第2話
孤児たちによって作られ、ミツと、彼に次ぐ年長者である僕が指揮を執っている。そんなちいさな義勇軍「TPC」は、反過激派勢力人民軍と同盟を結んでいる。
シラアイ政府から離反した軍人や各界の有力者、政権を離脱した元政治家などが創設した「シラアイ国民評議会」が、シラアイ人の共存派勢力の中軸となっている。「人民軍」は、評議会の軍事委員が離反軍人や警察官や民間人の義勇兵で組織した軍隊だ。ユウオウ解放の願いを込めて作られた、共存派の大人の軍である。シラアイ政府軍によるユウオウ弾圧と反ユウオウの過激派集団によるテロや殺戮を止めるための軍隊、それが僕らTPCと人民軍だ。民間団体も含めると勢力はもっと多い。だが実際、ユウオウ人に親兄弟を殺された多くのシラアイ国民は反ユウ派に転がり、共存派は人数の比率で負けている。TPCも当初は四十七人の子どもたちがいたが、大勢が爆撃などで命を落として現在は僕とミツとサチコとアサギしかいない。
僕は共存派の母のはからいにより、ユウオウの言葉や芸術に触れて育った。自分の国籍を否定こそしないものの、歴史の中でユウオウに対して繰りかえしてきた自国の略奪や横暴を正義とすることだけはできなかった。ユウオウを敵視したことは一度もない。シラアイ在住のユウオウ人は学校も居住区も別だったが、子どもだけのコミュニティ内で仲良くなったユウオウ人の秘密の友達が何人かいて、政治的軋轢など考えず毎日一緒に遊んでいた。しかし、彼らもまた政府の弾圧や爆撃であっけなく命を落とした。些末な諍いのために流れた同じ人間の涙を覚えているから、僕の両国共存の願いは頑固なまでに崩れない。
目の前にいる少女が怯えた目でこちらを見ているのを見つめかえすと、確かに、僕はこの少女を差別の対象として見ることはできないと自覚する。
「不法入国者ってことは、つまり」
僕の言葉に、少女はわけが分からないといったふうに首をかしげる。「シラアイ在住じゃないんだな」
「多分そう。自分で言ったから」アサギがコップの水を一気飲みして言う。
「自分で?」
「ユウオウって、シラアイ語の勉強を学校で強制されてるだろ。言葉は通じるよ」
アサギはそう言ってサチコのとなりに立った。サチコと同い年なのに、サチコがちいさいせいでアサギが大人っぽく見える。コップの水をちびちび飲んでいるユウオウ人の少女は、サチコにぴったり寄りそっている。シラアイ人の右翼が野蛮な低級民族だと罵倒する理由など、彼女には何ひとつなさそうだった。友達と無邪気に遊んで好きなものを食べて、将来の夢を考えながら寝て、毎日楽しいことであふれていそうな、まだなにもかもがちいさい子だった。だけど僕は同時に、戦場で彼女ほどの子どもが頭の上半分をなくしたり腹をえぐられたり、ばらばらになって死んでいるのを見たことがある。
『君の名前は?』
僕は一応ユウオウ語でたずねた。少女は少し怯えたようすだったが、優しく笑いかけてやるとサチコの袖にしがみつきながら「カイ」と言った。
「カイ? まるでシラアイ人みたいな名前だな」
「ユウオウもシラアイも人種は同じなんだから、似たようなところはたくさんあるさ」アサギが言う。「言語だって、文法や発音がよく似てるだろ。肌の色も同じ。同じ大陸の隣国同士ならおかしくないさ」
あきれたように言うアサギに、顔をしかめて「三倍返しだな」と反論する。必死で背伸びしたがる子どものいじらしさが言葉尻にうかがえたことを悟り、アサギが「うるさい」と言って顔をそむける。僕らのやりとりを笑うサチコとミツ。カイはあいかわらずサチコの服にしがみついたままだ。
僕はソファでちぢこまるカイの目をじっと見つめた。
「なんでまた戦争まっただ中の敵国に。よくあの戦線を乗りこえてきたなあ」
「穴を掘ったの」カイがシラアイ語で話した。「国境の近くにある建物の影に、草で蓋をしながら、半年ぐらいかかって、シラアイのほうに」
