第5話
「ちょっと、えっ、いきなりすぎです」
アスペル元帥ががなりたてる。『こっちもいきなり早朝から奇襲されたんだよ、あいかわらず橋はどこだと紋切り型みたく』
また橋か、と舌打ちするのとほぼ同時だった。階下でガラスの割れる音が、つづいて震災のときに聴いたものとよく似た、家具が倒れる低い轟音が重なった。床がかすかに震える。下のバリケードをやぶられたのだ。複数の男たちが階段を駆けあがる気配。「大遅刻ですよ元帥!」と無線に怒鳴り、ミツはカラシニコフを拾いあげた。
僕は寝室のドアを蹴やぶり「起きろアサギ」と叫んだ。しかし彼はベッドの上に座りこんだままじっと動かない。彼の手元にはラジオが握られていた。
「なあ、コハク」ふりかえったアサギは青ざめていた。「今、ラジオで反シラ派ユウオウ人のテロのようすが流れてたんだけどさ、どう聴いても兄さんのものだとしか思えない声が入ってたんだ」
「あの、出ていったっていうお兄さんが?」
「嘘だよな。あの兄さんがテロリストに、しかも反シラ派に転がってるなんて。その集団、人民軍の本拠地を爆撃したっていうんだよ。反ユウ派の過激派に便乗して。なあ、どうなってるんだよ。兄さんがそんなやつらに加担するわけない」
「落ちつけ」僕はアサギの肩をつかんだ。「君の兄さんのことはひとまず置いておくんだ。今、そのテロリストが下のバリケードを突破してこっちに向かってきてる。まずはここから避難するのが先だ」
「でも」アサギの表情が歪む。差別を受けても共存を願いつづけたアサギは、シラアイを最後まで愛せなかった兄を今も追いかけていた。僕は強く彼の身体を揺さぶった。
「分かってる。だけど大事なのは、君がずっと今日まで守ってきた理想だろ」
僕はアサギを立たせて部屋からひきずりだした。すでにサチコがミツに起こされて着替えも済ませていた。白のチュニックにジーンズ。片手にアサルトライフル。年齢不相応な姿だが実際、彼女はあまり戦闘向きじゃない。
「事情は聴いたわ。本部がやられたって」
「元帥から詳細を報告してもらった」ミツがウィンチェスターのレバーをひきながら言う。「反ユウ派シラアイ人が人民軍本部を襲撃し、それに反シラ派ユウオウ人の暴徒が便乗してる。双方の狙いは『橋』だ。今こっちに向かってきてるのは反ユウ派のほう。テロリストとリーブルの一分隊だ。なめやがって」
「まだヘリは来てないのね。粘らないと」
「くそったれが」僕が怒鳴ると同時に最上階へ軍隊が到達する気配がした。やかましい足音と怒鳴り声が響く。カイがなぜか色紙を左手ににぎりしめて震えているが、決して泣かない。屋上の階段へは吹き抜けの廊下を反対側まで半周しなくてはならないので、一旦ここを出ることになる。僕は入り口のドアの番側に張りつき解錠した。ミツとアサギは反対側の棚の影に隠れる。リーブルの隊員がドア前に迫る足音が聴こえた。サチコとカイは部屋の奥へ身を隠す。やがてドアがゆっくりと開き、三十代半ばほどの武装した男がサブマシンガンを構えて上半身をのぞかせた。僕は手早くその喉にライフルを押しつける。固まる男を僕は顎でしゃくった。「そっちはどうだ」という別の声が聴こえ、男は「いや、誰もいない」とこたえる。彼がゆっくりとドアを閉めかけたので一瞬油断した。隙をついて男のサブマシンガンが僕の耳横をかすめる。
