第10話 頭の中に小人さんがたくさんいる

「今日はお買い物ですか?」


 ユカリが椅子に置いた紙バッグのロゴを見て園は言った。モノクロのグラデーションが大人しくてシンプルなデザインの雑貨屋のものだ。


「ええ、お揃いのマグカップをね」


「お揃い、の?」


「いいペアのカップを見つけたのよ」


 園はパーカーのフードを下ろして、乱れた髪を撫でつけながらユカリの向かいに座った。さほど混み合っていない店内には会話の邪魔にならない程度の静かな音楽が流れていた。園とユカリはショッピングモール内通路側、窓際のテーブルについた。


 ユカリはオーダーを取りに来た店員に、園の意見も聞かずにコーヒーとモンブランのケーキセットを二つ注文した。園としては久しぶりのカフェだったので他にどんなケーキがあるのかメニューに目を通したかったが、店員はさっさとメニューを下げて行ってしまった。


「実はね、優一くんがドリフターになって意識が戻らなくなって四週間目、漂流からの帰還を諦めるって選択を迫られた時、私ったらメチャクチャになっちゃって家の食器をほとんど壊しちゃったの」


「そんな。何でですか?」


 名残惜しそうに店員の背中を見送っていた園は驚いてユカリに向き直った。物静かに思い出を語るユカリが感情に任せて荒れた行動に出るなんて想像も出来なかった。


「だって、もう優一くんがカップを使う事はないじゃない。ペアで買ったコーヒーカップだって、優一くんはもう二度と私のコーヒーを飲む事はない。そう思ってしまって、気が付いたら壁に叩き付けて割ってたわ」


 天野優一がドリフターとなって意識が流出してから四週間。帰還の限界点とされる時間だ。四週間を越えて意識喪失状態から回復したドリフターはいない。


「でも、今の優一さんの状態を考えると……」


「そう。だから新しく買い直す事にしたの。どうせなら、全部、新しくしちゃおうかな」


 仮想対話による喚起式カウンセリングも十五週間目に突入し、天野優一のバイオシグナルデータは劇的な変化を見せた。ユカリが語る思い出を聞いていない時でも脳波に揺らぎが見られるようになった。通常のレム睡眠時よりも波形の振幅は浅いものの、天野優一の精神状態は回復に向かっていた。もしかしたら、夢を見るまでに復帰しているのかも。脳波が揺らめいた時、モニターを見ているだけの園も思わず声を漏らしてしまった。


「早く、目が覚めるといいですね」


 これは園の本心だ。十五週間もの長い間、決して醒める事のない悪夢を見続けていたのは天野優一だけではない。天野ユカリも同様だ。ただひたすらに二人の思い出を消費してしまうような十五週間だった。


「うん、もうすぐ私の優一くんに会える。そんな気がする」


「会えますよ。きっと」


 ユカリは真っ直ぐな園の視線をするりとかわすように窓の外、ショッピングモール館内の人の流れに目を向けた。そして何かを確かめるように小さく頷いて園の方に向き直って言う。


「思い出療法って、本当に効果があるのね」


「今さらですか。確かに、厳密に言ってしまえば医療行為ではありませんが、電脳空間に溶け出してしまった意識人格を再構築、取り戻せた実績のある唯一の方法です。これで優一さんが還ってくれば、他のドリフターの還りを待っている家族にどれだけ希望を与えられる事か。あと少しです」


「……あと少し、ね」


 ふと、少しばかりの沈黙が二人の間に割って入り、園もユカリもお互いに何となく無言で窓の外のショッピングモール館内を眺めた。


 あと少し。そうだろうか。


 園が今まで解析してきたドリフター達の中で電脳空間から帰還した者はいなかった。誰もかれもすでに仮想世界と言う海に真っ白く溶けてしまった脱け殻のような人間ばかりで、園はそれを看取る形でデータを収集してきた。天野優一ほどに長く解析担当官として接した人間はいない。天野優一に現れている兆候が電脳漂流からの帰還の兆しだとしたら、彼が目覚めた時、園は何と声をかければいいのか。


 やがて、ケーキセットが運ばれて来た。


 園とユカリの間にコーヒーの馨しい香りがふわりと沸き立った。とん、と園の目の前にケーキの皿が置かれる。園がイメージしていたモンブランよりも盛りが高く、クッキー生地でできた裾野も大きく広がり、ホイップクリームが白雪のように頂上を飾る。まさにケーキの山と言った堂々とした姿のモンブランだ。


「すごーい。立派なモンブラン」


 豪華さに圧倒されてついつい的はずれな評価を口にした園。また子供っぽいと笑われるか、とユカリの顔を覗き見るが、ユカリは園の様子なんか気にも止めずに静かに喋りだした。


