第12話 エレクトリカの始祖
いつもの朝。いつものようにユカリを自宅まで迎えに行き、いつものようにユカリとともに天野優一の職場に設営された研究室に入る。いつものようにユカリが天野優一に朝の挨拶の言葉を投げかけ、いつものように園は用意された別室で仮想対話による喚起式カウンセリングをモニターする、はずだった。
「おはよう、優一くん」
ユカリが天野優一の手を握りしめ、脳内に浸透させるように耳元で声をかける。ユカリにとってはもうすでに毎朝の儀式のようなものだ。
「ねえ、あなた。お願い、起きて」
そして、その声に応えるように、天野優一はまぶたを開けた。
ただ単に朝が来たから目覚めた。そんな当たり前な、ごく自然な行動であるかのように、優一は首を傾けて気だるそうにかすれた声で言った。
「やあ。俺はまだ夢を見ているのかな?」
あまりに突然の事で園は呆然と優一を見つめるしかなかった。
すぐに救急車が手配された。
優一を対象としたドリフター観察はここで一旦終わりだ。目を覚ました以上、必要なのは身体のケアであり、それは医療行為だ。医者の仕事だ。厚生労働省や民間企業の出る幕ではない。
優一はすぐに病院へ搬送された。
優一の覚醒は園の仕事の完了も意味していた。もう優一の寝顔を見続ける事も、ユカリの思い出話を聞く必要もない。そして園がここにいる理由もなくなった。
園は社員食堂の窓際のテーブルに座っていた。まだランチタイムには少し早いため、ちらほらとしか席も埋まっていない。この窓からの景色もようやく見慣れてきたところだが、ここで昼食を摂るのもおそらく今日で最後、この風景も見納めだ。
「お待たせしました」
篠田が両手にトレイを持ってやって来た。長身の篠田がテーブルの側に立つと、小柄な園にはずいぶん高い位置からトレイを振り下ろされるように見えてしまう。思わず首をすくめてしまう園。
「すみません、運んでもらちゃって」
「いえいえ、今日は最後のランチタイムです。園さんは座っててください」
ひょろっとした身体を不器用に折り曲げて、臨時の給仕係は食器を少々がたつかせつつも丁寧に園の前にトレイを置いた。
「当店一番人気の豚生姜焼き定食でございます」
大きめの白い皿にまずは山盛りにされた千切りキャベツ、その山にさらに厚切りの豚肉がどっしりのしかかるように盛り付けされていた。そこへちょこんとマヨネーズが添えられて、甘辛いタレと生姜の香りが食欲をそそる。園も前から気になっていたメニューだが、食の細い園には食べ切れそうにないボリュームで敬遠していた一品だ。
「美味しそう。だけど、ちょっと量多すぎません?」
「それも人気の理由ですよ」
篠田が園の向かいに座って言った。篠田の前にはこちらも盛りがいい唐揚げ定食。目の前の豚肉とキャベツの山がこの細い腹の中に収まるのか、と園は自分の身体を見下ろして、そのまま上目遣いに移行して篠田をちらっと見つめてやる。
「篠田さんは身体大きいからたくさん食べられますよね。私、これ食べ切れなさそうなんで手伝ってくださいね」
「それじゃあ僕のトリカラといくつか交換しましょうか」
そう言うと思った。園の思い通りの行動を取った篠田を見て、思わずくすっと笑みがこぼれてしまう。
「え、何か変?」
「ううん、何でも」
「そう? それにしても乾杯でもしたい気分ですよ。天野が還ってきたなんて!」
篠田がいきなり感情に任せて大声を張り上げた。落ち着いたカフェのような食堂に居合わせた社員達が何事かと篠田のガッツポーズに注目する。大きな身体で小さく頭を下げて振り上げた拳を回収する篠田。それを見て園の笑いもまた止まらなくなる。
「ふふっ、まだ仕事中なのでお酒は無理だけど、これで乾杯しましょうか?」
園は定食の味噌汁の椀を両手で包み込むようにして掲げて見せた。それに応えて篠田はにかっと笑って自分の味噌汁の椀を盃のように持ち上げた。
