジオ局だ。もし犠牲者が出れば各国代表からの批難は免れない。ブラントの支持がどれだけ下落するかは分からないが、無駄に死体を増やしてプラスに転じると思えない、もちろんユウオウ人ではないサチコをピンポイントで殺害するはずがない、と信じたい。彼だって自由と平和のために戦っているのだ。

 だけど、諸外国からの支持と支援を手放してまで『橋』を探したがっているのもまたブラントだ。橋を見つけるためにサチコとカイが必要だとして、それが生死を問わないとすれば簡単には安心できない。

「どうやったら」

 ミツが世界一こたえづらい質問を、ひとりごとのように吐きだした。「戦争がなくなるのかな」

 元帥が椅子の背もたれに体重をあずけてため息をついた。僕は机から離れて窓際に立つ。砂地の奥に太陽がまさに消えようとしていた。これから夜が来る。明ければブラントとの約束の日だ。僕は無意識に腰のリボルバーに手をやった。触れていると落ちつく。

「共存の道なんて」

 そう言ってから元帥はたっぷり一分ほど時間を置いた。

「もうどこにもないのかも知れない」

 僕はふりかえって元帥を見た。沈んで鋭さを失った夕日に照らされる横顔は感情がないように見えて、だがロールシャッハ・テストのように僕はそこに苦痛の色を見つけた。

「リーブルのようにユウオウを憎むシラアイ人がいるのと同じく、ユウオウにもシラアイを憎むユウオウ人がいる。当然だ。彼らは二十年ものあいだ自国を占領され、シラアイの発展のためだけに搾取され、無駄に血を流してきた。今この紛争で奪われたシラアイ人の命以上に大勢のユウオウ人が殺され、そしてこの国が経済大国に成長した。彼らにとっては、家族を殺されたからとユウオウ殲滅を望むシラアイ人なんて、己の歴史を棚にあげる偽善者だとしか思えないだろうさ」

 すっ、と光が消える。太陽が完全に地平線へ隠れた。また地球を一周して巡ってくるまでの時間は、おそらく途轍もなく早い。

「今さらどうしろって言うんだ。多くのユウオウ人はシラアイを何世代にもわたって恨んでいる。この国を愛してくれ、友好を深めようなんて都合のいいことが言えるか。まがりなりにも俺たちだって、彼らを蹂躙したシラアイ人と同じ国の国民だ。大切なものを奪われた人間の恨みつらみは数年では消えない」

 深く、ゆっくりと、秒刻みに部屋が暗くなってゆく。太陽の光が届かなくなる。窓の外の建物がぽつぽつと灯りをつけはじめた。夕日のオレンジと白んだ青とのグラデーションが、この国の願いをあらわしているようだった。

 僕は誰を憎むかと考えた時期があった。共存派でいることでいじめられ、まともな友人は同じ共存派だけだった。僕の思想に同意してくれ、理不尽な歴史の教科書を無視して真相をうがった授業をした教師は、吊るしあげられ退職した。隠れて一緒に遊んでいたユウオウ人の友人たち。いつも傷だらけだった子どもたち。石を投げつけられたと言って、それでも笑っていた。さようならも言えずに家族とともに投獄された。明日も一緒に遊ぶ約束はひきちぎられた。居住区の町は空爆を受けた。彼らにもらった手紙や写真は、震災に伴う大火災ですべて失った。みんな死んだ。殺された。母は震災の餌食になった。大量虐殺の現場で僕はミツに拾われ、重く冷たい拳銃を手渡され、告げられた。

「平和のために他人の血を浴びる覚悟があるなら、俺の軍隊に入れ」と。

 ごく普通の中学生だった僕は、友達も家族も、守るべきものがなくなると強くなった。ミツと手を組み、四十七人の志願兵の子供たちによるTPCが出来た。元特殊部隊のミツがいることで子どもの軍隊ごっこは脅威となった。銃の扱いを覚え、暴動を鎮圧し、前線で武装集団を前に戦った。大勢の子どもたちが被弾し、爆撃を受け、身を呈して誰かを守り、手榴弾を投げこまれ、装甲車に轢かれ、命を落とし、最終的に三人だけになってしまったTPC。

 いじめたクラスメイト? 違う。震災? 違う。政府? 違う。歴史? 違う。生まれた国とその時代? 違う。ユウオウ人? 違う。シラアイ人? 違う。そもそもここにいる自分? 違う。世界のすべて? 違う!

