第3話普通の終わり
その日は朝から妙だった。
毎朝使っている愛用のティーカップの取っ手が根元から折れたり、靴紐が切れていたりと、明らかに不吉の前兆、災いの前触れのような事が起きた。
しかし、有明は今までそういったオカルトチックな事とは無縁の人生を歩んできたので、まるで気にも留めなかったのである。
それが、彼の今まで歩んできた普通の人生の終わり、そしてこれから始まる悪夢のような物語の幕開けの合図だったということに気が付くものは、いなかった。
有明は自宅からの電車通勤だった。
いつものように自宅から徒歩で10分、最寄りの駅に向かう。
その日は、出かける直前に靴紐が切れていることに気が付き、靴紐を予備のものに変えていたので、いつもより余裕がなかった。しかし、普段から不測の事態に備えて、電車の時間の20分前に家を出ているので焦る必要もない。
案の定、5分の余裕をもって駅に着いた。
いつものようにホームに設置されているコンビニエンスストアで新聞と冷たい缶コーヒーを買う。駅に着いてから電車が来るまでの時間、コーヒーを片手に新聞を読むのが彼の日課だった。
朝の通勤ラッシュの時間帯ということもあり、ホーム内の喧騒は帰宅時の比ではない。急いでいる人もいれば、ゆっくりと歩いている人もいる。この世界で生きる人が同じ時間を生きていても、一人一人に流れる時間は違うことをはっきりと意識させられる数少ない場所だ。
いつもより5分、時間が遅いこともあり電車はすぐにやってきた。新聞は普段の半分ほどしか読めなかったが、さすがにコーヒーを車内で飲むのはマナー違反なので残っていた冷たい液体を一気に流し込む。少しむせながらも空になった缶をゴミ箱の中に放り入れ、電車に乗り込んだ。
会社の最寄り駅までは30分掛かる。時間だけ見れば決して長くは見えないが、電車の中、それも通勤ラッシュの満員電車の中だとすれば倍近く長く感じられるのだから、いくら立っているだけとはいえ楽じゃない。
満員電車の狭い車内、邪魔にならないように新聞紙を読む部分だけ見えるように細長く丸めて読んでいた。
たくさんの人がいる中で各々携帯端末や雑誌、新聞などに目をやっている静かな喧騒。
ふいに、今まで新聞の小さな活字に送っていた視線を下に向ける。理由なんてなかった。本当にたまたま、何となくのことだった。
そこで目に入ったのは、よくありがちな、しかし実際に見るのは初めての犯罪行為、痴漢だった。
本当に、思い付きからの行動だった。
明日の自分だったら、そんなことしようと思わなかったかもしれない。
明後日でも、その次の日でも、同じ場面に遭遇しても見て見ぬふりを決め込んでいたかもしれない。
それくらい、その行動は思い付きや気まぐれ、何となくで済まされてしまうくらい、やはり何となくの正義感だった。
有明は咄嗟にその痴漢魔、20代くらいに見える若い男の腕をつかみ言った。
「おい、自分がやっていることが何なのか、わかっているのか。」
有明はそれほど大きい声を出したわけでは無かった。しかし、静かな車内で発せられたその声は本人が思った以上に響いてしまったわけで。
車内の視線が有明とその有明が腕をつかんでいる男に集まる。男は咄嗟に顔を伏せた。周りの人間から顔を見られることを気にしているようだった。男に腕を振りほどこうと抵抗する意思は感じられない。
そのまま、男が黙って何も言わないでいると男の目の前にいた女性、つまり今痴漢を受けていた女性が震えながらも、はっきりとした声で言った。
「その人、痴漢です。」
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