第18話 ずいぶんとぶっ飛んだ仮説

 折れた右手首のギプスが取れて3Dプリンター出力の硬化ネットに変わる頃、優一が退院した事を園は知った。


 ただでさえ細い手首がさらに痩せ細ってしまった。それでも十五週間もベッドの上でただ思い出を聞かされるだけだった優一に比べればまだましか。相当に衰弱していたらしい。園は久しぶりに利き腕でタバコを摘まんで、優一の痩せ衰えた顔を思い浮かべながらタバコに火をつけた。ジッポライターは青白い炎を灯していた。


 優一はエレクトリカになれたのか。


 そんな愚問に、いくら考えたところで答えが舞い降りて来る事はない。


 その疑問に答えられるのは、それを実行した人間だけだ。園が導き出した結論が正しければ、この仕事もようやく終わりを迎えるはずだ。


 園はタバコをくわえ、唇で噛むようにしてフィルターの感触と香りを味わってから胸いっぱいに一服深く吸い込み、電脳からダイレクトにメールを送信した。


『こんばんは。厚生労働省電脳保健倫理委員電脳解析担当官、砂原園です。お疲れ様です。その節は大変お世話になりました。天野優一さん、天野ユカリさんの仮想対話による喚起式カウンセリングの件についてお話ししたい事があります。それと、一つお願いしたい事もありまして、今、お時間よろしいでしょうか』


 園の予想通り、篠田隆士の返信は瞬く間に園の元に届いた。


『どうもご無沙汰してます。篠田です。今日はもう仕事上がって帰宅してましたので、電脳空間で良ければお会いできますが、いかがでしょうか。マイルーム入室キーを送りますね』


 電脳装備者同士であればマイルーム入室キーでオリジナルの電脳空間にログインして、お互いのアバターを通して実際に密室で顔を合わせるような機密性の高いボイスチャットが可能になる。マイルームで会うのも園の予想通りの展開だ。


 メールに添付されていた篠田のマイルーム入室キーを受け取り、園は深く息を吸い込んだ。タバコがかすかに燃える音を立てて先端を赤く輝かせた。暗闇の中へ紫煙を吐き捨てて、園はくわえタバコのまま電脳空間へ、篠田デザインのオリジナルマイルームへとダイブした。


 と、暗闇の中で座っていたはずの園は、一瞬で薄闇の映画館に移動していた。篠田の電脳空間に、マイルームへのシフトが無事成功したようだ。


『マイルームへの入室を許可します』


 高く澄んだ女性の電子ボイスでアナウンスが流れる。場所が映画館なだけに上映案内のようなデザインの雰囲気にマッチした響きだった。


『ようこそ。サハラソノ様。お好きなシートにお座りください』


 まだ上映前のスクリーンには分厚い真っ赤なカーテンがかかっている。ふかふかとして座り心地の良さそうなダークレッドのシートがずらりと並び、さりげなく足元を照らす間接照明がちょうどいい具合の暗さを演出していた。


 電脳空間マイルームは自由にデザイン出来るので、やたらと意匠を凝らした奇抜な空間に演出する電脳装備者もいた。そのデータ量に仮想酔いしてしまうほどのマイルームも多い。しかし篠田のデザインは色調も抑えられて、上映前の暗い映画館と言うテーマが閉鎖環境を作り出して情報量を制限している。さすがは電脳技師、電脳空間のプロだ。園はこのテーマが気に入った。後で自分のマイルームの参考にさせてもらおう。古びた図書館はもう少し手狭でもいいかもしれない。二階建て吹き抜け構造はちょっと凝り過ぎたデザインだったかも。


 篠田映画館の席数は六十程度か。シートが並ぶ薄暗い空間の真ん中、最もスクリーンが見やすい席に篠田は座っていた。園は篠田のアバターを認めると小さく頭を下げ、その隣まで狭いシート間を横歩きに近付いた。


『こんばんは。お時間頂いてありがとうございます』


『どうも。おひさしぶりです。園さんのアバターって可愛いですね。実像そのまんまですよ』


 園のアバターはライムグリーンのパーカーにダメージデニムのミニスカートを合わせたいつものおでかけスタイルだった。ミニスカートの破け目から黒ストッキングを覗かせて、フードを深くかぶり、長い黒髪を襟元から溢れさせるようにして、唇には火のついていないくわえタバコ。


『そう、ありがとう』


 すとんと篠田の隣、わざわざシートを一つ空けて座る。黒ストッキングの脚を組み、タバコを一服。しかしこの電脳空間では煙は再現されなかった。


『ここって火はつかないの?』


『くわえタバコなんて想定してなかったんで、そもそも火をつける設定してませんでしたよ。もしも望むなら、今からでもきれいな炎をデザインするけど?』


『そう、ならいらない』


 園はぶっきらぼうに言った。下唇を突き出すようにしてくわえタバコをくるくると躍らせる。それを見て篠田は軽く肩をすくめた。


『いいマイルームね』


 園がくわえタバコを揺らしながら言った。


『気に入ってくれた?』


『うん。暗くていい』


『暗くて、か。変な趣味してるね。映画を上映する時は現実の映画館よりも真っ暗にできるよ』


 篠田のアバターは白衣を纏った化学の教師風だった。現実世界と同じく高い身長があり、園を上から見下ろして、タバコをゆらゆら揺らしている園の隣へシートを一つ詰めて座った。


