廃墟に咲く一輪の花とありったけの幸せを贈る

真朝 一

第1話

 初めて人を撃ったとき、僕は泣けなかった。

 グレネードランチャーから撃ちこんだ催涙弾の白煙が、崩れかけの廃ビルのあいだを縫うように広がってゆく。だが道路を占拠していた千人あまりのデモ隊は、酢を染みこませた布で口元を覆い薬剤を中和していた。どこからか盗んだアサルトライフルを各々かかげ、咆哮と共に防弾盾の列に突進してゆく。盾の向こうにいる軍服の治安部隊は、銃器を持った民間人に容赦なく発砲する。ホースの先を指でつぶしたように吹きだす血。鳴りやまない銃声。空爆後の町で波及する暴動。両思想の過激派同士のぶつかりあい。原型が分からないほど顔がひしゃげた青年。鉈で頭の端を切り落とされた人民軍の隊員。惨劇。僕は泣くこともできないまま、ランチャーの代わりにかかえたサブマシンガンを唸らせた。のけぞって崩れる民間人に血しぶきに嬌声。喉の奥から砂を含んだような息が漏れる。途中で咳きこんだ。その隙に鉈を振るおうとした青年を、ミツが僕の背後から撃った。恨み辛みをなみなみこめた目で、青年は僕の足元に崩れた。電流でも流されたように痙攣する。血の臭いがせりあがる。頭上に連合国軍のヘリが飛来し、重機関銃をデモ隊に向けて乱射する。あふれる死体。血が、砂が、対空砲が、飛ぶ。

 紛争がはじまったとき、僕は十三歳だった。



 瓦礫だらけの町の裏手に、美しいコバルトブルーの海は、あった。

 全身の血が足の指先から脳天まで一気に逆流するような錯覚。僕は鼻をつまんで窓枠を蹴り、さほど高くない崖を海まで落ちていった。風に翻弄されながら足から着水すると、一瞬の衝撃と痛みがまんべんなく肌を刺す。内臓を四方から殴られたような嘔吐感。水の中で天地を探してもがき、きらきら光る水面へ顔を出す。髪が顔に貼りついて気持ち悪い。一拍遅れて感じたシラアイの海の冷たさ。海流のせいで水温が低いとかどうとか、学校で習った気がするけど、忘れた。

 水中で何かにぶつけたのか、右足の甲がざっくりと切れていた。黒みがかった海水が僕の血で濃い赤に染まっていく。水面をただよっている海藻や木切れや軍服の切れ端が飲みこまれてゆく。僕は立ち泳ぎをしながら岬の廃ホテルを見あげて、二階の窓から顔を出しているサチコに向かって叫んだ。

「ほら、やっぱりさほど冷たくなんかないさ。大丈夫だよ」

 真っ白なワンピースを着たサチコが、呆れたように笑って首を振っていた。彼女の鎖骨に垂れたネックレスが、僕にも分かるほどはっきり光る。本物のジュエリーじゃない、ミツがいつだったか、どこかの町で拾ってきたイミテーションだ。彼女の長い黒髪が潮風にもてあそばれる。

「でも、ミツの真似をしなくてもよかったでしょ。けがしてるじゃない」サチコが叫んだ。

「君はいつもアサギの真似をしてばかりだったじゃないか」

「アサギはとくべつなのよ。コハクよりずっと賢いわ」

「まったくだ」僕は笑ってバタ足をする。岩場に手をついて這いあがったとき、顔からしたたる海水をなめてしまった。ぬめる岩にはりついて、僕はホテルへ戻るべく岸壁をよじのぼっていった。

 その西洋風の廃ホテルは海沿いの岬に建てられていて、僕らがきたときにはすでに戦火や大震災の打撃を受け廃墟同然となっていた。行政も誰も後処理に着手せず、全備品が現在まで放置されている。瓦礫を片づけ、水道や電気を整備すればじゅうぶん住めた。だから以前に軍人か一般人かが使っていたらしく、ときどき空の酒瓶や薬莢などが転がっているのを見つける。客室にある西側の窓をあけると下は崖だ。波が常に岩場にタックルしていて、僕もミツも以前からずっと「ここからダイヴしたい」とぼやいていた。

