第四章 覚醒
第11話 あんたには彼の事は喋らない
思い出ってなんだろう。
園は思う。楽しかった事、悲しかった事、嬉しかった事、辛かった事。人の心を動かす様々な感情をすべてひっくるめて、自らが体感した経験と連動させ 、自分が確実に存在したと証明する主観的なデータだ。園にとって、他人と共有してお互いの存在を証明し合う情報なんて必要なかった。ただ自分は自分なのだと確定して安心できればいい。思い出なんて、それで十分だ。
園は自室に帰るなり即ベッドに飛び乗ってブラックボックスへ電脳を繋いだ。園の思い出が、自分が自分であると証明できる記憶が詰まった外部記憶装置はすぐに起動して、電脳空間にマイルームを展開させた。いつもの旧い木造建築の図書館が園の周りに構築される。
一回りサイズが大きなパーカーを羽織ってダメージデニムのミニスカートに黒ストッキングの姿のまま、現実世界の園はいつも電子書籍を読む読書机まで足音を大きく立てて歩み寄った。読書机にはオイルランタンがオレンジ色の光を揺らめかせていて、一冊の電子雑誌が開かれたまま放置されていた。仮想世界の園の姿はここにはない。
「ねえ、ちょっとあんた、いるんでしょ?」
返事はない。仮想の図書館は無音のままだ。
「いない訳がないでしょ。あんたはどこにも行けやしないんだから」
この真っ黒な外部記憶装置はネット接続していない完全オフラインの立方体だ。有線で繋ぐ園以外に情報を書き加えられる人間はいないし、そもそも箱の中の情報が外部に流出するなんてあり得ない。独立した有限の電脳空間、孤立した仮想世界だ。
「ちょっとあんた! どこにいるの?」
そういえば、私はあいつの事を何て呼んでいた? アンリアルな架空の存在、電脳空間の人工知能、仮想世界の記憶コピー、もう一人の園。あんた。
「まさか、図書館の外に出た?」
仮想世界の園はマイルームを勝手に増築して、窓の外、新しいフィールドを設営していた。ブラックボックスの外に出る事は不可能だが、新しく活動できる場を作ってしまえば、理論的には図書館からの脱出は成立する。
確か、窓の外の光景、木漏れ日が眩しい深い森には一本の小径が通っていたはず。あの緑色の道はどこへ通じているのか。現実世界の園は仮想世界の園がデザインした両開きの窓に一歩だけ近付いた。
たとえどこかに続く道を敷いたとしても、この独立した電脳空間からは出られやしない。どこにも行けない、はずだ。
園はもう一歩、さらに一歩、窓に歩み寄って冷たい水のようなガラスに頬をくっつけるようにして外を覗き見た。
以前見た時と変わらず樹々は色濃く、森は深く、空を覆い隠す枝葉を貫いた木漏れ日が地面に様々な光の模様を描き出していた。背の低い草が選り分けられてようやく人が一人歩けるくらいの、それでもしっかりと土が露わになった細い小径が森の奥へと続いている。しかし、この森には人の姿どころか動く物は何一つなかった。
鳥の声、虫の声、生き物の気配もなく、葉の一枚、草の一本すら風にそよぐ事もなく。まるでスクリーンに投影された静止画のような窓の外の光景。これが外の世界を知らない人工知能が構築する想像力の限界か。
「外に出ちゃったって思った?」
不意に自分と同じ声が図書館に響いた。
上だ。園はオイルランタンのオレンジ色の明かりも届かない高く暗い天井を仰ぎ見た。元々高いアーチ状にデザインしていた天井が、仮想世界の園が新しくデザインし直したせいで吹き抜け構造になった天井まで光は届いていなかった。
「今日はいつもと違う服だね。どこか出掛けていたの?」
黒ワンピースの園は吹き抜け二階部の手摺りに身体を持たれかけさせてパーカー姿の園を見下ろしていた。
下にいる現実世界の園は、手摺りで組んだ両腕に顎を乗せて微笑みながらこちらを見下ろす仮想世界の園を沈黙のまま睨みつけた。黒ワンピースにグリーンのカーディガンを袖を通さずに羽織ったいつもの姿の仮想世界の園は、ふふっと小さく笑って続けた。
「いいね、お出掛け。現実世界はとっても広いからね。電脳空間、仮想世界はひどく限定的。でもここを出られない私にとってすべてはここであり、ここではないどこかをダウンロードすればどこへでも行けるから、どこか遠くに行きたいだなんて思わない」
「そう言う安易なメタ発言はやめて」
「そう? 別にいいじゃない。言うだけなら何だって言えるんだし」
「あんたは私の記憶のバックアップであればいいの。メタ認知能力のある人工知能にカウンセリングを受けたい訳じゃない」
「はいはい、わかりました」