背をかがめるとミツとアサギが一斉射撃を開始した。男は身体の右半分を負傷して倒れこみ、彼を蹴飛ばして僕らは外へ出た。「いたぞ」合図の声が重なる。高級ホテルの広い廊下のあちこちから武装した大人たちが飛び出して銃弾の集中攻撃を食らう。目視で二十人弱。突破できるか不安だったが考えている暇はない。僕は一分七百五十発のライフルを全開にして、カイを守りつつ走るサチコの後方援護にまわった。ミツもカラシニコフを、アサギはレミントンM870で隊員を蹴散らした。いくつもいくつも被弾し、足や腕から血を流して、それでも僕らは走った。銃の重みを、痛みを忘れるほど一心不乱に、トリガーを引きっぱなしにする。ああ、これが平和のための殺人なんだろうな、と思えば集中力が乱れた。後退しながら、できるだけ隊員の足や銃を持った手を狙って撃った。それでも何人かは殺している。戦争だ。ちいさな国の民族紛争が、今ここで僕に銃弾の痛みとその価値をしつこいまでに叩きつける。
何重ものドラムロールじみたマシンガンの銃声と空薬莢の金属音に交じって、上空にヘリが飛来する音が聴こえた。「走るぞ!」ミツの声を合図に僕らは射撃を止めて全力疾走した。ジグザグに走っても背後からの追撃であちこちに被弾する。防弾チョッキ越しでも当たれば衝撃で気絶するだろう。僕はカイの後方にまわって走りつづけた。
とたんに、アサギが急ブレーキをかけた。「兄さん!」
逆走しはじめた彼を止めようと伸ばされた僕の手は虚空を掻いた。人が変わったようにショットガンを連射して兄の名前を呼ぶアサギ。「違う、リーブルにはいないはずだ!」僕がその背中に叫ぶとアサギは肩越しにふりかえった。
「兄さんに似たやつがいた、絶対そこにいる! やめさせるんだ!」
止める声もきかずアサギは追っ手を撃ち、銃のグリップで殴り、どんどん廊下の奥へ走っていった。悲痛な叫びが遠ざかる。「冗談だろ、おい」ミツが背後から名を呼ぶがアサギは振りかえらない。連れ戻そうとすると別の隊員からの総攻撃を食らう。慌てて屋上の階段めがけて駆けだした。もうどうしようもなかった。僕はでたらめな叫び声をあげて、追手に向かってライフルを乱射した。血がはじけ飛ぶ。何も分からなかった。
屋上へつづく階段のドアを内側から閉め、鍵をかけた。二秒でも三秒でも時間を稼ぎたかった。サチコは先頭でカイの手をひきながら泣いていた。暗い螺旋階段を駆けあがり、屋上のドアを蹴破る。人民軍のヘリは、ひろく障害物のない屋上すれすれに降りた。「TPC、女子から先に乗せろ」キャビンから手を出して叫ぶ救助班の隊員に、まずカイを引き渡す。抱きあげてキャビンに押しこむと、屋上のドアがやぶられた。ヘリを狙い撃つテロリストたちにミツが振りかえって威嚇射撃をする。その隙に僕はグレネードランチャーに閃光弾を叩きこんだ。「後ろを向いて目を覆って」と全員に叫ぶと、銃床を肩に当てずそのまま撃ちこんだ。螺旋階段の足元に飛んだ弾が炸裂すると、こちらの目まで痛くなる強烈な閃光が走った。リーブルの隊員たちがうめき声をあげて目をおさえ、その場にしゃがみこむ。
一年前のテロ事件のとき、民間人を乗せたヘリは対空砲の直撃を受けて大破した。その記憶がよみがえる。ぬめったらしい寒気がした。光がやまないうちにミツとサチコがキャビンにあがり、ヘリが離陸をはじめた。僕は助走をつけてジャンプし、ホバーリングするヘリからおろされた梯子につかまった。そのまま飛び去るつもりだった、が。