 かなりの時間をかけて崖をのぼりきると、サチコが大きな布を持って立っていた。足が血まみれになっていた僕は、「汚れてしまうよ」と言った。前髪からぽたぽたと雫が落ちる。真夏の暴力的な日差しが焦げるかと思うほど熱い。

「平気よ。これ、空き部屋のベッド・シーツだから。身体を洗ったあと、思う存分拭きなさい」サチコは笑った。

 彼女がほうり投げたシーツは空中でふわりと広がり、中途半端に勢いをなくして落下するのでつかまえる前にすっぽり全身を覆われた。それを剥がして髪を振りみだすと、ぱらぱらと飛び散る海水にサチコが顔をしかめる。

「まるで犬だわ」

「筋がいいね。僕の前世はハスキーだったんだよ。凍りついた北国の湖の上を、人間の乗ったそりをひいて、懸命に走ったものさ」

 サチコは子どものように笑ってくるりと踵をかえした。純白のワンピースがカーテンのように揺れる。

「もうすぐミツが帰ってくるわ」

 髪が潮くさい、と思いながら彼女の背中を見送った。ワンピースの裾にしつらえられたレースが、細く伸びた彼女の足を美しく見せる。

 僕はホテルの中庭の、花壇用スプリンクラーの水道管が破れて水が噴き出しているところへ行った。割れ目から高く吹きあがる水は、光を反射して虹色にひかりながらコンクリートのくぼみにたまる。あふれた分は割れた地面の傾斜に沿って流れ、崖から海へ落ちてゆく。くぼみに立って頭から透明すぎる真水を浴びる。髪と肌の表面を手でこすって海水をすすぎ落とす。身体を拭くと下着とジーンズだけはいて、けがをしたほうの裾をたくしあげる。血は止まったが力を入れると痛いので、かばいながらホテルのほうへ歩いた。

 ホテルのエントランスはロビーのソファを組みあげて作った高く厚いバリケードでふさがれているので、裏手にある従業員出入り口から入る。その気になればどこからだって入れるのだが、僕とミツはなんとなく、ここに来た当初、真っ先に正面エントランスを封じることにした。階段で十二階へあがり、従業員通路から客室フロアへ出る。イタリアの宮殿を模した壁紙や装飾品がうつくしい。フロアの中央は吹き抜けになっていて、下を見ると一階ロビーの中央に落下したシャンデリアの頭頂部が見える。前衛芸術のオブジェみたいだ。放射状に広がる金色のガラス片。廊下をすすんでゆくと、通路の隅にうつぶせで転がっている忘れられたテディ・ベアを見た。

 震災と大統領暗殺から三年。僕らは戦争のまっただなかに、現実との兼ね合いが下手ながら、ただひたすら自分の意志と祈りだけを貫きとおしていたいと願う。戦火に希望を見いだすことがどうしてもできずに、崩れかけの廃ホテルに籠城する。

 僕らが拠点にしている一室は、最上階のいちばん端にあるVIPルームだ。メゾネットもふくめて五部屋もある。海沿いの壁はガラス張り。カテドラルを模した天井画。初めておとずれたときは倒れた家具が散乱していて、蜘蛛の巣や動物の死骸やガラス片があちこちにあったが今はきれいに整っている。

 痛む右足をひきずりながら玄関に座りこみ、サチコ、でっかい絆創膏をくれないか、と叫んだ。だが、部屋の奥からはサチコのものとは違う声がかえってきた。

「有刺鉄線で縄跳びでもしたのか、コハク」

 廊下に出てきたのはミツだった。シャワーを浴びていたのか肩にタオルをかけて、よく鍛えられた大きな身体のあちこちに包帯を巻いて。僕は足の痛みも潮くささも忘れて、あいかわらず人を小馬鹿にしたように笑うミツを、同じように笑ってにらみかえした。

「やあ、前にどこかで会ったことが?」

 四十年ぐらい昔にな、と言ってミツは幼い子どものように破顔する。軽くハイタッチ。無事だったか。この程度で死なないさ。アサギはどうした? 途中ではぐれたけど大丈夫。大丈夫ってお前なあ、まだちっちゃいのに。さっき無線で連絡が入って、海沿いにこっちへ向かってるってさ。