『で、話って何ですか? それと、お願いがある、とか』


 篠田にすぐ隣に座られて、園は組んでいた黒ストッキングの脚を下ろしてシートに深く座り直した。


『優一さんが退院したと聞きました。今後は自宅でユカリさんと二人でリハビリして社会復帰を目指すそうですね』


『そのようですね。ずっとベッドで寝ていた訳ですからね。筋力はかなり落ちているだろうし』


『優一さんはスポーツとか、運動ってされてる方だったんですか?』


『いやいや、電脳空間でスポーツゲームをプレイして身体動かした気になってる典型的な電脳装備者ですよ。リハビリも電脳空間で済まそうとするんじゃないかな』


『電脳空間のリハビリにヨガなんてどうですか? ユカリさんにヨガのトレーナーになってもらって』


『電脳ヨガか。精神面での鍛錬にもなっていいかも知れませんね。でもどうなんだろう。天野もユカリさんもヨガなんか出来るのかな』


 園のくわえタバコがピタリと動きを止めた。


『やっぱり、知らなかったんですね』


『……知らなかった?』


『実はユカリさんは優一さんに内緒でヨガスクールのレッスンを受けていました。それが半年前からレッスンを休んでいるそうです』


『……それがどうかしたか?』


『優一さんとの喚起式カウンセリングのせいでヨガのレッスンを休んでるんだと思いましたが、それでは時間が合わない。優一さんがドリフター状態に陥ったのは約四ヶ月前。ユカリさんが姿を見せなくなったのは半年前。この二ヶ月間の時間差、ユカリさんはどこで何をしていたんでしょうね』


 篠田のアバターが背もたれにどっしりと体重を預ける。園は篠田の顔を覗き見た。そのアバターは笑っているように見えた。


『何を言いたいのかよくわからないな』


『ずっと不思議に思っていた事があるんです。電脳に関する知識がまるでないユカリさんが、どうして優一さんのドリフター状態を受け入れて、十五週間も長い期間の喚起式カウンセリングを続けたのか。四週間が帰還限界と言われているのに。普通諦めますよ』


 篠田のアバターが沈黙を守ったままそっと腕を上げた。するとスクリーンを覆っていた分厚いカーテンが静かに上がり、スクリーン全体にほのかな明かりが灯った。


『仕事一筋、電脳空間に入り浸りで家庭なんて省みないような優一さんと、いつ、あんなにたくさんの思い出を作ったのか。そして、どうしてそれをあれほど鮮明に覚えていたのか』


 ふっと照明が落ちた。そして唐突に映画の上映が始まった。この映画館をテーマにしたマイルームではちゃんと映画も観れるのか。園は喋りながらシートに身体を預けてスクリーンに目をやった。


『ユカリさんの思い出は、本当に二人の思い出だったのか』


『さあ、それは当の天野とユカリさん本人に聞くしかないですね。僕にはわかりませんよ』


『ヨガスクールのインストラクターの方が言ってました。半年ぶりに見かけたユカリさんは、まるで別人みたいに明るく笑ってたって』


 映画は『非線形のエレクトリカ』だ。園もつい最近観たばかりのアーティスティックなオープニングが始まる。


『私はたった二週間しかユカリさんと接していませんが、その間ユカリさんの思い出をたくさん聞きました。ユカリさんと言う人物像を知るには十分な情報量だと思います。それでも、全然想像出来ないんですよ。優一さんがドリフター状態に陥る以前、ユカリさんとどんな夫婦生活を送っていたか』


『僕も、二人の私生活までは知りませんよ』


『別にいいんですよ。二人のプライベートなんて。私の電脳に偽物の思い出を書き込めば、天野夫婦のプライベートなんて何の意味もなくなる。喚起式カウンセリングを観察担当した私がユカリさんをどう評価するか、ですからね』


 篠田は喋らない。園の方を見もしないで、眼鏡に映画を反射させていた。それでも園は構わず話し続ける。


『私ったら、電脳ハッキングを食らっちゃいました』


 篠田は横目で園を見た。反応はそれだけだ。園の独壇は続く。


『鉄壁と称される電脳セキュリティを突破されて、危うく偽物の記憶を書き込まれて真実を見失っちゃうところだった。ユカリさんが美しい思い出を語って、優一さんが奇跡的な帰還を果たす。そんなハッピーエンドを私の思い出にするぎりぎりでハッキングを破ったけどね』