二階の園が身体を起こして奥へ消えた。黒ワンピース姿を見失った一階の園はまだ登った事のない新しい階段まで駆け寄って、躊躇するように小さく足踏みをして、パーカーのフードを脱いで狭い階段を一気に駆け上がった。
「そんな慌てなくっても、どこにも行かないって」
黒ワンピースの園は吹き抜けの手摺りからすぐ側、書架に囲まれた小さな読書机に座っていた。しなっと柔らかく片肘をついて、その手に小さな顎を乗せて少し頭を傾けてパーカーの園へ言った。
「どうしたって言うの。現実世界で何かあった? 聞かせてよ。あんたが体験した事を全部」
パーカーの園は黒ワンピースの園の向かい側に座り、胸に溜まったもやもやとした空気を口から大きく吐き捨てて、目の前の仮想世界の自分から視線を外して、ゆっくりともう一つ深呼吸をした。
「うん。悪くないね、この席」
「こう言う狭い空間も嫌いじゃないでしょ」
「本棚にすぐ手が届くちょうどいい狭さだね」
「でしょ。二人だとちょっと窮屈だけど、今度一人で座ってみなよ。ちょうどいいから」
さすがにもう一人の自分がデザインしただけはある。背の低い本棚に囲まれた適度な閉塞感が、どこか子供の頃に憧れた屋根裏の秘密部屋を思い起こさせて居心地が良かった。二人が座ればそれで満席の小さめの読書机、背もたれが高く身体をしっかりと預けられる椅子、題名が書かれていない背表紙がみっちりと詰まった古びた書架、どれも狭いスペースにいい具合に収まっている。あえて、この電脳空間に足りない物と言えば。
「少し、暗過ぎるかも」
現実世界の園は固めのクッションが効いた背もたれにどっかりと寄りかかり、目を閉じて、電脳でマイルームにオブジェクトのリソースを書き加えた。
そっと目を開ける。そこに現れたものは、読書机にオイルランタン、園の右手にジッポライター、そして園が愛用しているシガレットケース。
少し驚いたような顔を見せる仮想世界の園をとりあえず放っておいて、現実世界の園は甲高い金属音を奏でてジッポライターに火を灯した。強いオレンジ色の炎が揺らめき、園の手元のジッポライターから読書机のオイルランタンの真っ白い芯に、まるで魔法のようにふわりと乗り移る。オレンジ色の灯りがさらに輝きを増して二人の園の同じ横顔を照らし、逆に二人の周囲はオイルランタンに明るさを奪われたかのように薄暗くなった。
「これでよし」
「なるほどね。小道具による演出が足りなかったか」
黒ワンピースの園が笑う。まあね、と上から目線で言うように軽く肩をすくめて、パーカーの園はアルミ製のシガレットケースを開いた。五本の細い紙巻タバコがころり転がった。端っこの一本を摘み、造形を確かめるように前後左右じっくりと見つめて、口に運んだ。かちん、と再びジッポライターを鋭く鳴らす。
「ダーメ」
しかし火は起きなかった。黒ワンピースの園がにやりと笑ってジッポライターを指差す。
「ここは禁煙。タバコはダメ」
「いつ誰がそんな事決めたのさ。マイルームのルールは私が決める。それに電脳空間で禁煙なんて馬鹿げてる」
そもそも電脳空間で喫煙なんてのも馬鹿げている行為か。仮想のタバコなんて吸ったって何の効果も意味もない。デメリットとして吐いた煙の映像処理に手間がかかるくらいだ。それに今の世の中、どこもかしこも禁煙エリアに指定されている。本物の紙巻タバコ喫煙者にはなんとも世知辛い世の中になったものだ。園は火のついていないタバコをくわえたまま言った。
「仮想世界にいる時くらい好きに吸わせて」
「だからダメだってば」
「どうして?」
「灰皿がないから」
黒ワンピースの園がさらっと言った。パーカーの園は思わず笑ってしまった。
「ふざけてる?」
「別に。灰皿がなければタバコを吸ってはいけない。当たり前のマナーだと思うよ」
「じゃあこれで文句はないよね」
早速現実世界の園は読書机に仮想の小さなガラスの灰皿を出現させた。くわえタバコにジッポライターを近付けて見せる。
「別にいいよ。仮想世界の仮想タバコなんてどうせ仮想受動喫煙くらいしか害はないんだろうし。ねえ、あんたどうしてタバコ吸ってるの?」
「えっ?」
「あんたのタバコにまつわる記憶、思い出って聞いた事がなかったなって今思った」
不意打ちを食らった。仮想の自分に思ってもみない事を聞かれ、何て答えたらいいか、口ごもってしまう現実世界の園。仮想世界の園は追い打ちのようにさらに続ける。
「喫煙が大脳皮質を薄くするってデータがあるみたいだし、でもニコチン化合物が海馬に影響して認知機能を高める効果もあるんだっけ? 統計的に見ても電脳装備者で喫煙者、電子式でも加熱式でもない火をつける紙巻タバコを吸ってる人ってかなり少ないでしょ」
「それは、彼が……」