「電脳装備者って、感情や記憶も編集して好きに再生できるってほんと?」


 いったい何を言っているのか。一瞬理解が遅れてしまった園は、そっと目を伏せたユカリを真正面に見据えて慎重に言葉を選んで答える。


「それに似た事は出来なくもないです。やろうと思えば、才能と時間を費やせば出来ます」


 顔を上げて、黙ったまま小首を傾げて園に先を促すユカリ。園はさらに続ける。


「人間の感情も記憶も、突き詰めれば脳の限定的な箇所で起こる化学反応とその連鎖反応です。それを電子的に演算と再現するのが、言ってしまえば電脳の機能の一つ。だから、論理的には編集も再生も可能です。ただ、やらないだけ」


「どうしてやらないの?」


「やる意味がないから。感情の編集も記憶の再生も、普通の人間なら無意識の内にやってる事です。嫌な事は早く忘れて、楽しかった事を何度も思い出して笑って、誰かと思い出を共有する事でより強い絆を結んだり。それって普通の精神活動ですよね?」


「でも電脳装備者はそれが簡単に出来ちゃうんでしょ? 普通の人には無理よ。そう簡単に嫌な出来事を忘れたり出来ないし」


 ユカリが小さく首を横に振って言った。


「私は電脳装備者ですけど、嫌な事を覚えててけっこう引きずるタイプですよ」


「そうみたいね」


 不意に、園は視界の隅っこに黒ワンピース園の姿を見た。カフェの窓からはショッピングモール館内が見渡せる。園は思わず人混みを凝視した。素足を晒した黒いワンピースにグリーンのカーディガンを袖を通さずに羽織り、買い物客が右へ左へ行き交う雑踏の中にすうっと消えて行くもう一人の園の姿を。


 黒ワンピース園は明るい色合いのナチュラルな目元で現実世界の園を横目に見ながら、薄いピンク色した唇に笑みを浮かべて消えた。


 何故あんたがここにいる。ここは現実世界だ。あんたがうろついていい仮想世界じゃない。


「園さん? どうかした? 誰か、お友達でもいた?」


 電脳の記憶編集の誤作動、記録領域検索の失敗か。ここにいるはずのない、ブラックボックスから出る事など出来るはずがない仮想世界の園の姿。虚像だ。電脳が園の意識を誤って汲み取り、ありもしない虚像を結んだ。そうに決まってる。園は仮想世界の園の姿をばっさりと切り捨てた。


「いえ、別に。何でもないです」


 ふうと息を深く吸い込んで、園はユカリに向き直る。


「デジタルクローニングと呼ばれる危ない記憶編集方法があります」


「なんか名前からして怪しいわね」


「ちょっと怪しいですね。記憶を編集して電脳空間で人工知能にコピーさせるんです。もしも情報流出なんてしちゃったら思い出って言う最重要な個人情報がみんなに知れ渡っちゃうかなり危ない記憶保存方法です。サイバーセキュリティには気を付けないと」


「園さんはセキュリティしっかりしてそうね」


「ハッキング不可能なセキュリティを施してますよ」


 過去にデジタルクローンが勝手に電脳空間を徘徊した例もある。オンラインである以上、情報漏れが起きないと言う保証はない。だから園はデジタルクローンをネット接続されていない独立した外部記憶装置に封印していた。


 「記憶を編集する機能を持つぎりぎり非合法なアプリケーションもあるにはありますが、まともな電脳装備者は脱法アプリとか違法性のある記憶編集ソフトなんて使いません。エレクトリカじゃあるまいし」


「エレクト、リカ?」


 ユカリが小さな顎に手を添えて首を傾げた。きれいに切り揃えられた前髪が揺れて、手付かずのコーヒーの湯気がふわりと香る。


「ご存知ないですか? ちょっと前の映画ですが、自分の記憶や感情を編集出力して人間らしく振舞うロボットの名前です」


「映画? あんまり詳しくないからわかんない」


「変に芸術性を持たせちゃったせいでさほど人気も出なかったくせにカルト的ファンがついちゃったマイナーなSF映画です」


「私も優一くんもSF映画なんて観ないから、聞いた事ない、かも」


「私も実は観てないんですけどね。情動を編集し過ぎたせいで感情を抑制出来なくなって、人間でもロボットでもない存在になってしまったロボット。そこから転じて、電脳装備者を自虐や蔑みの意味も込めてエレクトリカと呼ぶ人達がいます。好きでそう呼んでる人達もいますけど、私は嫌いな呼び方です」


「人間でもロボットでもない、エレクトリカ」


 ユカリがまた静かにコーヒーカップに視線を落とした。


「あの、せっかくのコーヒー、冷めちゃいますよ」


 園はコーヒーカップに指を添えて言った。カップはまだ熱いくらいの温度を保っていたが、ユカリは顎の下で組んだ指を解こうとはしなかった。


「人間でも、ロボットでもない存在。……思い出療法って溶けてしまった人格をもう一度作り直すの? 還ってきた優一くんは、元のままの優一くんなの? 人間なのかな? ロボットなのかな?」


 早口に一息で言い終えて、ようやくユカリはコーヒーカップへ白い手を添えた。まるでプログラミングされたロボットのような淀みない動きでシュガーポットから二杯の砂糖をコーヒーに落とし、スプーンでかき混ぜながら少しだけミルクを流し込む。ユカリはパターン付けされた作業のように一連の動きを終えると、園の方を見もせずにコーヒーカップを口に運んだ。