 戦争のない平和な先進国に生まれていれば僕は高校生になり、青春を謳歌していたはずだ。その自分を想像したことは何度かある。だけど僕はシラアイ人で、TPCの副司令官だ。他の僕のことは知らない。

 これだけ生傷の絶えない人生を送りながら、憎むものが見あたらないのは鈍感なんじゃない。まして聖人でもない。どれだけ理不尽でも不公平でも、たとい恵まれていても、無慈悲な神から与えられたその状況の中で、誰もが死にもの狂いで生きているのだということを、僕は知ってしまっているからだ。

 知っていても涙が止まらない人が争いを起こす。彼らの悲しみを僕は否定できない。

「戦争なんてひどいこと、人間のやることじゃないと思った」

 僕は静かに言った。「だけど、こんなことをするのは人間しかいないとも思った」

 廊下のあかりがドアのちいさな窓から入ってくる。だけどそれ以上に、まだ低い月あかりのほうがずいぶん優しく感じられた。風が木々をくすぐる音が、はっきりと聴こえる。

「ミツ」僕は地図を前に頬杖をついている彼に呼びかけた。「見当違いなら否定してくれ。君は反ユウオウという思想の存在自体を消そうとしているんじゃないか」

 ミツは動かなかった。不自然に、微動だにしなかった。おそらく同じ疑問をずっと抱えていただろうアスペル元帥は何も言わなかった。数秒の沈黙のあと、ミツは「見当違いだ」と言った。

「そんな物騒なもんじゃあない。だけど敵対心が消滅すれば戦争は淘汰されるんじゃないかとは思う。今回の場合」

「そう、両国の反発意識自体は歴史が浅く、宗教戦争のように民族そのものに根付いた争いじゃない。ベースが怨恨だから、そこを完全に断ちきれば少なくとも後世までつづくことはないと僕も思う。机上の空論だけど、誰も憎まなくなったら戦争は終わる」

 でも、と僕はつづけた。「それがうまくいくなら、TPCは必要ないよ」

 ミツは一瞬僕を見た。だけどすぐに視線を地図に戻した。それは拒否ではないと僕は受け取った。だから遠慮なくつづけた。

「君は父親を反ユウ派に殺されたことを一生忘れないだろう。それが反ユウ派を否定する材料になるだなんて単純なことは思ってない。君は基本的に中立を守り、ベクトルの違う正義も彼らにとっては間違いなく正しいものだとちゃんと分かってるだろう? だけど反ユウオウ思想を理屈で納得こそすれ、全部を認めて愛してやることは絶対にできないんじゃないか。戦争を肯定してしまうことはしかたない、なんて口酸っぱく言うのも、その心理に決して無関心ではいられないからだろう」

「シンプルすぎる、それこそ空論だ」

「そうさ、僕の勝手な想像にすぎない。だけど僕は両派がそれぞれの正義を守り、それを破壊せず、かつ共存してゆけるような関係を築くのがベストだと思っているから。もし君がアンチ思想を徹底追放することで平和が叶うと思うのなら確かにそれも正義だ。反ユウ派を愛せないと思っていても否定しない。だけど僕とは食い違う」

 ミツは勢いよく立ちあがり、僕の肩をつかんで窓に叩きつけた。「おい、ミツ」アスペル元帥が叫ぶが手は出さない。ミツの手はかつてリーブル隊員に撃たれた箇所を締めあげていて、死ぬほど痛い。だけど僕は耐えた。ミツのほうがよっぽど痛いと思った。

「悪い、言いすぎた」声がかすれる。「だけどこれが僕の本音だ。色々考えた結果だ」

「そこまで考えさせて真実が届かなかったのが腹立たしいよ」

 ミツは僕から絶対に目線をはずさなかった。だから僕も絶対に顔をそむけなかった。十センチほど背の高い彼の肩幅は僕より少し広かった。ああ、あらがえないな、と思った。

「俺の親父は知ってのとおり、武装した反ユウ派の拠点に奇襲をかけて死んだ。その経緯までは話さなかったな。親父の女房、つまり俺の母親は、反ユウ派の引き起こした暴動に巻きこまれて死んだんだ」

 息をのんだ。ばらばらだった記憶が一気につながった。空爆のたびに廃ホテルからしょっちゅう飛び出していったミツの背中。アスペル元帥がミツの肩のむこうで、悔しそうに舌打ちをした。