「すごいな、ちいさなスティーヴ・マックィーンだ」
かっこいいじゃん、と言ってカイの頭を撫でようとすると、大仰に怯えられてしまった。そうだよなあ、そう簡単に心を許してもらえるわけがないよなあ、と苦笑する僕を尻目にアサギがカイの隣に腰をおろし、「この歌を?」と言ってユウオウ語の歌をうたいはじめた。ゆっくりとしたテンポの、眠ってしまいそうに優しいメロディーだった。カイの表情がみるみるうちに笑顔に変わる。
『それ、お母さんがよく歌ってくれた歌だよ。どうして知ってるの?』
カイはアサギをきらきらした目でじっと見つめる。僕が訝しげに眉をひそめると、「ユウオウの子どもならみんな知ってる民謡だよ」とアサギが言った。
「なんでそんなの、シラアイ生まれのお前が知ってるんだ」
「親がユウオウ人なんだから、少なからずユウオウ文化にだって触れてきたよ。子どものころ、ばあちゃんがよく歌ってくれたし」
お前は今も子どもだ、と僕が笑う。母国が植民地となり帰国できなくなったシラアイ在住のユウオウ人が今もそのままこの国に住んでいるが、ユウオウ人の血が流れているというだけで純シラアイ人から迫害される。尋常ならざる差別を受けたことでアサギは共存派となり、TPCに加わった。僕らは彼がユウオウ人だということを知っているけれど、そんな些末なプロフィールや過去を気にする世代じゃない。
帰化ユウオウ人の多くは母国の国民や政府から見放され、シラアイにとどまらざるを得なくなった人たちばかりだ。血液型占いじゃあるまいし血で差別することは理不尽だ、とアサギは以前、まだちいさいながらに訴えていた。シラアイ国内で起こる犯罪や殺人事件の七割近くはユウオウ人によるものだというから、迫害する人と迫害されつづけてきた人の両方の気持ちが理解できるとアサギは言う。「だからって暴力で解決したがるのはくそ喰らえだけどな」とも。
彼には兄がいる。アサギがTPCに入る以前に家を飛び出し、そのまま帰ってこないという。ユウオウに亡命したか、反シラ派のテロリストにでもなったか、分からないままだ。彼は今も、反シラ派団体の中に兄の姿を探している。
アサギは優しい声でユウオウの民謡を歌いつづける。やがてカイもそのメロディーにのって歌いはじめ、サチコも分からないながらにハミングした。穏やかな空気が部屋を包んだ。国籍の違う三人の子どもたちがソファに並んで座り、同じ歌を歌う姿が、僕の目にずっと烙印のように焼きついて離れなかった。
僕はミツの隣に立ち、彼にぎりぎり聴こえるように「彼女をかくまうのか」と呟いた。
「今の戦況で無傷のままかえすのは無理だろう」ミツがこたえる。「極右は殺しにかかってくるぞ。成長して反シラアイ勢力になる前に食い止めるって言って。守るしかない」
僕は苦笑してミツの足を軽く蹴った。なんだよ、と文句を言われつつ。
夜、サチコの部屋をそっとのぞくと、ひとつのベッドでサチコとカイが寄りそって眠っていた。カイのちいさな手をサチコが握っている。仲良しの子猫のようで、僕はつい笑ってしまった。神秘的な光景だった。僕らは突き離されたわけでなく、神秘と常に一歩離れた場所に立っていること、その一歩が数マイルと言えるほど離れていることを知っている。だけど同時に僕らの世代は、その数マイルが一フィートと言えるほど近いことも知っている。だから大人は神秘を殺し、同時に神秘をあがめる。数ヶ国の血が流れるサチコがこの国にいることは、保守派のシラアイ人にとって喜ばしいことではないのかも知れない。その態度の前に、理解の意志も示されることなく罵殺されるのかと思うと、僕はサチコの、一途な平和の祈りを守らずにはいられない。ふたりの少女が眠る部屋の扉をしめ、僕は手に持ったカンテラの灯を消した。静寂と暗闇が、昼間の光のまぶしさを僕に教える。
三年前に起こった首都直下型大地震の際、僕は母を亡くした。父は僕が生まれる前に脳卒中で死んだらしい。