「よくやるよな、僕よりずっと副司令官に向いてる」

 僕はしあわせそうに笑う天使が描かれた天井画をあおぎ見た。右足を浮かせて立ちあがり、「有刺鉄線の縄跳びをぜひお試しあれ。足に引っかけるとこうなるから気を抜くな」と言った。ミツは僕の頭を叩いて笑った。彼より十センチほど、僕は背が低い。

 美しいオーシャンビューをかなえる壁全面のガラスは、爆撃の影響がほとんどなく、少しヒビが入っているていどだった。そのすぐそばのソファで、サチコは細く白い足を無料でさらして眠っていた。さっきまで元気に起きていたっていうのに。僕はその隣に腰を落としてため息をついた。無防備でしあわせな寝顔。彼女の容姿は嫌というほど整っている。

「男がふたりもいるこの状況で悠然と寝ていられるのってすごいな」

「知らないんだよ、素で」ミツが棚の抽斗の中を順に見ながら言う。「状況とか、人の目とか、常識とか、体裁とか、そういうのは彼女にとって些末すぎるんだよ。素直で嘘を知らないし、自分をあざむいたりしない。そんな素直さによってたくさん傷ついたり騙されたりしたんだろうけど、サチコ自身の、何ひとつ疑いようのない願いが彼女を守ってて、だから根本的なところは傷つけられずに今まで生きてこれたんだよ。才能だね」

 ミツは抽斗の中から救急箱を探しあて、いちばん大きな絆創膏を僕に投げてよこした。赤く腫れた足の甲の傷口にそれを貼る。きっと、サチコは玄関でミツを見た瞬間に安心して眠ってしまったのだろう。彼女の身体は頭のてっぺんの髪から足のつま先まで水面のようになめらかで、ひっかかるものがなくて、うつくしい。まっしろな肌に汗の玉が浮いて、それが戦争の激しさと裏腹にかがやく青空を複雑に屈折させてうつしだしていた。

 サチコはまだ十二だ。少女だ。流されたり変化させられたりすることなく、かといって大人の口ぶりを真似する子どもとは違い、その幼さを自然と守りつづけている変わり者の少女だ。大人とは別。彼女は大人ほど思慮深くもずるくもない。彼女はシラアイ在住の外国人だ。ニュージーランド人の祖父とスウェーデン人の祖母、その間に生まれた父と、日本人の母を持つ。まるでその存在自体が地球をまるがかえしたよう。だけど親族に誰もシラアイ人はいない。だから無意識の差別や選民意識が蔓延するこの時代で、傷つかずには生きてこられなかった。そんな彼女が守りつづける思想の一端に触れるとき、僕はいつも不可視の神秘に接したように畏縮してしまう。

 白いワンピースと黒髪は、ケースの両端に置かれた白と黒の色鉛筆を思い出す。嫌悪するようにもっとも遠く離れた白と黒。だけど彼らの間に敷きつめられた、白でも黒でもない色彩豊かな色鉛筆たちが生むグラデーションによって、溶けるように混じりあう。

 二週間ぶりに会うミツは怪我を増やして、だけど以前よりずっと怒りも悲しみも喜びもめいっぱいかき集めてポケットに詰めこんでそこに立っているようだった。彼こそ子どもらしさをいちばん欠いた子どもかも知れない。僕はサチコに毛布をかけているミツに、それで、と言った。

「その傷はどこでつけてきたんだい」

 ほこりっぽく、窓ガラスのヒビのラインが細く水色にかがやく部屋の中で、ミツは真剣な目つきになり、僕のとなりにしゃがみこんだ。彼の頬にはいくつか擦り傷があり、実年齢よりすこし大人びて見せた。

「やられてたよ。共存派のシラアイ人が、最低でも五十人は」

 ミツが口をあけたときに首に生まれるちいさな皺が、出会った当初よりも深く見えた。彼の目が憤りによって、揺れる。

 ――すごいんだ、まるで映画みたいでさ。どいつもこいつも、腹から内臓はみだして転がって死んでた。足とか手とか目玉とか爪とか、ないもの多いし。短気だよな、抗議デモひとつで装甲車までひっぱってきて。俺、死体が政府軍に燃やされるの、見たんだよ。タンパク質か脂質か何かなのかな、べっとりとしたものが空気中に浮いていて、気持ち悪かった。くそったれが。やっぱり政府も反ユウオウ派の連中も、やってることは暴力なんだよ。人のこと言えないんだよ。俺ら共存派はシラアイを捨ててるって言われてるけどさ、やつらも非道の連中になりつつあるよな。親父を殺したときのように正当化を重ねて。