数発の銃声のあと、キャビンからぐらりと何かが転げ落ちた。風に舞う黒髪。伸ばされたミツの手は、届かない。
「サチコ!」僕は真上から落ちてくる彼女の身体をつかもうと、足を梯子の金属部にからめて手を伸ばすが、彼女のワンピースの端をかすめただけだった。まっすぐ落下するサチコの身体を下で待ちかまえていた男が抱きとめる。嘘だろ、と思った。アサギだけでなくサチコまで。さらにキャビンの中を狙って飛んでくる銃弾に、慌ててヘリが浮上する。「待ってくれ、サチコを取りかえすから高度を下げてくれ」と叫ぶも、すぐに無駄だと分かった。対戦車擲弾砲RPG-7を肩に担いだ男が、屋上に膝をついてこちらを狙っているのが見えた。
やばい、と思った瞬間にヘリが急上昇し、飛んできた弾は足元にはずれる。僕は梯子を駆けあがり、ハイスピードで退避するヘリのキャビンに転がりこんだ。気が動転して天井に頭をぶつけ、激痛でようやく現実に釘留めされる。ミツは苛立って壊れるほど強くドアを閉めた。地上から爆音がする。カイがサチコの名前を呼んで泣きながら窓に張りついている。床にサチコのものらしき血がまだ液体のまま飛び散っていた。僕は床にぺたりと座りこんだ。太ももが震えて立てなかった。全身に被弾していたのに、痛みを忘れた。嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ。うわごとのように呟きながら、両手で顔を覆った。血に似た金属の臭いがした。ミツが何度も壁を殴る。
まだこんなにちいさかったんだ、と思わせるほどカイの身体は細かった。少しでも力を入れたら骨まで砕けてしまいそうだ。あちこちに貼られたガーゼや包帯がそのちいささを浮き彫りにする。自分が被弾することをいとわず常にかばっていたのに、彼女はいくつかかすり傷ていどだが銃弾を受けていた。
耳を両手で強くふさぐカイを後ろから抱きしめ、手で目を覆ってやった。もう長いこと泣いていたがさすがに疲れたのか、今のカイは微動だにせず、一言もしゃべらず、ずっと耳をふさいだままだ。僕は彼女を膝に乗せてパイプ椅子に座ったまま、ずっと彼女の目を覆ったままだ。
空き会議室の透明な壁の向こうに、あわただしく人民軍隊員や軍委の人間がゆきかう廊下が見える。大人数の反ユウ派テロリストの早朝奇襲によって意表を突かれた人民軍本部は激戦区となった。大勢の兵士とテロリスト、そして民間人から死者を出している。数人の隊員がTPCの拠点地を吐くよう脅され、そして僕らが襲われた。ヘリで上空から見おろした本部の建物は爆撃を受けて大破し、黒煙が三エーカーほどの敷地全体を包んでいた。隊員の半数が生還し、ここ国民評議会の拠点にある軍事委員会本部に避難した。同盟軍の僕らはここに集められ、治療を受けた。
隣の部屋からミツの怒鳴り声が聴こえてくる。あるていどは防音が効いているので、耳をふさいでいるカイには届くまい。簡易机の上にはカイがずっと握りしめていたTPC隊員の誓詞の色紙が乗っている。少し曲がっていた。僕はそこに書かれた名前をひとつひとつ読みながら、時間を経るごと強くなっていく全身の痛みに耐えた。心臓の鼓動に合わせて疼く傷口。自分がこれほど多く被弾していたことに気づかなかった。
だけど。僕は強くカイを抱きしめる。サチコはどこを撃たれたのだろう。足や腕ならまだしも、致命傷になっていれば?