首都から少し離れた郊外に母親とふたりで住んでいて、僕は学校で習う正当化されたユウオウ差別の歴史に反発をくりかえし、母は共存派であることを隠して働いていた。それなりに自我も生まれてアイデンティティーを確立してゆくころに、友人たちのユウオウに対する侮蔑にこちらが関係を切らざるをえなくなり、居場所を失っていた。ユウオウ語を勉強していた僕はよくクラスでいじめられた。「ユウオウにも共存派はいるはずだ、かならず分かりあえる」と主張すると笑われ喧嘩に発展した。ユウオウ人の犯罪率を見ろ、民度の低い人種と共存なんてできっこない、と。大事なものの比重が違ったから、思想の孤立を寂しいとは思わなかった。彼らに媚を売って一時的にうまくやる義理はなかった。
地震発生時の早朝、僕の自宅は揺れに耐えきれず倒壊した。その後の大火災から生き延びたのは僕だけだった。母は崩れた屋根の下敷きになり、僕が必死でひっぱりだそうとしてもとうとう抜けだせなかった。屋根の下から「逃げなさい」と叫んだ母。無理だと叫びかえした僕。水道がストップして消火が追いつかず、火の手はあっという間に僕の家を焼き払った。近所の人たちに助けられながら避難し、業火が去るのを待った。焼け野原となった被災地には、家族や友人の骨を探す人々が亡者のようにさまよっていた。行方不明の人を求める張り紙だらけの町。僕の家だった瓦礫にまじって、母の蔵書が黒焦げになり、何かの精巧なオブジェのように大量に散らばっていた。母の骨らしき黒く焼けた欠片を見て、瓦礫の前で泣き崩れた。
その当日、ライフラインや情報や交通や首都機能が完全に停止した超混乱状態のなかで、あのシラアイ大統領暗殺事件が発生した。Tシャツジーパンで町へ降りて市民の声を直接政治に反映させ、国民主権で先導し各国から高い信頼を得ていた大統領の殺害。復讐の合図だった。長きにわたりユウオウを貶めた結果だ。その尻拭いを僕らの世代が請け負う今、誰を恨み、殺せばいいのだろう。
野蛮人の住む後進国だとシラアイが侮辱してきたユウオウの、シラアイ語で書かれた文献などからは絶対に知りえない魅力や美しい芸術品を教えてくれた母は、開戦と時を同じくして死んだ。一緒にかくれんぼやサッカーやカードで遊んだユウオウ人の友達は、声変わりもしないうちに迫害や空爆で殺された。僕の持つ両国共存の思想は、シラアイの一部にしか成り得ない。だけど確かに一部を成している。
そして僕はシラアイ政府軍から離反した元特殊部隊隊員のミツに出会い、TPCを結成し、子どもたちを集め、武器を手にした。TPCは、親の世代からまわってきたツケを払わされることに不満をつのらせる子どもたちが、両国共存を叫ぶ集団だ。平和の言葉を何かのシグナルのようにくりかえし口にするのは、僕がこの手のひらに感じる銃の重さを少しでも軽減するためなのかも知れないと、ごく最近になって気づいた。
ささやかな香りで目を覚ました。
朝のおぼろげな光が差しこむ室内。身をよじり、薄い毛布を掻き抱く。ベッドのスプリングが軽く鳴る。そのとき、些末な香りが決して人工的な何ものかではなく、人の匂いだと気づいて上半身を起こす。ベッドの端に、カイがちょこんと座っていた。
僕は手の平で豪快に目をこすり、あくびをした。黄みを帯びた朝日に照らされながら舞う埃の中、何もかもが壊れやすく作られた人形のようなユウオウ人の少女を見た。大きな黒い目が僕をじっと見つめている。シーツよりも白い肌。普通の少女よりもずいぶんにちいさい背丈。昨日のことを思い出す。町から戻ってきたミツとアサギが連れてきた、ユウオウからの不法入国者。早起きなカイを前に、僕はベッドの上にあぐらをかいた。
『おはよう』僕はユウオウ語で言った。
「おはよう」カイはシラアイ語で言った。
言葉の交換ごっこだな、と僕は苦笑した。