 ミツは見聞したものをたっぷり語りつくした。反ユウオウ派シラアイ人の武装集団が、共存派シラアイ人のデモに装甲車で奇襲をかけて、大勢の人を殺したこと。その言葉から想起される映像に妙な既視感があった。純シラアイ人のミツはずっと両国共存派だ。都市部から離れたところで一緒に暮らしていた彼の父親は、当時南部にあった反ユウ派シラアイ人の民間武装集団のテントに大勢の共存派とともに特攻をかけ、殺害されたらしい。シラアイ政府軍に志願し特殊部隊隊員として訓練を受け、開戦後一気に共存派側の軍に反旗をひるがえしたミツは、まだ十代なのに大人のすることを大人以上に、じゅうぶんすぎるほど知っている。だからミツが義勇軍TPCの総司令官として武装蜂起したと同時に、拠点であるこの廃ホテルは大人の道理が何ひとつつうじなくなった。離反兵のミツと民間人の僕が手を組んだとき、ここに既存の価値観を葬った。平和をかなえたい。相互共存の道を模索したい。その願いはサチコの影響だ。

 それらは、僕達がうまく機能していられるようにと僕達の知らない誰かがはからってくれたことだ。ずっと前からこうなることを分かってて、はじめから決めておいてくれたことだ。

「君の見てきたものは」僕はつぶやいた。「君の親父さんも見て、憤ったのかな」

「さあな」「無感動だね」「親父だって、見たくて見たわけじゃないだろうさ」

 絆創膏を貼った右足を浮かせて首を振る僕。「同じだよ、きっと」

 僕はサチコの寝顔を見た。二階から海に飛び込んでみせると言ったとき、やめといたほうがいいと思うけどなあ、と笑いながら、けれど一度も止めなかった。もし彼女が海に飛び込んだら、このきれいな白いワンピースはどんなふうにひるがえって、どんなふうに濡れるのだろう。青空を吸いこんだ水を、吸いこんで。

 遠くから雷に似た空爆の音が聴こえた。鳥たちがいっせいに飛び去ってゆく。レコードの針を落としたときに聴こえるブツブツという音みたいに、その音は僕の耳にずいぶん優しく届いた。爆音も、鳥の羽ばたきも、風の音も。優しく覚醒をうながす音。サチコがゆっくりと寝がえりをうつ。



 パイプオルガンの音が、地面を削るような響きをあたえる。レコードはひたすらに盤上でまわる。まわる。古いプレイヤーが何十年も前の、何マイルも離れた国の音楽を奏でる。誰かが忘れた楽器の音の毛先まで僕は記憶しようとした。記憶することは、記憶しようと思うことは、無関心ではない。サチコは音楽ジャンキーだ。あらゆる国の楽器で奏でられるうつくしい音楽が、レコード棚に宝物のようにおさめられている。隣の部屋にある白塗りのグランド・ピアノを弾いているのをよく見る。彼女の身体を流れるたくさんの外国人の血は、彼女が奏でるささやかなメロディーを、最後の一滴が凝固するその瞬間まで覚えているのだろう。

 サチコはシラアイ語と英語とユウオウ語しか話せない。ろくに中学校に通っていなかった僕ですら、その三つのほかには中国語が話せるのに。だから、無邪気なのか無知なのか分からない彼女が最低限の言語しか話せなくて、だけど世界中の歌のレコードを山ほど持っていることが、僕には不思議だった。歌詞が理解できなくてもかまわないらしい。いかれていると世間が声高らかに批判するほど、僕はそんな彼女を差別しなかった。異端とはつまり、瞬間的な空気や状況に合わないだけの問題なのだ。僕は今でもサチコをおかしいとは思わない。ユウオウ語が話せない反ユウ派シラアイ人のほうがよっぽど変だ。

 レコードの針が盤の半分をすすんだところで、ソファに寝ていたサチコがちいさくうめいた。僕は立ちあがって彼女の肩からずり落ちかけている毛布を剥ぎ、それをたたみながら「目が覚めたかい」と言う。サチコはすこし汗ばんだ顔を手の甲でかるく拭うと、うなずいた。身じろいだとき、彼女の踵が肘かけを蹴る。衣擦れの音。桜の花びらの色にやわらかく染まる頬。ボッティチェリの女神と同じ光を、その漆黒の目にひと粒、宿す。

