2◆最悪な朝

 目の前が真っ白になった。


 ぬいぐるみが喋ってる、浮いてる。

 認めたくないが、事実らしい。


「ぬいぐるみじゃないよ、宇宙人宇宙人」


「フェルト地の宇宙人がいてたまるか。どう考えてもコレは、手芸の結果生み出された代物だろ」


 顔洗うのも飯食うのも忘れて、俺は部屋まで舞い戻った。手すりを使わなかったら、うっかり、階段踏み外して下まで転げ落ちるところだった。

 ぬいぐるみがどうだのこうだの、夏の暑さが見せる幻影だ、そうだ、そうに違いない。


「お……落ち着け、俺。暑さで混乱してるだけだ。よぉーく考えてみろ、あれは、中に、何かが仕込んであるんだ。ハ……ハハハ。……俺としたことが。一瞬、本気で宇宙人とやらを信じてしまうところだったぜ」


 脂汗じっとりの額を手でぬぐう。

 心臓がバクバクする。


 そうだ、これは絵理のイタズラだ。アイツめ、また俺が寝てるときに勝手に部屋に忍び込んだな。

 この間は、ベッドにアマガエル三匹入れられてたんだ。危うくつぶしてしまうところだった。

 その前は、飲みかけのペットボトルの中に、おもちゃの青虫が入っていた。うねうねしていて、まるで本物かと思ってこの世のモノとは思えない奇声を上げてしまった。

 最近は女子中高生向けの通販でも、こういうゲテモノグッズ取り扱ってるらしいから困る。

 可愛い顔してるクセに、異常なくらいイタズラ好きで、俺のことを実験台か何か、そういう存在だと勘違いしているらしい。

『反応が面白いんだもん』って、その声で言うな……、明らかなアニメ声で言うな……っ。


「エ、絵理も、手の込んだイタズラをするようになったもんだな。今度は遠隔操作か……、マ、マイクまで仕込むとは……。一体、どこで、そういう道具を調達してくるんだ。ほんっとーに、わけわかんねーヤツだな」


 俺の心拍数は一向に下がらない。

 声は上ずるし、顔は引きつるし。

 絵理がどこかでニヤニヤしながら俺の反応を見てるかと思うと、妙な動きは出来ない……。そのくらい、油断できない相手なのだ。

 ベッドの上にデンと腰掛け、俺はゆっくりと深呼吸した。これ以上醜態をさらすと、また絵理のヤツが調子づいて、『孝史は面白いねぇ。仕掛け甲斐があるねぇ。次は何がいいかな~』キャハハハって、可愛い声でわざとらしく笑いながら、目を光らせるんだから。


「ねぇ、さっきから、何言ってんの、タカシ君。お隣の絵理ちゃんがどうしたのさ」


 緑の物体がダミ声で言う。


「だからぁ、絵理が夜なべして、チクチク縫ったんだろ。裁縫は苦手だったとか言ってたけど、俺を脅かすためなら努力は惜しまない……、そういうヤツだからな。夏休みでダラダラしているところを襲撃して、一人暑気払いしようとか、そういう魂胆……って」


 腕組みして気持ちを落ち着かせ、ようやくスラスラ台詞が出るようになったところで、俺はやっと、何かがおかしいことに気づき始めた。


 ……ラジコンのクセに、音がしない。起動音? あれ、プロペラは?

 てか、待てよ。縫い目……。


「あれ、絵理、腕上げた? ずいぶんと縫い目が無い……キレイな仕上がりだなぁ。この、音声出す度に、口元の縫い目が動くのはどういう仕組みなわけ?」


 そっと、手を伸ばす。何気なしに、緑の物体を触ろうと思ったんだ。

 あと数センチで顔に届きそう、思ったところで、パチンと、見えないモノに弾かれた。静電気のような衝撃に、俺は思いきり、手を引き寄せた。


「もう~、タカシ君。現実を受け入れなよ。君の前にいるのは宇宙人であって、手芸のぬいぐるみじゃないんだよ。種も仕掛けも縫い目も無いの」


 今度は、肌色の顔部分のフェルトに茶色の刺繍糸で付けられた目ん玉が、グニャッと動いて、怒りの表情に。


 な、なんだ、コレ。

 俺は、目をぱちくりさせながら、宙に浮いたヤツの胴体をゆっくり観察した。


 普通、そういう所は動かない。刺繍糸で出来た目の表情が、変わる?

