第9話 私なんて厚労省が所有する歩くハードディスク

 今日もまたユカリが語る思い出を聞くだけの単調な一日が終わった。


 園は風呂上がりの濡れた髪をバスタオルで撫でつけながら、ベッドの枕元に鎮座するブラックボックスをちらりと横目に見た。一般に流通している容量もそこまで大きくない国産メーカーの外部記憶装置。その小さな黒い立方体はインテリアとしてモノトーン調で揃えた部屋にうまく溶け込んでいるくせにやたらと存在感があった。


 さあ、電脳に繋げ。そう言わんばかりに艶消し黒の立方体は園を見上げていた。


 何となく、今夜は記憶のバックアップはやめておこうかな、と園は思った。


 園自身の思考を完全コピーするデジタルクローンの黒ワンピース園には、この不確かでマイナスな期待感もどうせすべてお見通しだ。もしも繋げなかったら、その繋げなかった理由すらずばり言い当てられて黒ワンピース園に少しの負い目を感じてしまうかも知れない。


 仮想世界の園に会いに行けばマイナスの感情を見抜かれて、会いに行かなければ負い目を背負わされる。それならば。園は濡れた髪を掻き分けて延髄部の生体端末にそっと指を這わせた。こちらから先に行動すべきだ。真正面から堂々と今日の記憶を語り聞かせて、どちらがオリジナルでどちらがコピーなのか思い知らせてやれ。


 園は少しだけ勢いをつけて電脳接続端子を繋いで、一気に電脳空間へダイブした。


「で、で、どうだった? どうだったの?」


 電脳空間マイルームである旧い図書館が再構築されるや否や、黒ワンピース園はすでに読書机のいつもの席に座っていて、分厚い革張りの本をばたんと閉じて上半身を迫り出して食い気味に聞いて来た。


「ちょっと、おかえりもなしにいきなりそれ?」


「はいはい、おかえりー。で、どうだったのよ?」


 薄いパステルカラーの部屋着の園は思わず頭を抱えた。先制攻撃するつもりが、まんまと不意打ち待ち伏せ攻撃を食らってしまった。こちらから先に行動すべし。やっぱり同じ事を考えていたか。


 ブラックボックスが非接続状態にある時はデジタルクローンは仮想世界で何をしているのだろう。ひょっとして、ずっと現実世界の園が電脳接続してくるのを待っていたのか。


「何が、どうだったのよ、なのかかわかんないよ。ただいまー」


「わかってるくせに。いいから早く言いなさいよ」


「意味不明。何の事?」


 今度、非接続状態時でのデジタルクローンの行動履歴をモニターしてみようか。デジタルクローン監視プログラムをバレないようこっそりインストールしてやる。


 にやけた顔した黒ワンピース園の向かい側に座り、まじまじと自分と同じ顔をした女を見つめた。風呂上がりのすっぴん顔の部屋着園とまったく同じ顔が真向かいに座っている。私もこんな顔する時があるのかな。なんか、やけに楽しそうだ。園はあえて笑顔を見せずに受け応えしていた。


「私の思考パターンはあんたの思考ルーチン。つまり、あんたがこうしようって思った事は、私もそうしようって思うの」


 仮想世界の園が低い声で説明口調で言った。


「はいはい、だから?」


 部屋着の園は背の高い本棚から一冊の電子雑誌を呼び出して、はらりと読書机に開いてから面倒くさそうに返事した。


「今日は男とお昼ごはんを食べようって思ったはず。私だったらそうするからね。メイクを変えて反応あった? そう、あったはずね。私達が決めた新しいメイクだもん。ナチュラルメイクで印象が変わった私を見てもらうために、例の研究員をお昼ごはんに誘い出したはず。さ、結果を言いなさいよ。次の作戦を立てようよ」


 相変わらず前のめりな黒ワンピース園がやいのやいのと囃し立てる。そのあどけない童顔はそれこそクラスメイトと恋愛話に花を咲かせる女子高生のようにも見えた。


「次の作戦も何もないよ。ただ社員食堂に入るためにあの男を利用しただけ。部外者がのこのこと入っていい場所じゃないでしょ」


「うん、いい作戦じゃない。それなら自然に同じテーブルの隣同士に座れるしね」


「だから作戦じゃないって」


「はいはい、そう言う事にしといてあげる。で、明日はどうするの? もうあんた一人で社員食堂入れるのは確認済みでしょ?」


「それは、そう、よかったらまた一緒にお昼しませんかって言われたから、そうする。仮想対話による喚起式カウンセリングに関しての一般企業研究職員の意見も聞けるし」


「あくまでも仕事上の付き合いってスタンスを見せるのね。で、次のステップとして仕事ではなくプライベートで外で食事でもって言わせる作戦かー」


「外でって、私はそこまで考えてー、るのかな」


 目の前でにやにやしている黒ワンピース園が言うからには、自分の中にも同様の考えが少しは芽生えているのかも知れない。デジタルクローンは人工知能との会話遊びの一種に過ぎないが、なかなか侮れない心理分析能力を見せる場合がある。