ミツの怒声を聴きながら、僕はカイを抱く腕の力を強めた。優しいユウオウの民謡でも聞かせてやりたいが、僕が歌ってもきっと意味がない。アサギは死んだのか。捕虜になったのかも知れない。シラアイを愛せずにいた兄の姿を探し求めて、そのために彼は身の危険をかえりみず敵陣につっこんだ。彼はそれでもシラアイと兄を愛していた。そのことがよく分かった。責められない。それを伝えたい。だけどその相手が今、どこにもいない。
サチコ。アサギ。
やがてガラス戸がひらいてミツが怒気をあらわにして会議室に入ってきた。カイが大仰に震えたので「大丈夫、ミツだから」と手の平越しに声をかける。一瞬安心した彼女だったが、ミツが机を挟んで反対側のパイプ椅子に大きな音を立てて座ったのでまた怯える。僕はため息をついた。タンクトップを着た彼の身体にも包帯がこれでもかというほど巻かれている。彼の右耳の上半分がなかったのでぎょっとした。
「あったまくるぜ、スタンリーめ」総司令官を堂々と呼び捨てにするミツ。「年齢が子どもだからって子ども扱いして。お役所仕事ってやつだな」
「念を押すけど、君は立派に子どもだよ」
「人間性はまた別だろう? なんのための同盟軍だよ。俺たちははじめから死ぬつもりでTPCにいるのに」
「リーダー・スタンリー、許可してくれなかったんだ」
TPCの女子隊員が生死不明のまま身柄を拘束されたと説明しても、ただでさえ減った隊員を動かすわけにはいかないの一点張り。テロリストによる本部殲滅を踏み台とした、評議会本部への直接奇襲の可能性が消えないことがその理由だ。実際、サチコ以外に捕虜となった隊員は確認されず、リーブルからの要求もなく、下手に動けない。僕は元国防長官だった軍事委員総司令官への進言権がないので黙っている。
確かに、リーブルの拠点がどこかも把握できていない状態だ。まして相手は政府軍部や連合国の支援を受けている。軍需品も潤沢にあれば工作もできる。さらにテロリストと組んだとなれば、戦略も何もない丸腰で見切り発車をするにはいささかリスクが大きい。
どうしたものか、と思っていると空き会議室のドアがふたたびひらいた。
「そろってるな、ボーイズ」
軍服に身を包んだアスペル元帥が、けだるげに足でドアを閉める。元政府軍軍曹で、離反後は人民軍元帥として指揮を執る若きリーダーだ。TPC結成当時、同盟軍として連携できるようはからってくれたことがあり、一番仲が良く友人扱いだ。僕とミツは立ちあがっておざなりに敬礼をする。カイは僕の足元に降りたって、背中に隠れた。
「ガールフレンド連れかい」元帥が面白そうに笑って言う。
「カイ。ユウオウからの亡命者です。身内がいないようなので、保護を」
「亡命?」眉をひそめる元帥に軽く事情を説明する。彼女がユウオウの共存派団体の元で暮らしていたことも含めて。「前に市街地で過激派に命を狙われたって言ってたのはその子か」とカイを見て言う元帥。怯える彼女に「信頼できる人だから大丈夫」と声をかけるが、僕の背後に隠れて出てこない。
「よし、ちょっとオフィスに移動しようか、少年たち」そう言って元帥はしゃがみこみ、カイに笑いかける。「おじさんがいいものを持ってきてあげよう」
僕らは包帯だらけの身体をひきずって隣の大きな事務室に移動した。外界は砂地が多く民家の少ない郊外なので、太陽光の照りかえしが部屋を黄土色に染めている。赤道に近いこの国は化石燃料が豊富に採掘される代わりに砂漠化が進み、しめきった室内は熱気がこもる。しかしその暑さを感じる暇もなく走り回る他の隊員たち。元帥が部屋に入ると全員が立ちあがり、一斉に敬礼をする。僕らもそれをかえした。よく見知った隊員たちに「無事でよかった」などと声をかけられたが、うまく笑顔でかえせなかった。
一瞬席をはずした元帥は、戻ってくると手に水の入ったコップを人数分乗せたトレイ、それに紙と十二色入りの色鉛筆のケースを持っていた。あきテーブルに座るカイの前にそれらを置く。カイは目をかがやかせてケースをひらき、色鉛筆を手に取って見つめる。
