第13話 私、あなたに何か悪い事したかな?

「ユカリさんっ!」


 ユカリはすぐに見つかった。


 優一が電脳空間での漂流から帰還した研究室。ちょうどそこから出てきたところを園が大きな声で呼び止めた。歩き去ろうとしていたユカリの後ろ姿がぴたりと止まる。


 鋭い声のした方へゆっくりと振り返ったユカリは、肩を大きく揺すって息を切らせている園の姿を見つけた。


「園さん。大きな声出して、どうしたの?」


 喚起式カウンセリングで聴いていたあのゆったりとした淑やかなユカリの声に、園は吐き気を覚えた。ユカリはこの耳に甘くて少し苦味のある声で架空の思い出を語りかけ、真っ白く溶けてしまった優一に別人格を上書きした。


 ユカリの穏やかな声が園の電脳内に再生される。


『優一くん。君は溶けてしまった。でも、絶対に取り戻してみせる』


 この声で一人の人間を電脳空間の海に消し去った。


 園はユカリに対峙する。


「ユカリさん。あなたは、天野優一にありもしない思い出を語り聞かせ、彼の人格を書き換えましたね」


 園の厳しさを含んだ口調にユカリは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに目を伏せて、深く息を吐き捨てて、真っ黒く潤んだ瞳を園に向けた。


「何の事?」


「……」


 園は言葉を継げなかった。


 山鹿の言う通り、厚生労働省電脳保健倫理委員にとっては天野優一の中にあるのが別人格だろうが元の人格だろうがまったく関係のない事だ。重要なのはドリフターが帰還したと言う結果のみ。誰が還ってきたか、そんなものは些細な問題だ。


 園は腕が震えるほど拳を握り締め、顎が音を立てるほど歯を食いしばり、必死になって言葉を探した。ユカリにぶつけてやる殺傷能力のある言葉を求めた。それでも単語一つ頭に浮かばない。電脳に言葉が何も浮かばない。


 天野ユカリは何の罪も犯していない。ただ、自分の思い出を漂流した天野優一に語って聞かせただけだ。その結果、天野優一の人格が消し去られたとしても、いったい誰がそれを証明できるのか。そして、たとえ彼女に投げつける言葉が見つかったとしても、彼女の罪を実証できる証拠を掴んだとしても、園にはそれを告発する権利も義務もない。園は外部からやって来たただの観察者だ。


 ユカリは園の沈黙ですべてを理解した。


「ばれちゃったかな」


 甘い声でユカリは言った。園は何も喋らない。喋れなかった。


「園さんには気付かれたのか。誰にもばれないって思ったのにね」


 ユカリは細い指で髪を乱暴にかき上げて、ぎりぎりと身を震わせて立ちすくむ園に近付いた。


「あの篠田とか言う優一くんの同僚はなんともぼんやりしてて頼りがいのない人だし、山鹿さんって園さんの上司の人もいかにもお役所の堅物って感じの人で隙も何もないし」


 もう一歩、園の領域まで踏み込んでくるユカリ。


「園さんは、私と友達になって、私を助けてくれると思ってたのに。そう、ばれちゃったのね」


「……私は、あなたに、裏切られた」


 園がようやくかすれた声を絞り出した。


 初めて会った時、トイレの洗面台で嘔吐している園の背中をユカリは優しくさすってくれた。初対面での最悪の第一印象だと言うのに、すべてを包んでくれるような温かくて柔らかい手のひらだった。その思い出は、ユカリと優一の二人でフェリーに乗って海を渡ったストーリーに書き換えられた。園にそうしてくれたように、ユカリは架空の優一の背中を柔らかくさすった。