「じゃあ、乾杯ってことで」
「はい、乾杯」
二人は味噌汁がこぼれないよう、そっと椀を触れさせ合った。園は味噌汁に少しだけ口をつけた。
「正直言って、天野を見ているのが辛かったですね。まさか四ヶ月近くも電脳空間を漂流していて、それが還ってくるだなんて、すごい事です。天野はエレクトリカ達の間で伝説と化しますよ。帰還したドリフター、天野優一!」
篠田は味噌汁の椀を掲げたまま興奮気味にまくし立てた。優一が目覚めたと篠田に連絡を入れた時から、篠田はこのテンションをずっと維持していた。優一の元に駆けつけてきた時も、その勢いのまま抱きつかれてしまうのではと園は思わず身構えて後ずさってしまったほどだ。
「すごいと言うなら、ユカリさんもですよ。よくぞ諦めず、ずっと独りで戦ってくれました」
「そうですね。天野も幸せ者ですよ。あんな素晴らしい奥さんが側にいるなんて」
ユカリは病院に搬送された優一の付き添いとして外に出ていた。午後には私物を取りに一旦研究室に顔を出すはずだ。篠田はその時にもユカリに抱きついてしまいそうだな、園は巻き添えを食わないよう少し離れていようかと思った。
「実は天野は中途採用で、僕は大卒の新規入社で歳も入社時期も違うんでけど、もうずっと研究パートナーとして一緒に仕事してきたのに、天野があんなに嫁さん思いのいい旦那だとは知りませんでした」
園が豚生姜焼きを篠田の皿にせっせと移しながら言う。
「そうなんですか。確かに羨ましくなるほどいい夫婦ですね。ユカリさんは尽くすタイプの奥さんみたいですし、天野優一さんはそれに甘えず家事も手伝ういい旦那さんで、ほんと理想の夫婦です」
「ええ、意外でしたよ。あの天野がホットケーキを焼いていたなんて」
豚生姜焼きのお返しに、と篠田は園の皿に鶏の唐揚げを二個転がして言った。
「ホットケーキ? 意外ですか?」
園は早速鶏の唐揚げにかぶりついた。もぐもぐと咀嚼しながら、篠田の返事を待つ間に電脳の記憶領域に検索をかけ、ユカリの仮想対話全データからホットケーキに関する思い出を抽出した。
一件ヒット。
ある休日の朝の出来事だ。
珍しく優一が朝食を作ると言い出し、どこから仕入れた知識なのかインスタントコーヒーの粉末やらココアパウダー、ヨーグルトを混ぜた生地でいろんな味のホットケーキを焼こうとして、見事に失敗した思い出だ。
優一の電脳に料理の知識をダウンロードしたはいいが、現実世界での料理の経験不足から身体が思うように動いてはくれず、出来上がったのは大量の焼け焦げた円盤状の物質だった。その黒い円盤状物質を二人で四苦八苦しながら食べ尽くす。ユカリは楽し気に語っていた。
「天野が料理をするだなんて、エレクトリカの始祖が現実世界では家庭的な男だったなんて想像もできなかったです」
「エレクトリカの始祖?」
園はご飯をつまみ上げた箸を止めて言った。それは聞いた事もない言葉だった。
「言ってませんでしたっけ? ネットで電脳装備者をエレクトリカと呼ぶようになったきっかけはうちの天野が作ったんですよ」
エレクトリカ。人間になりたがったロボットの名前だ。またエレクトリカの登場か。園は前髪が揺れる程度に小さく頷いて、ご飯茶碗を置いて篠田に話の先を促した。
「ネットのいわゆる巨大掲示板って奴に書き込んでいたんですよ」
篠田は鶏の唐揚げを口に運びながら、まるで自分が成した偉業であるかのように続ける。
「人間になりたいと思ったロボット。人間になれなかったロボット。それはまるで電脳装備者じゃないか。人間でもない、ロボットでもない、そんな俺達はエレクトリカを目指すべきだ、ってね」
人間でなく、ロボットでもなく。じゃあエレクトリカはいったい何者なのか。そしてエレクトリカを目指した結果が漂流か。園はめをさましたばかりの優一のやつれた顔を思い出した。