 僕は水をついだコップをサチコにさしだした。彼女はそれを何口か飲んで、夢を見ていたの、と言う。

「廃墟と化した、希望が道路にころがる町で、人々が何万人も集まって手を叩いているの。花火もあがっていたわ。ダンボールにカラーペンで国旗を描いて、それをみんなが高々とかかげるの。英語で『権利、権利』と叫ぶ。トランペットが鳴って、紙吹雪が舞う。靴を履いている人もそうじゃない人も。スプレーで落書きされた戦車にのぼった若者たちが、爆竹を投げて歓喜の声をあげてる。祝福の銃声が響いて、路駐の車やビルが燃える。だけどね、上空に政府軍の戦闘機が隊列をくんで飛んできて、空爆をはじめるの。爆音が響いて、火の手があがって、軍隊が民間人を襲撃して、大勢の人がばらばらになって死んじゃうの。あとに残ったのは、大きなバツが真ん中に書かれた独裁者の顔写真と、国旗とプラカードと酒瓶と、火薬と血の匂いと、人の死体やその破片だけなの。だけど今度はもっと遠い別の国の町で、同じように歓声が起こって、花火があがるの」

 サチコはコップの中の水をじっと見ながら、無表情でそう話した。僕はその光景に見覚えがあった。ここではないどこか遠くの町で、ミツといっしょに見た。大統領暗殺事件のすぐあとだった。武装蜂起した大勢のシラアイ在住ユウオウ人が起こした無差別大量虐殺。シラアイによる長いユウオウ占領のツケだった。駅前の大通りで、ユウオウ人が老若男女問わず撃ち、ピックアップトラックで轢き、手足を切り落とし、子どもに銃で親を殺させ、火炎瓶を周囲の建物や民家に投げこんだ。赤ん坊を抱いて逃げまどう女性、瓦礫をユウオウ人に投げつける男たち、やけどを負って路駐の車の陰で泣く子ども、彼らを銃で撃ち殺す武装したユウオウ人。ちいさかった僕は軍服姿のミツに手をひかれ、暴走する市民の波からはずれて路地にかけこみ、そこに積まれたビールケースの山の中へ隠された。暗く狭い中で膝をかかえ、人々の悲鳴と無数の銃声と爆音を聴きながら、声を押し殺して泣いていた。騒ぎがおさまって外へ出ると、砂埃が舞う路上に転がるたくさんの死体と血がすぐに目に入った。硝煙と火薬の匂い。放置された頭部や手首や耳、鼻から下の顔がない幼児を抱いて泣く母親、下半身だけの男、焼けた車のボンネットに乗った頭の皮と髪の毛。

 約二十年前、経済進出の名のもとに隣国ユウオウを植民地支配した僕らの国、シラアイ。ユウオウ人の多くはシラアイの工場などで奴隷同然の労働を強制され、ユウオウに移住したシラアイ人有力者は占領国の特権を使い下層のユウオウ国民を尻目に悠々と暮らす。正義を騙る共産主義と言論統制にユウオウ人の怒りは募る一方だが、彼らによるデモやクーデターなどはことごとく武力で鎮圧されてきた。そして三年前、シラアイの首都を襲った直下型大地震のどさくさにまぎれて過激派のユウオウ人青年がシラアイ大統領を暗殺し、それをユウオウ政府が擁護したことでこの紛争がはじまった。「隣国の野蛮人」の虐殺をくりかえす宗主国シラアイの政府軍と、武装蜂起した反ユウ派のシラアイ国民による暴動。そして従属国ユウオウの反シラ派団体や政府からの報復攻撃。自由を求め互いの怒りが爆発する。国外勢力の武力介入や右派の元老院議員などが戦況を悪化させ、現在。彼らの両方に反発し、ユウオウの独立と両国共存を目指すのが、国民評議会を中心とする僕ら共存派のシラアイ人だ。売国奴のテロリストだと政府にののしられ、反ユウ派のシラアイ国民との内戦がやまないけど、だからって権益の略取を容認したり共存の道をあきらめたりしない。平和の二文字が現実味をなくしたこの時代でも。