隣のベッドではまだアサギが寝ている。僕は早々に起きあがって着替えを済ませ、軽くストレッチをし、海側の窓をあけた。歪んでいるのでめいっぱい力を加えないとひらかない。物騒な音をたててそれを開放すると、浅い陽の光とさざなみの音と浜風が部屋に吹きこんでくる。カイはガラス壁に貼りついて、わずかな光にきらめく水面と同じほどきらきらと目をかがやかせて見ていた。
徐々にのぼりはじめる太陽の光を複雑に受け止めてかがやく海は、昔、水平線の果てにある別の大陸への冒険心をくすぐり、大勢のシラアイ人を乗せた船を幾度も運んだのだろう。シラアイ西海岸は常に世界のどこかとつながっている。
何十分も海を見ていたカイが『コハクはどこの国の人なの』とたずねた。
『シラアイ人だよ。純の』
『私はユウオウ人だよ。純の』
『ユウオウは多国籍民族じゃないからね。友達もユウオウ人ばかりだろう』
『うん。みんなユウオウ人だよ。でも、シラアイが嫌いっていう子と仲良くしようっていう子が、クラスでいつも喧嘩してた』
まるで僕だな、と苦笑した。ユウオウ人迫害を当然だと言うクラスメイトたちと喧嘩になり、大抵僕が加害者扱いされていた。
『カイはどっちだったの』
『私はシラアイが好きだよ。お母さんがよくシラアイの音楽を聞かせてくれたり、お母さんの友達のシラアイ人と遊んだりしたんだ。国なんて関係ないよ。いい人と悪い人はいるだろうけど、それだけだよ。コハクもミツもサチコもアサギも。シラアイ人はひどい民族ってみんな言うけど、理由が分からない』
『そうだね』僕は窓枠に手をついてそっと目を閉じた。『そのとおりだね』
それ以外に何かあるわけでもなかった。
『結局は人種なんてどうでもいいんだよ。同じ種類の犬で毛色や斑の模様が違うぐらいの差しかないんだ。生まれてきた場所が違うだけ。僕らの世代はそういう価値観の元に生きてきて、だから差別が理解できない』
カイが小首をかしげている。難しい話だったかも知れない。僕は彼女の頭を撫でて、世界じゅうの人はみんな同じ人間だってことだよ、と言った。
『みんな』『そう、みんな』くりかえす。
『でもね、コハク。今の世界はいろんなものが差別されていて』
もしかしたら自分の中でも納得していなかったようなことを。
『みんなみんなが友達になるのはできないって、みんな言ってたよ』
まるで臆病者がすがりつく道徳の言葉だ。
カイを連れてダイニングに入ると、すでにサチコとミツがいた。サチコに買い物へ出るよう頼まれ、玄関で靴をはいていると、カイが僕をじっと見あげていた。『危ないからみんなと一緒にいろよ』と言ったが、彼女はそのちいさな腕を僕の腰にまわして離さない。「おいおいファーストさん、レフトフライを取りに行くのかい」とミツに茶化される。僕はため息をついて、カイの手をひいた。
震災で壊滅した町は、直後に起こった戦争で手いっぱいのためまったく復興作業が進んでいない。しかし各派の自治で拠点周辺が区画整理され住み分けはできている。一般市民を暴動などから遠ざける目的もあったが、過激派が町で騒動を起こし、非武装の民間人が巻き添えになることも日常だ。この国はかつての先進国としての威厳を失い、ひとりでは道を歩けないほどに荒れている。
僕らはいつも、廃ホテルのある岬から内陸の北北東側にくだったところにある、共存派が多く住む町に出る。このあたりも当然のように廃屋だらけで、軍が建てた仮設住宅やテントで隙間を埋めている。さらに北へゆけば国民評議会と人民軍の本部がある。軍隊のトラックなどが通ると砂埃が舞うので、僕は着ていた上着を脱いでカイの頭にサリーのようにかぶせた。町の一画にある小学校の校庭を使ったマーケットに、僕はカイと共に入った。子どもが子どもを連れて歩くのも珍しくはないが、TPCをよく知る馴染みの人や軍人からは声をかけられる。
主に「よう、コハク。そのガールフレンドはどうした?」と。