現実世界の園は言いかけて、止した。あざとくも仮想世界の園がその言葉尻を捕らえる。
「彼が?」
「何でもない」
現実世界の園が苦い顔をして言い捨てた。しかし仮想世界の園は園の言葉に食いついて離さなかった。
「そういえば私はあんたの忠実なコピーだってのに、あんたの色恋話、彼氏との思い出とか、聞いた事ないね」
「話した事ないもん。聞いた事なくて当然よ」
「じゃあ教えてよ。私がよりあんたらしくあるためにさ」
まるで昼休みにお弁当を突きながら恋話にはしゃぐ女子高生みたいだ。パーカーの園は思った。
黒ワンピースの園は両肘をついて両手に小さな顔を乗せて、大きな瞳にオイルランタンのオレンジ色の炎をきらきらと映していた。目の前の園は自分自身の電脳記憶のバックアップ。それは精神活動の忠実なコピーだ。私の中にもこんな表情をする私がいるのだろうか。
「そうね、でも」
園はきっぱりと言い切った。
「あんたには彼の事は喋らないって決めてるの。今日はもうおしまい」
もう一人の園が何か言いかけたが、電脳接続をオフ。ブラックボックをシャットダウンする。
園は地下駐車場に停められた車の中、すでに短くなったタバコの最後の一服を吹かしていた。ゆったりと煙を吐き出してフィルターぎりぎりまで吸い終えると、携帯灰皿に押し込んでぱちんと小気味いい音を弾かせて蓋を閉めた。
駐車スペースの周りに誰もいない事を確かめる。車から降りてスーツの胸をぽんぽんと叩いてタバコの臭いを払い落とし、ヒールがコンクリートを打つ音を早いテンポで響かせてエレベータに向かった。
エレベーターのボタンを押すとほぼ待つ事もなく箱が降りてきた。重そうな扉がのっそりと開かれると、中には掃除用具セットを満載にしたカーゴと鮮やかなオレンジ色の作業着を身に付けた清掃員の姿があった。エレベータの箱の中で重たいカーゴを方向転換させようと、何度も何度も切り返してはカーゴを押し、そして引っ張り、ぽつんと待ちぼうけている園に気付いてさえないようだ。園はエレベータの扉を手で押さえ、掃除のおばちゃんが驚かないようにと控えめに声をかけた。
「おばちゃん、おはようございます」
「あら、おはようさん。園ちゃん、ずいぶんと早いのね」
「毎朝人を迎えに行ってるので最近はずっと早めの出勤です」
「はいはい、ちょっと待ってね」
ようやくカーゴの向きを変える事に成功した掃除のおばちゃんとすれ違うようにして園はエレベータに乗り込んだ。そのすれ違いざま、掃除のおばちゃんはだんごのような鼻をひくつかせて言った。
「園ちゃん、またタバコ吸ったでしょ」
「今日はちゃんと車の中で吸いましたよ」
そう言ってから、園はふと思い出したようにスーツの袖、細めのネクタイ、ワイシャツの胸を引っ張ってくんくんと臭いを嗅いだ。
「ひょっとして臭います?」
「おばちゃんぐらいになるとね、臭いにも敏感になるからね」
車に備え付けている消臭芳香剤のせいか、園自身にはタバコの残り香はほとんど感じられなかったが、掃除のおばちゃんが言うからにはやはり少し臭うのだろう。
「今度消臭スプレーでも買っときます」
そしてエレベータの扉が閉まりかけ、笑顔で掃除のおばちゃんを見送ろうとした時、掃除のおばちゃんはにこっと笑って園に言った。
「園ちゃん、最近いい顔で笑うようになったね。可愛いよ」
えっ、と園が返事に困っていると、エレベータの扉が再びのっそりと閉まり、掃除のおばちゃんとの短い会話は終わった。エレベーターの箱の中で一人きりになった園はエレベータ内の大きな鏡に向かってわざとらしく笑ってみた。
「タバコ、やめちゃおうかな」
以前、機械式のタバコを試した事があった。カートリッジ式の香りを口で吸い、水蒸気の煙を吐いてタバコを吸った気分になる玩具のような出来の禁煙支援グッズだ。とてもじゃないが吸った気にもならずすぐに本物のタバコに戻した。加熱式もリキッドスチーム式もどれも物足りない。脳に直接パンチが入るようなこの感覚はやはり直に火をつける紙巻タバコでないと。
園は細いネクタイに染み付いたタバコの香りを嗅ぎながら思った。
彼だったっけ? タバコを一日に吸う本数を限定しろって言ったの。どうせ吸うならさ、毎日決まった時間にタバコを吸って電脳を餌付けするんだ。さあ、餌の時間だ。動け、働けってな。そうすればタバコが電脳のスイッチになる。
「嘘つきめ」
園はエレベーターの階数ボタンを押しながらふとつぶやいた。
そしてその朝、天野優一は目を覚ました。
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