僕らは残りのパイプ椅子に座って、彼女が一心不乱に絵を描いているのを見ていた。「子どもなんだな」とミツがつぶやいた。
「娘のものなんだ。カイにあげよう」
元帥が優しい微笑を浮かべて言った。細められた目は父親のそれだった。僕は事情を知っているから、それ以上は何も訊けなかった。コップの水を飲みながら「それで」と話題を変えたのはミツだ。
「話はどこまで伝わってますか」
「廃ホテルをリーブルに襲撃され、アサギとサチコの生死が不明というところまで」
「何度も無線で連絡したけど、どちらとも応答がありません。アサギはテロリストの軍勢に自ら突撃していきました。サチコは地上から狙撃されてヘリから落下し、身柄を奪われてそれっきりです」
「自ら、か」アサギらしいな、と元帥がちいさな声でつぶやいた。僕はテーブルに肘を乗せた右手を握りしめた。
「今のところ、リーブルから何の動きもない」元帥は考えごとをするときの癖で、ペンを指先で回した。「彼らの目的は『橋』だ。これの正体は俺でもつかめていない。分かっているのは、物理的な従来の橋とは別次元だということだ。本部を奇襲した連中が『橋をよこせ』と言っていた。よこせと言われて手渡しできないだろう、あんなでかいもの。比喩か何かであればぎりぎり合点がいくんだ。橋はものとものをつなぐ比喩としても使われる」
「荒波にかかる橋のように君を導く、ですね」僕はこたえた。サチコの持っていたレコードの山の中にあった曲だ。あの名盤たちは今、どうなってしまったのだろう。
「そうだ。類推すると彼らが捜しているのは橋の場所ではなく、観念としてのかけ橋、アレゴリカルなものだ。それもとびきり高級な」元帥がペンで頭を掻く。「かけ橋だなんて、もっとかがやかしい意味で使われるのかと思っていたが。プラスでもマイナスでも、人が命がけで追うものには自然と価値が生まれて周囲を誘発してゆくのか」
それは僕も思ったことだ。「橋」が何なのか、どこにあるのか、比喩なのか概念なのか、それすらも分からないなか、僕らも無意識にその存在に踊らされている。それはそのぶん、存在感が強く、影響力があるということ。
「オーケイ」ミツが結論を急いだ。「その『橋』を求めたやつらが、なぜTPCを?」
「分かっていたら男とのんびりティータイムなんかしてないさ。お前たちが純金製の橋のおもちゃでも持っていれば別だがな」
「本部襲撃は決してそれ自体が目的ではなく、評議会殲滅への踏み台でもなく、TPCへの足がかりをつかむためだったんでしょうね。人民軍に捕虜は出ていない。俺たちは一応同盟軍だけど非公表だし、戦場で見かけたという噂はあくまで噂で実際は子どもの戦争ごっこ、軍事組織としての実体はないと思ってる人たちも結構多いし。人民軍は一般にほぼ露見してるし批判もされるけど、TPCは相対的に輪郭があやふやだから拠点の廃ホテルのことも知られず、知ろうとする人もさほどいなかった」
「それが突然、リーブルが過激派テロリストと組んでまで一様にTPCを探しはじめた。お前たち、何かしたのか」
「していたらおっさんとのんびりティータイムなんてしてませんよ」
動揺を押し隠すように会話を途切れさせないミツの横顔は、普段以上に銃創まみれなぶん、苦しげだった。「橋を探すために必要なものがまだこちらの手元にあるのなら、サチコたちの身柄と交換もできる」と荒く語る。父親を殺された彼の過去がその背中に貼りついている。事務的な口調にも焦りが混じる。
僕はいまだにお絵描きに夢中になっているカイの手元をのぞきこんだ。そして息をのむ。赤い太陽と水色の雲の下に立つ、ふたりの少女。ワンピースを着て、満面の笑顔で、手をつないでいる。幼い子どもらしい元気あふれるその絵。燦然とかがやく陽のもとで笑う少女たち。敵国を殺す兵士の絵でも、自国の国旗の絵でもない、しあわせな絵。
『色鉛筆、すごくきれい』