 シラアイは東大陸の西南部に位置し、周囲を三つの国と海に囲まれている。北の国境に接している国がユウオウで、貧富の差は激しく、シラアイの進出と利権漁りがそれに拍車をかけていた。しかし歴史をさかのぼれば同じ民族から発展し、人種も同じなら文化や言葉の起源も同じで、結局は国境など地面に棒きれで線がひいてあるていどのちがいしかないのだ。だけど今ここで、この時代で、戦争が起こっている。

 サチコはコップを床に置き、「ミツは」と言った。

「出ていったよ。君が寝ているとき、遠くで砲撃があってね」僕はこたえた。

 あくまで専守防衛としたうえでミツは暴動や爆撃が起こると羽がついたように飛びだしてゆく。彼は血の気が多い。暴徒が銃を撃つなら問答無用で攻勢に転じる。そうしないと殺されることは分かっているし僕も同じことをするけれど、ミツは父親の件があるからかどこか私怨たっぷりにテロリストを殺す。一般市民も混じっているのに。だから今日も僕は二度ほど止めたが、彼はサブマシンガンを手に断固として行くと言い張った。今ごろ、アサギと一緒に人民軍にまぎれに行っているのだろう。

 サチコはちいさくため息をついて、そんなことを、とつぶやいた。

「砲撃って、一体なんなのかしら」

「分からない。都市への空爆かな」

 ――デモ隊の鎮圧? そうだよ、どうしてそんなに悲しそうなんだい。だって、デモなんて名ばかりで実際はテロと変わらないもの。響きが変よ、両国共存って言いながら、やってることは暴徒じゃない。それで何かの結論にたどりついたとしても、先のことがまるで見えないもの。正義の戦いなんて嫌い。解放されるべきは両方なのに。どうしてみんな、ただの平和を望まないの。

「そうだね」

 僕はそれ以上言えなかった。それしか言えなかった。サチコが望んでいるのはあくまで対話による相互和解なのだ。言葉で伝えることを諦め武力で鎮圧することが、結局は火をひろげるだけなのだとサチコは言う。だけど、現状は対話すら不可能になっていることを、彼女も僕も、知っている。それでも彼女は、戦争の終結をひたすらに願いつづける。やめない。やめようとも思わない。

「不思議な話ね。どっちの国も、自分たちの正義を貫いてるだけだもの。私たちなんて政府から反乱軍扱い。だけど双方望むのは自由と平和。だから争うのね」

 髪を右肩に寄せて言うサチコの目は熱を孕んだように揺れ、それが彼女自身の震えだと気づいた僕は、何も言わず、ただ彼女から視線をそらした。

 僕はべつのコップに自分のぶんの水をつぎ、それを片手にサチコの隣に座った。彼女は反対側に寄る。ソファがすこし僕のほうへ傾く。爆撃を生き延びた最上階のソファは、僕の気分のぶん深く沈んでいる気がした。

「正義には定義がなくて」僕は水をひとくち飲んで言う。「だけど正義という言葉は権力を持つ。正義がのっかれば武力行使だって聖戦になるし、民間の犠牲者が出ても必要悪扱い。流血なくして変革はありえない。その価値観を両国が持ってるから厄介なんだ」

 それを逆手にとって暴れているのが過激派だ。僕は無意識に歯を食いしばる。

 サチコは僕の服の袖にすがりついて、低い位置から僕を見あげた。彼女の目が、分かりきったことのくりかえしなのに分かりきっていないことを非難するような色をしていた。

 ――真の自由と平和はどの正義の結末?

「それは」

 解放されるべきは両国だ、というサチコの言葉がこだまする。

「ユウオウは植民地支配からの独立を望んで、シラアイはユウオウ人の暴虐の被害から逃れたいと願う」僕はちいさな声で言った。「それぞれに自由と平和のための正義があって、だけど片方の自由を叶えるともう片方は叶わない。そうしてまた新しい戦争が起こる」

 うまく言葉にできずに頭を掻いた。平和にはリスクがつきまとう。死体を踏み台にする覚悟もいる。専守防衛を貫いているけど実際そううまくはいかない。平和のための行動が裏目に出たことは歴史上にもたくさんある。だけど国民は己の正義のために火薬をぶちまけ人を殺す。車の上にのぼってプラカードをかかげ、デモ隊と共に祝福の声をあげる。それらの無数の声が、ここに生まれた人間を少しずつかたどってゆく。