 仮想対話による喚起式カウンセリング後、送迎のために園が運転する車のナビ席に乗り込んだユカリ。コレクティブコントロールと自動運転の違い、それと電脳による運転の説明をした時のまだお互い打ち解けてない微妙な距離感があった苦い思い出も、架空の優一の危なっかしい自動運転のストーリーに書き換えられた。コレクティブコンソールを駆使して紅葉が映える峠道をドライブデートする架空の優一に、電脳による自動運転技術なんて何も知らないユカリはナビ席の座り心地を楽しげに語っていた。


 女同士でまるで同級生とおしゃべりを楽しむみたいにメイクのアドバイスをもらった思い出も、架空の優一とのメイクにかける時間についての些細な口喧嘩のストーリーに書き換えられた。ユカリは園の知らない優一と楽しそうに口論を交わしていた。


 すべて園の、ユカリとの思い出だ。


「裏切った? 私が? あなたを?」


 ユカリが笑う。


「私は私の優一くんを取り戻したかっただけよ。そして、ちゃんと理想の旦那様を取り戻した。私、あなたに何か悪い事したかな? あなたを裏切ったりした?」


 お互いの鼻と鼻がくっつくほど近くにユカリの顔がある。園は息を飲み込んだ。ユカリの瞳には強い意思のある光が宿っている。喚起式カウンセリング初日に見せたあの瞳だ。


「私はウソの思い出で優一くんにまったく別な優一くんを書き込んだ訳じゃない。二人の共通の思い出を使って、ちょっと味付けを変えて、思い出のパーツを組み替えただけ。優一くんの中身は優一くんのまんまよ。いろいろと電脳に関するアドバイスありがとね」


「私を利用したのかっ!」


 園は吠えた。しかしユカリはたじろぐ事もなく、するりと園の側をすり抜ける。そのすれ違いざまに、園の耳元にぽつりと囁いた。


「利用しちゃダメだった?」


 園は動かない。動けない。


「私はあなたを利用して理想の男を手に入れただけよ。あなたも頑張りなさい。もう年頃なんだから、理想の男の一人や二人、捕まえてみなさい」


 ユカリの甘い声と足音がゆっくりと遠ざかっていく。その軽やかな靴音を耳にしながらも、園は振り向けなかった。


 ユカリが歩み去った園の目の前に、黒ワンピースの園がいた。


『いつまで夢見てるのさ』


 黒いワンピースに身を包んでグリーンのカーディガンを袖に腕を通さずに羽織るいつもの姿で、仮想世界の園は動けないでいる現実世界の園をじっと見つめる。


『友達ごっこももうおしまい。さあ、目を覚ましなよ』


 現実世界の園はわなわなと震える手でスーツのポケットからシガレットケースを取り出した。おぼつかない指先でタバコを一本取り出し、唇にくわえる。もう片方の手でジッポライターをタバコに近付けるが、指に力がうまく伝えられず火をつけられない。何度も親指で弾くようにフリントホイールを回すが、ジッポライターに火は灯ってくれなかった。


「……助けて、あげたかったのに。あんたを、助けてあげたかったのに」


 園の震えた声は、もうユカリに届かなかった。


 真っ直ぐに前を向いて歩いて廊下の角を曲がった時、ユカリは柔らかな塊が硬い物にぶつかる鈍い音を耳にした。そして悲鳴を噛み殺すような小さな唸り声。少し間を置いて振り返り、角からそっと覗く。


 廊下に一人、園が拳を押さえて蹲っているのが見えた。肩を震わせて、壁を殴りつけたその手の痛みをこらえているのか、それとも、泣いているようにも見える。


 ユカリは、ふと思い出したように腕時計を見た。


「あ、美容院の予約に遅れちゃう」


 せっかく四ヶ月ぶりに優一と会えたって言うのに、こんな伸ばしっぱなしの髪じゃ格好がつかない。タクシーを呼べばまだ予約を入れた時間に間に合うだろう。


 そのままもう振り返る事もなく、ユカリはさらに軽やかな足音を立てて歩き始めた。


 廊下の向こうからは嗚咽のような声が聞こえていた。

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