「人妻との隠し子」「皮も剥けてねえくせに」「マダムの庇護欲を煽る絶倫だから」
僕はカイから手を離さないまま、数日分のパンと一ガロンのミルクを買った。テントやパラソルが立ち並び、老いも若きも物資を分けあって戦争を乗りきろうという気迫が漂う。大勢の人がごったがえし、にぎわっている。TPCは過激派の極左など一部を除いて共存派の大人からはむしろ歓迎されているし、互いに顔見知りが多い。が、だからといって無邪気に市街地をうろつくことはできない。過去、別の共存派の居住区内で無差別テロを起こした反ユウの過激派もいたぐらいだ。早く済ませて帰ってしまおう、と思った。
僕はポケットの中の硬貨を出すため「ちょっと持ってて」とカイにパンの入った紙袋をあずけた。重そうに袋を両手でかかえている。「女連れとは呑気だなコハク」「男連れよりましだよ」そんな軽口をたたきながら硬貨を店先のおじさんに渡しふりかえると、カイはそこにいなかった。
僕は周囲を見わたした。ただひたすらに人混みと、人混み。戦争が起こる前の地元のマーケットと変わらないにぎやかさが今は恨めしい。子どもひとりを見つけるのは困難だった。ジャケットの下におさめた拳銃を確かめ、僕はカイの名前を呼んだ。だが返事は、ない。近くを歩いて探してみるが、いない。
さっきまで僕にくっついてたくせに。心の中で悪態をつきながらさらに奥へ進んでゆくと、廃校舎の隙間に隠れるようにして、紙袋を抱えたカイが立っているのを見た。僕はすぐに呼びもどそうとしたが、彼女の前に立っている男の姿をみとめ戦慄した。ジープが横ぎって一瞬視界をさえぎる。
薄汚れた麻の服に身を包み、髭を蓄えた中年男性。見た目では国籍まで分からない。僕は飛び出し、男の腕をつかんで「おい」と叫んだ。すると男は信じられない力で僕を廃校舎のあいだにひきずりこみ、両肩をきつくつかんだ。カイが悲鳴をあげるが、群衆の騒ぎ声にかき消されてしまう。
「どこかで見たことがあると思ったら」
口に砂を含んでいるような声で男が言った。「TPCの隊員だな」
顔をしかめる。汚れが付着した彼の髭のあいだから金歯混じりの歯が見え、裕福な家の出であることをうかがわせた。肩が脱臼するほど痛い。カイが何事かをユウオウ語でわめきながら、パンの紙袋を男に投げつけた。彼は舌打ちをし、腰から拳銃を引き抜いた。
そこから先の僕の行動は、自分でも信じられないほど速かった。男がコルト・ガバメントを手にしたとき、僕は自由になった手で男の肘の関節を的確に打った。彼が銃を落とした隙に僕はリボルバーを抜き、男の足の甲を撃つ。銃声が響き、買い物をしていた人たちが金切り声をあげてしゃがみこむ。よろめきながらも地面の銃を拾った男との間合いがとれず、反撃の銃弾を二の腕に喰らった。かすめた程度だが筋肉が死ぬほど痛い。男を外へ乱暴に蹴りだす。僕は低くしゃがんで背中にカイを隠し、生まれたての子馬のように立ちあがろうとする男に銃口を向けた。周りの人たちは離れた場所で身を低くし、頭を抱えて震えている。
「そうだ、僕がTPC副司令官のコハク・ベンディクスだ」
僕はめいっぱい叫んだ。周りにいる民間人に自分は味方だと伝える意もこめて。男は片足を損傷しながらも立ち、同じように銃を向けた。抜けるほど青い空の下で、人々が恐怖に震える市場。そんな場所じゃない。ここで暴動を起こすと無駄な犠牲者を出す。
男は長い前髪の中でぎらりと光る目を、カイにまっすぐ向けた。この男は僕じゃなく、カイが欲しいんだ。そのことにはとっくに気づいていた。
「そのガキに用があるんだ。コハク・ベンディクス。お前にする話じゃない」
「対話で済む用件なら僕が聞く。必要とあらば彼女に答えを求めるよ」
「必要かどうかはお前に関係のない話だ」
「彼女は僕の大事な人だ。見ず知らずのおっさんと話しちゃいけませんって普段から教えているんでね」