 口だって、さっきからよく見てりゃ、赤茶の刺繍糸だ。喋る度にグニャグニャと自在に動いている。

 細い腕も足も、針金通したみたいに、曲がるべきところでしっかり曲がってるじゃないか。


 目の前にいるのは、フェルトのぬいぐるみ……じゃないのか。

 むしろ、フェルトのぬいぐるみのふりをした何か、と言った方が妥当……。

 

「ちょ、ちょっと待て! 分かってる分かってる、これは夢だ。顔、そうだ、顔叩こう」


 ペチンペチンと、ドでかい音が出るまで、両手で頬を叩きまくったが、痛いだけだ。ってか、痛い、腫れる。夢じゃない。やばい。

 俺としたことが、ベッドの上で一人芝居、決してクラスメイトには見られたくないくらい無様な状況だ。目立たないくらい普通で、これといって特徴のない、モブ……つまり、その他大勢の中の一人、それが俺、佐名田孝史じゃなかったのか。

 てか、何だこの漫画みたいな展開は……!


「うおぉぉぉぉっ」


 叫び声を上げて立ち上がった。理解など、出来るかっ!


「暑い!!!!」


 ダラダラと、アゴから背中から噴き出た汗が、勢いでビシャッと畳に飛び散った。

 朝から暑いし、ぬいぐるみが宇宙人だとかほざくし、わけわからんどころの話じゃねぇ。

 混乱もする。当然の話だ。

 だいたい、朝から気温が三十度あるってことは、この時間、二階の部屋はとうに三十五度まで上がっているということ。つまり、熱中症! 熱中症予備軍! 


「そうだよ、俺きっと、具合が悪いんだ。身体を冷やしてゆっくり休もう。そうだ、それがいい。ああ、飯、飯食ってない。栄養採って、それから、扇風機ガンガン付けて、氷枕して休めば、変な幻覚も見ないで済むかも知れな」


 そこまで言って、緑の物体は、ふわっと俺の面前、あと数十センチまでぐっと迫ってきた。


 手足の裏からも、汗が噴き出してくる。


 蝉の鳴き声と、近所のおばちゃんたちが日陰で井戸端会議する声と、かすかな風でカサカサと葉の撫でられる音。

 そして、緑の物体。


「タカシ君、これは、幻覚じゃないんだ。君はこれから、地球を救うため、ヒーローになるんだ」


 また、ダミ声がなんか言った。

 俺はまた、耳を疑った。


「なんだその、漫画やアニメでしか耳にしないような台詞は」


 条件反射のように、すかさず突っ込んでしまう。

 トリビーは、俺の言葉を待ってましたとばかりに、刺繍糸の目を見開いた。


「ボクはね……、はるばる、宇宙の彼方からやってきた、本物の、宇宙人なんだよ。コレはあくまで、仮の姿。この星に紛れるため、より自然で、より効率的な格好に、変身してるんだよ」


 じわじわと、距離を縮める。グイグイ迫る。


「う……嘘だ。そんな馬鹿なことがあるか。俺は絶対に信じないぞ、信じてたまるか……!」


 にじり寄られ、ついに、ベッドの上に仰向けで倒れ込んだ。

 無表情のフェルトのぬいぐるみの、ヘルメットのてっぺん、丸いアンテナみたいな球体がビカッと怪しく光った。

 ホンニャラホンニャラと、聞いたことのない言語で何かを唱え、右手を高く掲げてぐるっと大きくひと回し。


「キエ――――――ッ!!」


 昭和五十年代の漫画にしか登場しないような奇声が、六畳の狭い室内に響き渡る。

 俺も釣られて、


「どわ――――――ッ!!」


 アゴが外れそうになるくらいでかい声で、一緒に叫んだ。

 叫んだあとで、部屋の入り口に本来あり得ないモノを見つけ、更に、


「ぎゃあ”あ”あ”ぁぁ~~~~~~!!!!」


 目玉焼きが、皿が、牛乳パックが、食パンが、ジャムが、


「浮ぅ~いぃ~てぇ~るぅ~~~~~!!!!」


 暑いだの、腹が減っただの、気分が悪いだの、そんなの、どーでもよくなった。

 頭の中が真っ白になるってのは、つまりはこういう状態だ。


 緑の物体は、宙に浮いたまま小躍りして、


「やった~っ、タカシ君が驚いた~。たぁ~のし~な~~」


 台詞のあとに音符が何個も連なるくらいの、大喜び。


 食卓から、文字通り飛んできた食い物たちは、俺の口の中にどんどん突っ込んでくるわ、牛乳はジョバジョバと、頼んでもいないのに自動で仰向けの俺の口に注ぎ込まれるわ、さんざんだった。


 結局、俺はこの、どうしようもない宇宙人のことを信じるしかなくなってしまう。

 なんで……なんで、ぬいぐるみの形した宇宙人が、俺んとこに……。

 俺の、うざいくらい暑苦しい夏は、こうして始まったのだ。

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