「それからネットでは電脳装備者をエレクトリカと呼ぶようになった。と、本人が自慢気に言ってました」
「情動編集ソフトを使用しても人間に成り切れなかったロボット。電脳を駆使して仮想世界に入り浸ってロボットになろうとする電脳装備者、ですか。電脳装備者として、なんか、私はエレクトリカって呼び方は嫌いです」
「自分が命名しただけあって、天野はその呼び方は気に入っていたみたいですね。むしろ電脳装備者とか、
電脳人間とか言われる方を嫌がってた」
篠田は味噌汁をずずっとすすってから、園の曇った表情に気付いて慌てて付け加えた。
「僕もエレクトリカって呼び名は、ちょっとカッコつけって感じがして、あんまり使わないですね」
最初に会った頃、私の事をエレクトリカと呼ばなかったっけ? 心の中で篠田を睨みつけてやる園。電脳装備者は記憶領域にメモを貼るからどんな細かい事でも永遠に覚えているぞ。
「……天野は本気でロボットになりたかったのかも知れない。一緒に仕事してて、そう思う事が度々ありましたよ」
「ロボットに、ですか?」
「食事を摂る事も面倒くさがって電脳空間で飯が食えればなっていつも言っていたし。現実世界での移動だって電脳空間なら一瞬でどこでも行けるって、車の運転もコレクティブコンソール任せでいつも電脳空間に潜りっぱなしで」
「えっ? コレクティブコントロールじゃなくて?」
篠田は驚いた顔をして園を見返した。
「あれ、ひょっとして園さんって間違えて覚えちゃった派ですか? ほら、集合的渋滞抑制技術が日本に紹介された時、翻訳AIの変換ミスで操作盤のコンソールが操作のコントロールってなっちゃって。結局そのまま一般では誤ってコレクティブコントロールで浸透しちゃってます」
「うわっ、ほんとですか? 私ずっとコントロールって使ってました。電脳装備者としては、それはちょっと、恥ずかしいですね」
園は小さな身体をさらに縮こませた。箸を握る手もきゅっと小さくなってしまう。
「別にいいじゃないですか。日本語としてではもうコントロールで当たり前に通じますし。僕や天野のような研究職ではコンソールとしか言いませんけど」
その時、園は電脳にぱちっと火花が散った気がした。
小さなスパークは園の電脳を駆け巡り、神経回路を導火線のように燻らせて本物の脳を発火させた。園はじわりと身体が熱くなるのを感じた。電脳がわずかな違和感を感知し、現実の脳は神経細胞のシナプスが燃え出すほどに電気を走らせる。
この違和感はなんだ。
電脳がそれに気付いた。しかし現実世界の意識がまだ追い付かない。考えろ。考えるんだ、砂原園。園は箸を置いた。両手を組んで、思考をフル回転させて違和感の正体を探る。この違和感はいったい何なんだ。
エレクトリカ。コレクティブコントロール。天野優一。天野ユカリ。理想の夫婦。イメージ通りの夫思いの妻と、意外に妻思いの夫。仮想対話による喚起式カウンセリング。ドリフター。真っ白い世界に溶け出した天野優一。思い出。
「……園さん。どうか、しました?」
篠田が園の変化に気付き、箸を止めて訊ねた。しかし園は答えない。
「園さん?」
園はユカリの喚起式カウンセリングデータを呼び出し、単語検索をかけた。キーワードはエレクトリカ。結果はすぐに出た。該当単語なし。ユカリは仮想対話による喚起式カウンセリングでエレクトリカと言う単語を一度も使用していない。
次の検索ワードは電脳装備者。ほんの少し間を置いて、四十七件の検索結果が園の視界に羅列された。検索内容を見るまでもない。ユカリは優一との共通の思い出として電脳装備者と言う単語を四十七回も使用していた。
園は電脳ではなく、自分本来の脳の記憶を呼び覚ました。ユカリとの会話でエレクトリカに関する事を喋ったか。
