第4話終わりの始まり

「この人、痴漢です」


そこからの展開は速かった。


彼女の一言で周りの乗客たちがようやく行動を起こした。周りと言ってもほんの数人だったが、明らかに、目に見えて、朝の満員電車の空気は変わった。ぶち壊されたと言ってもいい。


有明のおもいつ気まぐれのような正義感によって。


痴漢をした若い男とその被害にあった女性は、次の駅で降りて行った。ちょうどその駅で降りるようだった中年のサラリーマンによって二人は連れていかれた。詳しいことは知らないが、これから警察が呼ばれ事情聴取などが始まるのだろうか。


しかしそんなことは有明にとってどうでもいいことだった。


あの男が警察に捕まろうがどうなろうが、それは有明には関係のないことだった。


しかし、今までそのような局面に出くわしたことの無かった、そしてそのような勇敢な行いが自分にできるなどとは思ってもみなかった有明は、自分に今までにはない可能性を感じていた。


そして、


今までとりたてて特別な行いをしてこなかった自分に。


今まで家族のためにしか働いてこなかった自分に。


絶望していた。


自分は今まで何をやってきたんだと。今日のように、一歩踏み出す勇気を持っていたら。


自分にはもっと別の人生があったのではないだろうか。


それこそ今日のように、困っている人を救える、周りの人間から認められる、子供の頃憧れたヒーローのような人間になれたのではないだろうか。


その日一日、有明はそんな幻想、妄想にも似た戯言を真剣に考えた。


電車の中でも、仕事中も、そして帰りの電車の中でもだ。


真剣に、真剣に、真剣に。


そして結論は、意外にもその日のうちに出ていた。


それは、家に帰った時。家族に迎えられた時、家族のやさしさに触れた時。


ああ、やはり俺が守るのは、この家庭なんだと実感した。今日一日、俺は何をあんなに考えていたんだと、ばかばかしく感じられるほどに。


それは忘れていただけで、有明の中ではとっくに決まっていたことだったのだ。俺は正義のヒーローにならなくてもいい、家族にとってのヒーローでいられたらと、それだけだった。


その日、有明家ではいつものように普通に普通で幸せな一家団らんの光景が見られた。


それから次の日、いつものように有明は家を出た。


昨日有明の頭をずっと占領し続けていた思考はみじんも残っていなかった。


今日から、いや、今日も一日家族を養うために働くのだ。家族のために。


しかし、彼に今までの普通で、平凡で、ありきたりの人生はもう訪れることは無かった。一度、普通というサイクルから外れてしまった有明はもう戻ることができない。


三日後、彼の家族は殺されてしまうのだ。手を下したのこそ別の人物だが、首謀者は満員電車で痴漢を有明に見つかり連れていかれたあの若者なのだ。


実は彼、日本でも有数の財閥の御曹司で、痴漢常習犯だったのだ。しかしさすがは金持ちのボンボンといったところか、多額の示談金を用意して法で裁かれることは無かった。


しかし、今回はそうはいかなかった。


被害者が示談を飲まなかったのだ。なにがなんでも、犯罪者は法で裁かれるべきだと、一歩も譲らなかったのだ。


今回はうまく逃げられないことがわかった男は腹いせ、いや、もっと重い、復讐だ。有明への復讐を計画したのだった。


その結果が、家族を殺すこと。


家族がすべてだった有明にとってそれは、自分が死ぬより辛いことだった。


有明は、自分の気まぐれ、たまたま湧いた正義感によって家族を殺したのだ。


しかし、有明はそれが自分の単なる思い付きが、


家族を殺しただなんて考えもしないだろう。


有明はあの痴漢騒ぎが原因だなんて


考えもしないだろう。


誰だかもわからない犯人を、恨み、憎み、呪うのだ。


「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやう殺してやる殺してやる殺してやる・・・」


ひどく滑稽なものだ。

家族を殺したのは他でもない、自分自身だろうに。


彼は、真実に気づいたときどのような顔をするのだろうか。


それはきっと・・・



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ノーマル 大塚オル @Oru-Oru

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