 僕は純シラアイ人だ。僕が生まれる五年ほど前にシラアイ政府がユウオウを占領したことになる。若い両親の足元から二百キロほど離れたすぐ北の国で、シラアイ軍の侵攻が行われていた。シラアイはあくまで和平関係を築くためにユウオウを占領下においたのだと強調された教科書を、僕は信じなかった。シラアイは著しい経済成長の果てに飽食国家となったけれど、搾取される側のユウオウは天井知らずのインフレで今のシラアイのようになっていたはずだ。それのどこが正義だと先生に反論すると冷たい廊下に正座させられた。中学校をやめた今も、たいして変わらない。

 サチコも同じだ。学校で習う歴史がはなから不条理だと分かっていて、それに沈黙することを許さなかった。立ち向かって傷つくなら、いっそ血が出るまで切り刻まれてその血痕が永遠に壁や床に残ればいいと思っていた。終戦とユウオウ独立と和解のために。甘いと言われてもかまわない。それが僕らの提唱する自由と平和のための正義だった。

 サチコはそっと目を閉じた。「もう戦いたくない。みんなが平和な世界で笑っていられるようになってほしい」

 彼女の呟きは音の粒になって部屋を満たし、溶ける。空気に同調して、ミルクのように優しくあたたかいものになる。僕は忘れない。ここに彼女がいたことを。彼女の言葉を。

「コハク」

 サチコは僕の肩にすこしもたれかかって言った。「ちょっとおなかがすいてきちゃった」

 彼女の頭はあまり重さを感じなかった。幼いサチコのちいさな身体は、素直すぎて純粋すぎて、世の中に氾濫するうつくしい暴虐や本音建前を受けとめる力がまったくない。彼女の手首は細く、僕はいつも扱いかたに困る。高級な食器や生まれたての小鳥を目の前にしたように触れるすべを知らず、何回りも大きい自分の手で触れることに罪をおぼえて、いつだって躊躇してしまう。

 分かった、ここでちょっと待ってて。僕がそう言うとサチコはシャボン玉が舞うように笑った。僕は玄関で靴をひっかけ、いちどだけサチコのいるソファを振りむくと、部屋のドアノブに手をかけた。が、その瞬間、僕が加えた以上の力が外側にかかり、前向きにつんのめった。鼻先で細い土色の髪が揺れる。ドアの向こうでは、ミツが僕の腰ほどの背しかない薄汚れた少女の手を引いて、あがった息のまま立っていた。彼らの背後で、ライフルをかかえたアサギが廊下のようすをうかがっていた。

 僕は体勢を整え、「アサギ、無事だったのか」と叫んだ。彼は笑って「こんなので死んだらとっくに国は滅びてるよ」と、ミツと同じような言い分を吐いた。まだ幼い笑顔だった。

 そして僕はミツの鼻先に人さし指をつきつけ、たまらず罵倒する。

「いくら女に飢えてるからって、ファーストがレフトフライを取りに行くほど守備範囲を広げなくても」

「くそったれが、そんなこと言ってる場合じゃねえよ。まずこいつを中に入れろ」

 そう言ってミツは、華奢な身体が浮きあがりそうなほど強く少女の手をひっぱった。泥で汚れたワンピースがおおきく揺れ、少女がひどく痛がった。僕はミツの手をつかんで離させた。「御婦人は丁重に」僕は傷だらけの少女を抱きあげてダイニングに入り、ソファで待っていたサチコの隣に座らせた。小学校のなかばほどの少女は、怯えてちいさくちぢこまりながら僕を見あげる。サチコが距離をつめて彼女にそっと寄り添い、「大丈夫よ、怖い人たちじゃないから」と声をかける。年の近いサチコに警戒心をゆるめた少女が、それでも混乱しきって視線を泳がせる。

 僕は靴を脱いで転がりこむミツとアサギに、「この子をまっさきに隠さないといけない理由は」とたずねた。ミツは防弾チョッキを脱ぎながらウィンチェスターM1887を地面に放る。その大げさな音に驚いた少女の肩が跳ね、サチコにすがりつく。

 息があがっているミツに代わり、すこし血走った眼をさらに焦りの色で上塗りして、アサギは吐き捨てるように言った。

「その子は、ユウオウからの不法入国者だ」



2012年執筆

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る