「その心配でしたら無用です。人格が溶け出すとはあくまで電脳空間での比喩的表現です」


 園もコーヒーに砂糖を溶かす。スプーンで一つ、二つ。


「ドリフターは壊れたハードディスクのようにまっさらにフォーマットされる訳ではなく、言うなれば接続が切れてしまって外部から認識できない状態です」


 少し迷ってから、もう一度。スプーンで三つ目の砂糖を溶かす。ミルクをたっぷり注ぎ、カップの底に溜まった砂糖をスプーンですり潰すようにかき混ぜながら、園は独り言を呟くように続けた。


「人間の記憶は神経細胞のシナプスの結合によって形成されます」


 ユカリがきょとんとした顔で園を見た。やっとこっちを見てくれた。園はちょっとだけ笑顔を作って見せて、ユカリとの会話を続ける。


「記憶に関する神経回路どころか、脳の神経ネットワークへ外部からの刺激が一切入力されなくなり、脳そのものが活動を鈍化させるためシナプスも結合が弱くなったり、途切れたりします」


「園さん、ちょっと急に話が難しくなって何言ってるかわからないよ」


「そうですか。じゃあ……」


 園はカップをふーふーと吹いてから一口コーヒーで口を湿らせて言った。


「うんと解りやすく言いますね。こう考えてください。頭の中に小人さんがたくさんいるって」


「小人さんが?」


「はい、小人さんが。それぞれがさまざまな記憶に関する小人さんです。それはもう、うじゃうじゃいます。で、私がモンブランを一口食べますね」


 園はフォークでモンブランの頂上をクリームごと削り取り、小さな口でぱくりと食べた。


「うん、美味しいです。そしてこの時、私の中の小人さんが動き出します。モンブラン担当の小人さんとユカリさん担当の小人さんが手を繋いで、そしてさらにこのお店担当の小人さん加わる。その手を繋いだ小人さんの輪が記憶です。ユカリさんとこのお店で美味しいモンブランを食べた。神経細胞のシナプスが結合し記憶回路が形成されニューラルネットワークが構築されます」


「手を繋ぐなんて、かわいい小人さんね」


「小人さんと言っても髭面の小さいおっさんかも知れませんよ。そしてそれを反復して繰り返す事により、小人さんの絆が深まって強い記憶となる。逆に疎遠になれば結束が弱まって忘れる寸前の記憶になる」


「何度も繰り返せばよく覚えてて、思い出さなければ忘れちゃうって事?」


「短期記憶とか長期記憶ってのもありますけど、簡単に言っちゃえばそういう事です。ドリフター状態にあると、外部からの刺激が一切ないのでシナプスに電気信号が流れず結合は弱くなる一方です。その小人さんの絆を強めてやり、脳の活動を活性化させるのが仮想対話による喚起式カウンセリング、つまり思い出療法です」


「ただ思い出させるだけじゃなかったのね。思い出を言い聞かせるだけだなんて、ずいぶん簡単な治療方法だなって思ってた」


 ユカリがモンブランの山を切り崩して言った。


「カウンセリングの説明、受けてなかったんですか?」


「ううん。今私がしてる事、間違ってないか確かめたかっただけよ」


「もうすぐ答えが出ますよ。いい答えが」


「そうね。もうすぐ答えが出るわね。いい答えか、それとも、悪い答えか」


 ユカリは少しだけ言い淀んだ。


「悪い答え、ですか?」


「思い出なら何でもいい訳じゃないのよね」


「共通の思い出じゃないと、関連付けて記憶を喚起させることができません。モンブランってキーワードだけじゃケーキの事しか思い出せない。ユカリさんとこのお店でって情報が付加されて初めて、今日この日の思い出が喚び起こされるんです」


「じゃあ、私達は私達の思い出を作ろっか。万が一、園さんがドリフターになった時は私が今日の思い出を語ってあげるから」


「さらっと怖い事を言わないでくださいよ」


 園はモンブランを一口食べて無理矢理笑って見せた。時間さえも虚無になってしまう白い空間の事は一秒たりとも思い出したくない。意識が流出してしまわないよう、外部からの刺激であるケーキの甘みを噛みしめる。


「それとも、誰か特別な思い出を語ってくれる彼氏とかいるのかな?」


 甘ったるいコーヒーを口に含み、ゆっくりと喉に流し込みながら考えてみる。


 私がドリフターになったら、いったい誰が思い出を語り聞かせてくれるのか。誰かと共有できる思い出なんて、私が生きてきた時間の中に発生していただろうか。唯一浮かんだ顔は薄ぼんやりとしたヴェールの向こう側にいて、園に背中を向けていた。


 彼を思い出すのなんていつ以来だろう。今、どこで、何をしているんだろう。そんな不確かな情報では、そんな人間はいないも同然だ。


「ええ、いますよ」


 園は嘘を吐いた。

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