「そいつのセクレタリーか何かのつもりなのか? さあ、物騒な銃をしまおうぜ。銃弾で叶う会話は一方的すぎやしないか」
「こっちのセリフだよ」僕はぼそっと呟いた。腕が痛い。生ぬるい血が手首まで伝う。カイが背後で震えているのが分かる。
一秒たりとも銃身をそらそうとしない緊迫した状況に耐えられなくなったか、男がふんと鼻を鳴らした。
「橋はどこだ」
「橋?」僕は拍子ぬけて素っ頓狂な声をあげてしまった。「そんなのどこにでもあるじゃないか。それとも川への地図でも書いてやろうか。方位磁石は自分で手に入れてくれ」
「知らないことはないだろう。TPCは子どもだけとはいえ、情報網を甘く見てはいない」
「それはどうも。橋ぐらい見たことあるよ。存在定義を哲学的に話せばいいのか?」
「ふざけるな」男は一発撃った。僕のすぐ足元に。砂がはじけ飛んで、周囲の一般人が悲鳴をあげてさらに低くしゃがみ、子どもが泣きだす。歯を食いしばり、どうにかしなければと思うも、僕には彼の要求の意味が何も分からなかった。
「橋はどこかって聞かれたら川へ行けって言うしかないだろう」僕はヤケになって叫んだ。
「ガキが、頭がいい連中ばかり集まっているとは聞いたが、大人をなめると自滅するのは自分だぞ」
「どっちがだよ」と言いかけたところで男が無作為に発砲した。近くの酒樽に命中して中の酒が吹きだす。ひときわ高い悲鳴があがる。やばい、と思った瞬間には彼の二発目が僕の頬をかすめた。細く熱い風が起こる。間をおかずにトリガーを引くと、男の脇腹に当たる。よろめいた男の三発目を、カイを抱きかかえて横へ飛んでかわした。うつぶせの状態で二発撃つ。一発ははずれて近くのテントに穴をあけ、もう一発は男の手の甲にかじりついた。弾はあと二発。砂埃が邪魔だ。手首を押さえて悶絶する男のみぞおちを、地面についた右手を軸にして蹴りあげると、傷口から冗談のように血が吹き出た。そのまま彼の喉元に銃をつきつけ、叫んだ。
「いいニュースだ。ダンテの『インフェルノ』を読んだことが? 地獄の門をくぐったあと、死者は小舟に乗ってアケロン川を渡るそうだ。ああよかった、探せば橋のひとつぐらいありそうじゃないか」
つづく二発の銃声に黙らせた。男は僕の足元に倒れこみ、そのまま動かなくなった。風穴のあいた首から泉のように溢れる血と硝煙の匂い。僕はかるく正気に戻り、地面にへたりこむ。被弾した腕がようやく痛みはじめる。砂塵まじりの酸素をめいっぱい吸って荒い息をととのえながら、脱力してしまった。頬を汗が伝う。廃校舎の影で怯えているカイに『もう大丈夫』と言って手を伸ばしたが、彼女は涙を目に浮かべて動こうとしない。おそるおそる立ちあがりはじめた周りの群衆。「コハク、けがをしているじゃないか」と叫びながら駆けつけてきた人民軍の知人に頭をさげて謝る。僕は男の死体をひっくりかえし、血まみれの彼の上着を乱暴に破いた。内ポケットのさらに内側に、オリジナルらしい軍章のバッジがしまわれていた。反ユウオウ民族をかかげる武装組織「リーブル」の隊員だ。
悔しさにつよく地面を殴った。僕は未熟すぎる。TPCを作ったときのミツとほぼ同じ年になって、まだこのざまだ。正当防衛だったとは周囲の民間人が証言してくれるだろうが、他にいくらでも手はあったはずだ。カイが殺されるかも知れないという恐怖に駆られ、詳細を聞く前に殺してしまった。できれば殺したくなかった。命を狙われなければ、もっとどうにかなったかも知れないのに。
えらそうに人を批判できないだろう? 僕は舌打ちする。
カイがゆっくりと僕のそばへ歩いてきた。そして子猫のような弱々しい力で僕の上着をひっぱる。早く帰ろう、こんなところにいたくないよ、コハク。彼女は死体を見るまいと目を瞑っている。そのあいだから涙が溢れる。息を詰まらせてしゃくりあげる。僕は彼女の頭を優しく撫でて抱きよせ、『大丈夫、もう怖くないから、ごめんな』とささやいた。カイが何を怖がっているのかは分かりかけていた。騒ぎを聞いてかけつけた人民軍の隊員や自治体の知人たちに軽く状況を説明し、足早にマーケットをあとにした。