「だから親父は共存派の中でも、アンチ反ユウ派の思想に寄った過激派になった。分かるだろ、親父も復讐を是としたんだ。俺に『母さんの仇をとってくる』と言い残したままさ。殺人が美談になり、人が死んで喜ぶ人間は腐るほどいるんだよ。それを俺は家族ぐるみで証明されて、納得せざるをえなかったんだ」

 ミツの声がうわずった。彼は僕の肩をつかんだまま顔を伏せる。僕の靴の上に、優しい雫がふたつ、こぼれ落ちた。

「戦争肯定派に転がった人間の心理が、下手に理解できてしまう。反ユウ思想のために俺の両親は無駄死にしたんだ。できるならリーブルなんか全員殺してやりたいと思ってる。だけどな、よりによってその理屈は反ユウ派と同じなんだ。――あいつらだって、自分の家族がユウオウ人に殺されたからユウオウを憎んでるんだ」

 分かるんだよ。分かっちまうんだよ。

 うわごとのようにミツが何度もくりかえすその言葉が、僕の脳髄を満たして激しく揺さぶる。僕は何を見ていたんだろうと、思わず目をきつく瞑った。

「俺は、両親を、愛していた」鼻水をすすりながらとぎれとぎれに言うミツ。「ずっと後悔していた。仇打ちなんか母さんは望まないって親父に何度も言った。だけどそれ以上に親父は憤ってたんだ。テロリストと同じ瞳だった。ああなる前に俺がもっと親父を愛して、強くなった息子の姿を見せれば、憎悪に犯されることもなかったかも知れない。戦争がなくなれば母さんのように殺される人間はいなくなるって、だから共存派として正義を貫こうって、言えばよかった。それでも親父は死んだ。TPCは贖罪の証だ。せめて家族の中で俺だけでも世界平和を願いたいって。だけど、それでも、なあ、コハク」

 ミツは顔をあげた。両頬は涙で濡れて、目が充血していた。手の甲で乱暴に涙を拭いてから、隣の部屋まで聴こえるほど大きな声で怒鳴った。

「もう二度とやつらを愛することはできないんだ! 別の正義があることぐらい分かってるさ! 焼け落ちた反ユウ派団体の拠点には親父の死体が転がっていた。両方の目玉をくりぬかれて口に詰めこまれ、ちぎられた右腕は腰から上がない女の死体のマンコに突っこんであったんだ。俺は聖人君子じゃない、大事な家族がそんなふうに蹂躙されてなお、純粋なまま平和を一途に望むなんていうサチコみたいなことはもうできない! シラアイ人から差別されてもこの国を愛し、暴徒化した兄貴を連れもどそうとしたアサギのようにはなれない! TPCの総司令官が聞いてあきれるだろう? 俺だって無駄に人を殺してプラスになるとは思えない。それでも銃を取ることを選んだんだ。だけど親父と同じように、平和のためなら反ユウ派が死ぬことぐらい構いやしないって思いながらTPCにいる自分が許せないんだよ! ましてあれだけ大勢の子どもたちを守れなかった俺が、その総司令官でいる資格があると誰が思う!」

 息を荒げて涙をこぼしながら、そのまま床に膝をついたミツ。アスペル元帥は成り行きをずっと見守っていたが、何も言わなかった。僕はうなだれるミツの後頭部を、窓に背中をあずけたまま見おろした。こんなにちいさくなった彼を見るのは初めてだ。

 ああ、そうだ。確かに僕とは違う。ただ目指す着地点が同じというだけだ。屍なしに平和は築けないと、僕らは知ってしまった。痛みをごまかす大人の理屈だ。物語のように美しく解決してしまう戦争なんてない。憎しみと悲しみと喪失感と、それを吐きだす場所や環境がなくて行き場をなくしてしまったことと、理解者が少ないことと。あるいは古代から絶えない隣国同士の争いや、食糧不足に水不足、生まれついた肌の色、信じる宗教の違い。いくつもの要素がからまって戦争が起こる。中途半端な正義の味方は、人の憎悪の重さに潰れてしまう。だから平和を望む覚悟とは、誰かの血や涙を浴びてなお揺るがず意志を貫けるかどうかなのだ。