『そうか。それはよかった』


『別に電脳ハッキングなんてどうでもいいけどね。犯人探しするつもりもないし、上司に報告もしないし』


 スクリーンのエレクトリカを見つめる篠田の顔を覗き込む園。


『ここからは私の仮説。優一さんはエレクトリカになりたかった。そこで仮想対話を利用した人格改造を計画する。しかし喚起式カウンセリングには共通の思い出を語ってくれる人間が必要。それに仕事ばかりの生活で優一さんには思い出がなかった。なければ作ればいい。ユカリさんを使って』


『言ってる意味がわからないよ』


『ユカリさんを溶かしたのよ。電脳空間の海へ漂流させて、優一さんにとって都合のいい人格と記憶を上書きして、そして今度は優一さんが漂流する番だ。そして新しい思い出を持ったユカリさんが、新しい優一さんへと書き換えていく。優一さんもユカリさんも、もう二人とも別の人格に書き換えられているの。本人達に確認のしようがない』


 篠田はスクリーンを見つめたまま沈黙していた。


『そして喚起式カウンセリングを観察した厚生労働省の担当官をも巻き込む。ユカリさんの独特の甘い声を使って、電脳空間の海へ擬似的に漂流させて、二人の思い出を共感させる。これで、思い出が書き換えられた事を知る者は誰もいない。みんな溶けてなくなった』


『ずいぶんとぶっ飛んだ仮説だな』


 篠田がようやく園へ顔を向けた。


『ぶっ飛んでるでしょ』


『でもその仮説には一つ重大なミスがあるよ。ユカリさんは電脳装備者じゃあない。電脳空間の海に漂流して溶け出す事はない』


『そう。私が聞きたかったのはまさにそれ。優一さん一人でこの計画を実行するには無理があるし。でも、もう一人、研究設備を持った電脳空間のプロフェッショナルがいれば、電脳非実装でも漂流させる事があるいは可能かも。ねえ、どうやったの? 私の人格までも書き換えるつもりだったの?』


 液晶画面で観るよりも映画館の大型スクリーンで観た方がモノトーンの美しさが映えるな、と思いながら、園は篠田に詰め寄った。


『篠田さん。あなたと優一さんは電脳非実装のユカリさんを疑似的にドリフター状態にして、溶け出した人格を再構築し、その作り変えたユカリさんの思い出で優一さんの人格を上書き消去した。そして喚起式カウンセリングを利用して私の記憶領域を書き換えようとした。失敗したけどね。どう? 私の仮説は』


 篠田はじっと園を見つめて、言葉を慎重に選ぶように一言一言ゆっくりと告げる。


『確証がないな。そもそも人格の再構築、思い出の上書き、記憶領域の書き換え。それらの証明は不可能だ。それに、仮に僕が天野の計画の手助けをしたとして、それは違法行為なのか? 僕は何か悪い事でもしたのか?』


『ユカリさんも同じ事を言った』


 園はくわえていたタバコを手に取り、本来なら火のついているはずの先端を見つめた。篠田がデザインした電脳空間のため煙は燻らず、ただ真っ直ぐで細い紙巻タバコがそこにあるだけだ。


『確かに、いわゆる電脳法って奴では今回のケースはどうにもできないよね。罪の証明以前に、そもそもそれが罪かどうかすら怪しい。厚労省の小さな研究部会の倫理委員の私に捜査権なんてないんで逮捕も告発も何もできやしない。ただ、お話したかっただけ。そして、ここからは、私のお願い』


『お願い?』


 現実世界にいる園はまぶたを閉じてタバコを深く吸い込んだ。胸を膨らませたまま数秒間息を止めて、ゆっくりと煙を吐き捨てて、身も心も溶けてなくなってしまう電脳空間の海に飛び込むように、意を決して言った。


『私もエレクトリカになりたい。悩みも迷いもない、人でもロボットでもない、書き込まれた偽物の思い出に浸るだけの私になりたい』


 空にたゆたう雲のように、波間に漂う泡のように、園は頼りなく揺らめきながら言った。


『ユカリさんと優一さんにしたように、私にも偽物の思い出を上書き保存して。私も彼らと同じだから。思い出なんてないし、語ってくれる人もいないし』


『……本気で言ってるのか?』


『外を見て』


 篠田のアバターは映画館の出入り口の方を見たが、すぐに現実世界の外の事かと気付いて、篠田の本体は目を開けて窓まで歩き、カーテンの隙間から夜の闇を覗き込んだ。


 篠田の部屋はマンションの五階だが、その高さからでもすぐにわかった。窓から見下ろせる道路にメタリックピンクの小さな車が一台路上駐車していた。ぽっと黄色いルームランプが点灯し、運転席の小柄な人影がこちらの様子を窺うように動いた。


『さすが、仕事が早いな』


 音も立てずに運転席のドアが開かれて、マイルーム映画館にいる篠田の隣に座る女と同じ格好をした女が現れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る