早くこの場所から離れたかった。カイの記憶に血の匂いが染みつく前に。僕はこれまで大勢の暴徒化したシラアイ人を殺した。僕ら共存派の存在を知らないユウオウ人に殺されそうになり、殺したこともあった。そして今、僕はどこにいるのだろう。弾丸を失ったリボルバーの感触が、手にしつこいほど残っている。ぐずりつづけるカイの手をひいて歩きながら、僕は何度も首をふった。
廃ホテルに帰ってきた僕はまっさきに叫んだ。
「人づてに聞いたんだけど、橋って何のことか、誰か知ってるか?」
テーブルで銃の手入れをしていたミツがこたえる。「河川、海峡、谷、交通路の上をまたぎ、道路や鉄道やライフラインを通すために使われる構築物。材料は石やら木やら金属やらさまざま。アーチ型や吊り橋型が多い。哲学的な答えを求めているの?」
僕はため息をついてソファに倒れこんだ。「親切にありがとう。求められるだけの橋の存在意義があるんだろうなとは思う」
「人づてに橋の存在を初めて聞いた十代はきっと先進国ではコハクだけだ」
「そう、本当に人づてに聞いたんだよ。『橋』を探してるらしい」「川に行けって言えばいいのに」「アケロン川へ案内してやった。殺されかけたから」怒られた。当然だ。
おかえり、と笑顔で部屋に入ってきたサチコにも同じ質問をした。「川に行けばあるんじゃないかな」と言われてそりゃそうだとつぶやく。
『カイ、あの男と何を話していたんだ?』僕の足元にちょこんと座るカイに聞くと、半泣きのまま『橋はどこにあるのかって聞かれた』とこたえた。
寝坊してきたアサギには「知らないことそのものは罪じゃないけど橋のなんたるかを知らないのは恥と思え若人」と馬鹿にされた。
「誰から聞いたんだよ」
「武装してた反ユウ派のやつに。さらに問いつめたいならシャーマンを呼んで葬式に参列するしかないな」
それを聞いてアサギは苦い顔をした。カイはミルクの瓶をサチコにあけてもらい、コップについで飲んでいた。真っ白な液体が、同化するようにカイの口に消えてゆく。ほとんど溶けあってしまう。カイは僕が反ユウ派の男を殺すところを見て泣いていた。無垢な子どもでありながらその実、見透かされている気がした。白いミルクの跡を唇のまわりにつけて、カイはまっすぐな瞳で、それこそ疑問でいっぱいの悲しげな表情で僕を見た。それが僕の意志をひどく狂わせる。
その夜、僕は夢を見た。
廃ホテルの窓から見える海が、丘を形成するようにゆっくりと盛りあがり、フラットな水面がやがて生き物のように躍動する。岬を削り、リアス式海岸を海水が水平線へ向かって進んでゆく。破砕音に近い波音を立てて崩れた海水が、地面をえぐるほど強くめぐり、世界のすべてと同調してゆく。共鳴する。あらゆる国の海岸へ運ぶ。惑星をひとめぐりするように、だけど慎重に、新しい波音に恐れる子どもたちを優しくなだめながら。騒ぐ大人たちを尻目に子どもたちが遊ぶ。まぎらわしいほど楽しげに。何かが崩れる音がした。僕らを守ろうとするために。海岸沿いに散らばった屍は、その上にちいさな花をいくつも咲かせて異臭を放つ。海の広さを怖がらない子どもたちは風を追い、潮騒に涙を流さずにはいられない。瓦礫も廃墟も死体も巻き込んで、波は世界をめぐる。引き潮でむき出しになった海底がモーゼの十戒のように、他の大陸に歩いてゆくための道を作る。僕はためらい、ひいてゆく海水に誘われつつも、海岸沿いでいつまでも足踏みしている。息を止める。耐えられそうになかった。過去に誰かここを渡ったことがあるのだろうかとばかりかんがえていた。取り残されそうだった。水がきらきら光って、手のひらほどの虹が見えた。
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