すぐに思い出せた。偶然ショッピングモールで会った時、喫茶店でモンブランを食べながら会話した時だけだ。ごく最近の出来事だ。その時の会話では、ユカリはエレクトリカの映画すら知らなかった。
次はコレクティブコントロールで検索をかける。こちらは一件該当あり。そして本来ならば正しい名称であるコレクティブコンソールでの検索結果は、該当なし。園は鼓動が早くなるのを感じながら、自動運転で単語検索をかけてみた。九件検索結果が現れた。
コレクティブコントロールと言う単語も園はよく覚えている。初めてユカリを送った時に交わした会話だ。園が間違って覚えていたコレクティブコントロールと言う単語を、ユカリは、コレクティブコンソールとして喋っていたはずの優一との共通の思い出として語っていた。
それらは、ユカリと優一との間にある共通の思い出なのか。ユカリは、一体誰との思い出を語り聞かせていたのか。
「園さん、どうしたんですか?」
「しっ」
園は唇に指を当てて篠田を制した。
話しかけるな。心の中でそう言い捨て、厚生労働省倫理委員での直属の上司である山鹿へ電脳電話を繋いだ。山鹿は電脳装備者ではないが、拡張現実眼鏡を実装してればすぐに受信できるはずだ。
『どうした?』
山鹿はすぐに応じてくれた。園は肉声を使わずに電脳で山鹿へ音声通信を送った。
『今朝方目を覚ました天野優一に関してお話したい事があります』
『何だ?』
『ドリフターから帰還した天野優一は、漂流以前の天野優一ではない可能性があります』
『……意味が解らないな』
『まだ確証はありませんが、天野ユカリは、架空の思い出を天野優一に語り聞かせ、真っ白く溶けて消え失せた天野優一の記憶を上書きして、結果として別人格を植えつけたのではないか、と思います』
山鹿の声はすぐには返ってこなかった。それでも園は続けた。
『天野ユカリは天野優一の人格が電脳空間に溶け出したのを利用し、十五週間もの間、ウソの思い出を語り続けて自分の理想の人格を上書きしたんです。天野ユカリは、天野優一を完全に消し去ってしまいました』
『……だから?』
『えっ?』
『だからどうしたと言うんだ?』
『どうした、って、言われても』
山鹿は抑揚の少ない声で園に語りかけた。
『そんなものは我々には何の関係もない。おまえ何か勘違いしていないか? 我々は天野優一を救出しようとしているのではない。ドリフターの帰還方法を確立させるためのデータ収集をしているんだ』
『そ、そんなっ』
『おまえはいつまでそこにいるつもりだ? さっさとデータをもらって帰ってこい。次のドリフターが待って……』
園は一方的に接続を切った。
いつのまにか拳を強く握り締めていた。硬くなった小さな拳を解くと、真っ白くなった手のひらにじんわりと血が通っていくのが解った。園は手のひらに残った赤い爪痕を見つめながら、電脳をさらに展開させた。
ユカリはどこにいる?
ユカリをいつどこでも送迎できるようにと、ユカリの携帯電話のGPSチャンネルを開けてもらっていた。まだチャンネルが切られていなければ、ユカリが今どこにいるか容易に探す事ができる。
「園さん、なんか、仕事でトラブルとか?」
「静かにして」
篠田が話しかけてきたが、園は一瞥もくれずに言い捨てた。
すぐにユカリの携帯電話の電波が拾えた。いる。ここにいる。病院から戻ってきているようだ。園は立ち上がった。
「園さん? いったいどうしたんだ?」
「うるさいっ! 黙れっ!」
園は叫んだ。そして自分のバッグをひったくるように抱えて走り出した。
あっという間に園は食堂から出て行き、篠田の前には、ほとんど手が付けられていない豚生姜焼き定食だけが残された。
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