 正しい望みを望み続けることは難しい。良心や道理より強いものがたくさんある。

「正義の心髄なんて、どこにもないんだ」

 僕はそっと呟いた。ほとんど動いてないのに身体が疲れていた。まばたきができなかった。泣きそうなほど打ちひしがれていたのに、涙は出なかった。

「僕の中にだって、僕の信じる正義がある。だけどそれはミツのものとは別だ。だから反ユウ派を認めろなんて絶対に言わない」

 信じられないほど自由に言葉がつむがれた。散らばったガラスの破片があるべき形をとり戻そうとするように、呼吸を、許す。

「だけどこれだけは言わせてくれ。この戦争にかかわらなかった次の世代の子どもたちにはユウオウを愛していて欲しい。過去の暴虐は忘れられないしどうにもならない。この紛争は起きるべくして起きたようなものだ。今さら二十年前のことを悔やめない。だけど歴史の怨恨を子どもへ、その子どもへと受け継いだら戦争は絶対に終わらない。それよりも紙や色鉛筆を手渡したい。真っ白な子どもが、自分たちには理解できない理不尽な差別やテロで傷つき、誰かを憎むところなんて想像したくない」

 些細なことで戦争が起こる人の世は、平和が実現できないからこそ、しあわせになる方法を知って欲しい。

 それが、今僕の中で考える平和への路線だ。血なまぐさい歴史は、二度とくりかえさないためにあるものだ。愛された音楽はかならず世界を駆けめぐる。人々をつなぐために。

 僕は早足に歩きだし、机の上に置いてある地図の上に片手をついた。

「思いだそう」

 その地図をぐしゃりとつかむ。「君がTPCを作った理由を」

 ミツは立ちあがって呆然と僕を見ていた。目が赤く腫れている。そのさまがずいぶんと間抜けで、僕は思わず吹き出した。ミツはようやく照れて「なんだよ」と言いながら目を覆う。彼が泣くところを見たのははじめてだった。僕の上官であり友人である彼のことを、ようやく理解できた気がした。

 もしも、カイの絵のように、誰もが臆することなく手をつなげたなら。

 この世界は、人々は、もっとしあわせでいられただろうか。

 軽いノック音がした。ドアがひらいて「怪談話でもしているのかしら」と苦笑する声が聴こえた。電灯がつけられ、夜闇に飲み込まれていた部屋が一瞬で明るくなる。入ってきたのは人民軍の女子隊員で、左手に寝眼をこするカイをひいている。

「さっき起きたみたい。お腹がすいたって」

「めちゃくちゃ泣いてたもんなあ」アスペル元帥がカイを肩車してやる。はしゃぐ彼女の寝癖がついてしまった髪がふわふわと踊る。元帥の手帳に挟んである彼の娘の写真を見たことがあるが、カイほどの年齢だったはずだ。カイは元帥の肩の上で楽しそうに笑っていた。左手に色鉛筆をにぎりしめて。

 誰もが幸せになる方法なんて存在しない。だけど必要悪を正当化することだけは絶対にしたくない。犠牲が増えるだけの道をゆきたくないだけだ。僕らは何を信じればいいのだろうと何度も迷った。何を選べば納得でき、後悔せず死ねるのか。死んだ家族や友人に顔向けできるのか。本当の平和や差別のない世界を願いながら、それが限りなく不可能に近いことを理解できてしまった。理想を願いつづけることが、戦時中に生きる僕らにとって難しいということも分かっていた。それでもサチコは願いつづけた。祈りつづけた。願いや祈りが無意味なんじゃない、それらを失った心が正義をとなえてもなんの役にも立たないのだ。戦争を終わらせたいという民衆の願いが国家を動かし、世界をふるわせる。地鳴りのように、つよく優しい調べのように。僕らは瓦礫に立ち、人の血を浴び、何度も銃に弾を込めながら、願っていた。爆撃で壊滅した死体だらけの町で、たったひとつでも美しい花が咲くことを。

 両親と帰る家を失い銃を手にした子どもたちが、傷だらけの足をひきずりながらなんのために生き、なんのためにTPC隊員として戦うかとは、その花を守りつづけるために他ならないんだ。

「さあ、今宵はクリスマス・イブだ。ボーイズ」

 アスペル元帥がカイを床におろしながら言う。「軍部も戦争状態だが、今日は愛する家族の話や幼いころの思い出話をビールの肴にしようじゃないか。総員、食堂に集合だ」

「あのドタバタしてる隊員たちを止められるの」

「俺、参謀総長も兼任だからいざとなったら命令する」

 人民軍に入らなくてよかった、と言ってミツが苦笑する。彼の目元はもうにじまない。見失わない。カイが満面の笑みで「ごはん食べよう!」と叫ぶ。僕に手をふって、楽しそうに。手をふりかえして彼女を抱きあげれば、ちいさいのに想像以上に重かった。僕らが持っている武器よりも、はるかに。

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