カイが描く手を止めないまま言った。『私、こんなにたくさんの色鉛筆を見たのは初めて。いつもお絵描きは黒だけだったんだ。色鉛筆は高いから、買ってもらえなかった。だけど、たくさんの色鉛筆を並べるとこんなに綺麗なんだね。知らなかった』
絵の少女のように笑うカイ。色鉛筆のケースは、白から黒までうつくしいグラデーションを形成していた。溶けるように、混じりあうように。まったく違う色なのに、十二色そのものがひとつの色になってしまう。そしてカイは白鉛筆から順番に、並べるように空に半円を描いた。黄色、桃色、橙、赤、茶色、黄緑、緑、水色、青、紫、黒。おおきな、世界を覆うほどおおきな虹が、手をつないだふたりの少女の頭上にあらわれた。太陽をも凌駕する、十二色。
僕には音楽が聴こえた。サチコが白いグランド・ピアノで奏でるメロディーだ。棚におさめられたサチコの宝物のレコードが、世界中の音楽を聴かせてくれる。白と黒の鍵盤が、完璧なハーモニーの元に共存するのに、ああ、神よ、どうして僕らはうまくいかない? と歌うサチコの声がこだまする。コーラスが僕らを強引にひっぱってゆく。詩が僕らの胸倉を掴んで呼び醒ます。さあコハク、立ちなさい、あなたはまだ生きているのよ、と。銃声よりも爆音よりも、人々の悲痛な叫び声がつよく地面をふるわせる。
賭ける命の重み、無駄に流れる血の数。
喧騒がやまない事務室に、突如かん高い電話のベルが響いた。隊員のひとりが受話器をとり、しばらくして蒼白になる。通話口をおさえてミツを呼ぶ。彼はスピーカー・フォンに切り替えた。最初に電話をとった隊員が「全員静かにしろ」と言う。
「TPC、ミツ・ベリクヴィストです」
『しばらくぶりだな、少年。リーブルのブラントです』
室内が静まりかえる。リュウ・ブラント。僕らはおっさんと呼んでいる、リーブルの最高司令官。印象的な口ひげのせいで年齢より老けて見えるが実際は三十代後半と若い、反ユウ派の先導者として民衆と連合諸国の代表から支持を集める大佐だ。だけど頭の頑固さについては銀河随一。
「お久しぶりです」ミツの言葉つきはていねいだが表情が重い。「今朝は大がかりなモーニングコールをどうも」
『ずいぶんと大人な言い草をするようになったな。君とはいずれ国の将来を語りあいながら、酒を飲み交わしたいものだ』
「元帥ではなく私を呼んだのは要求ありきでしょう。身柄を拘束している隊員の生死を確認させて頂きたい。利害が一致すれば終戦後、酒を」
『ストレートだな』電話口で苦笑するブラント。その声だけを聴けば、会えば小遣いをくれそうな優しいおじさんに感じられるが、実際はユウオウ民族殲滅を目指し政府軍と共に銃を振るう、一歩間違えれば過激派になりかねないおっさんだ。
『要求を先に。単純な共通の理想を叶えるためにも、TPCで保護しているカイ・ブレンストレームという八歳前後の少女の身柄を、我々に引き渡し願いたい』
室内が静かにどよめいた。視線が一挙にカイに集まる。彼女は目に見えて怯えていた。僕は彼女の肩を抱いてやる。大丈夫、絶対守るから、と耳元でささやく。数日前と同じだ。マーケットで銃を出した反ユウ派の男もカイを探していた。
ミツは明らかに困惑したように「何を」と答える。
「それは『橋』に関することで?」
『そのようすだと、橋の意味をそもそもつかめていないようだな』小馬鹿にするように笑うブラント。『世界中がカイ・ブレンストレームを探している。西の大国から東の民衆まで『橋』を崇めんと死力を尽くしている。その橋を見つけるためには、今ここにいるサチコ・コトノハとカイ・ブレンストレームが必要だ。安心しろ、サチコ・コトノハは生きている』
安堵のため息があちこちから漏れたが、ミツは全く落ちつけていない。
「待ってくれ、話が全く読めない。『橋』にごく普通の民間人の少女がなぜ関わる? 彼女たちが行きかたを知っているとでも言うのか。それに、私がカイを引き渡したとして、その対価は何になる」
『詳細は伏せさせてもらう。我々はふたりが揃えばいいだけだ。用件が済めば身柄はどちらも無事にかえそう。しかし君たちが少女を断固として守るのなら、ここにいる数十名の民間人の安全は保障しきれない』
「ここにいる、だって」ミツの呟きに重なるように、別の隊員から逆探知成功の声があがった。目の前にシラアイの首都レクザの地図を広げたアスペル元帥が、国会議事堂から二マイルほど離れたある一点に赤いペンで印をつける。
そこは開戦時からの言論統制によって一時閉鎖に追いこまれた多くのラジオ局のうち、プロパガンダのためにたったひとつだけ残された国営の放送局だった。
『逆探知はできたと思うが』
ブラントには筒抜けだったらしい。僕にも状況がすべて呑み込めた。リーブルはテロリストと組んでラジオ局を制圧し、局員や民間人を人質にとって立てこもっているのだ。カイが市街地に現れたことが知れ渡り、彼女を探す者の耳に届いてこのような強硬手段に出たのか。
腕の中で小刻みに震えるカイを僕は強く抱きしめた。色鉛筆を全部使って虹を描くこの幼い少女に、世界が好奇の目を向けるのはあまりにいたたまれない。
『そういうことだ、今日をふくめ二日の猶予を設けよう。それまで一切の侵撃は自粛する。これから私はここを離れるが、明後日の午後二時に局内で待機する。武力で突破するなり膝詰め談判に出るなり道は自由だ。そちらの有能な参謀本部で存分に考えて結論を出せ。ただし、下手な小細工を仕掛けた場合、拘束している民間人の命は保証しない。攻勢に転じる。私の言葉を左翼の売国奴かつ緩慢な理想主義者の評議会に信用させるかどうかは、総司令官である君の手腕にまかせます』
「要求については討議に付しましょう」ミツが声を低くして言う。「が、その人質の中にアサギはいませんか。十二歳の、レミントンを持った少年兵は」
ブラントが眉をひそめる気配がした。しばらく電話の向こうで話し声がして、『今はそんな少年はいないぞ』と彼がこたえた。『レミントンを使っていたTPCの子どもならいたそうだ。ただ彼は君たちの拠点の廃ホテルで死んだ。知らなかったのか』
カイが短い悲鳴をあげた。そして、糸が切れたようにわっと泣き出す。僕は彼女を胸に抱いて背中に手を回した。背中に氷の杭を押しこまれたようだった。カイの細い髪をめいっぱいつかんで歯を食いしばった。四十人ほどの演奏家が一斉にコントラバスを鳴らすような音が僕の耳に届いた。脳裏を映像が駆けてゆく。兄の姿を求めて叫びながらショットガンを乱射するアサギ。彼に向けられるサブマシンガンの銃口。響く破裂音。被弾と共にのけぞる未発達の身体。赤い飛沫が散る。床に這いつくばって咳きこむ彼の口に突きつけられる銃。
オフィス内にいる隊員が顔を伏せた。口や目元を押さえ、首を振っている。ミツは遠目にも分かるほど青ざめていた。机に手をついてうなだれ、氷づけになったように微動だにしない。やがて拳をきつく握りしめ、ゆっくりと口をひらいた。
「貴様はユウオウ民族だけを恨んでいるはず」ミツの声は震えている。「その当初の着地点を脇に置いてまで『橋』が必要なのか。これだけ争い、死者を出し、国家のため国民のため国益のため、あらゆる自由と正義のために突っ走ってきたのに寄り道か」
そしてつづけた。「この戦争はなんのためにあるんだ」
ブラントは軽く鼻で笑って、『よいクリスマスを』と言った。電話はそこで切られてしまった。軍部だとは思えない静寂が室内を包む。聴こえるのは、カイのちいさなすすり泣きの声だけだった。ミツは瞼ひとつ動かさずにいた。アスペル元帥も絶望したように天を仰いでいた。ガンッ、と大きな音がした。ミツが机を蹴り飛ばしたのだ。くそったれ、くそったれ! 何度も何度も叫びながら机を蹴る。誰も止めなかった。ミツの目は真っ赤に充血していた。僕はカイの耳をふさいだ。今はどんな歌も、彼女には届けられない。
「子どもたち、知っているか」アスペル元帥が天井を見たまま言った。「世界は今、クリスマスだ」
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