「外で食事とかってなると、少しめんどくさいって気持ちもあるなー」


 部屋着の園が読書机に広げた電子雑誌に顔を伏せて呟いた。雑誌に突っ伏したままくるっと顔を横に向けて窓から深い森の風景を眺める。窓? 私の図書館に窓なんてあったか? 園はびくんと跳ね起きて、窓の向こう側、あるはずのない外の世界を睨みつけた。


「ねえ。あんたさ、新しく窓をデザインした?」


「うん、した。この電脳空間のマイルームをあんたの心理描写として考えると、ちょっと暗過ぎるの。照明はオイルランタンだけだし、空間の奥の方は一枚絵を貼り付けてるだけ。高い天井は真っ暗闇。これじゃあ気分も滅入ってくるって」


「そうかな?」


「そうだよ」


 黒ワンピース園はつと立ち上がり、羽織っただけのカーディガンの袖を翻して観音開き窓に歩み寄った。本棚や階段手摺りと統一感のあるクラシカルな木の窓枠に寄りかかり、その瞳に窓の外の仮想世界を映して、現実世界の園にちょいちょいと小さな手招きをした。


「あんたに足りないもの、あんたが求めているもの、必要なもの。それは外部との接触だよ。全部を自分の内側で完結させようと思ってる。そんなのできっこないのに」


 部屋着の園も読書机から立ち上がった。観音開きの窓の黒ワンピース園の反対側にもたれかかり、ガラス窓に頬を押し付けるように外の世界を見つめた。とても重い液体が垂れたような厚いガラスはひやりと冷たかった。


「何が見える?」


 黒ワンピース園が囁く。


「樹。緑が濃い森。遠くまで続いている小径。枝には葉っぱがいっぱいで暗い。でも木漏れ日が溢れてて明るい。誰もいなくて静か過ぎて、誰もいないから私だけの森。だから寂しくない」


 部屋着の園が答えた。


「概ね正解かな」


 仮想世界の園が現実世界の園と同じようにガラスに頬を寄せた。同じ顔をガラスに映して鼻がくっつくほど近く見つめ合う。


「私があんたであるように、あんたは私であるんだ。私が求めているものが外部との接触であるならば、あんたにも外との接触が必要って事?」


 部屋着の園がぷいとガラスから離れた。黒ワンピース園はガラスに頬を寄せたままその後ろ姿を目だけで追った。


「そうかもね」


「外に出たいの? あんたは人工知能が再現している私の思考パターンのコピーに過ぎないの。外部記憶装置の中にしか居られないくせに生意気な事を言わないで」


「だから、外に出たいのは私じゃなくてあんたなの。あんたは私で私はあんたでしょ。私に必要なのはあんたが語り聞かせてくれる今日の思い出だけ。その思い出を再構築してあんたの言動をトレースするのが私。そして中にいる私を見て、あんたは外で何をするか決めればいいさ」


「私の思い出って」


「そう。私はあんたの思い出でできてるの」


 それではまるで仮想対話による喚起式カウンセリングではないか。部屋着の園は黒ワンピース園の背中を見つめながら思った。私は天野ユカリと同じ事をしているのか。そして天野優一もまた園自身か。


 黒ワンピース園はそれから一言も喋らず、窓の外に広がる森を眺めていた。




 海風が園の長い髪をさらう。


 鉛を溶かしたような空模様の下、湿気を含んだ冷たい海風はひゅるりと巻いて、錆色が染み付いた臨海公園のウッドデッキには日曜の午後だと言うのに人影もまばらだった。


 園も冷たい海風を避けてショッピングモールに引きこもりたいところだが、あいにくとモール館内は全館禁煙であり、今の園に必要な灰皿はこの海風が舞うウッドデッキにしか設置されていなかった。


 園は暴れる髪を押さえながらシガレットケースからとっておきの一本を取り出した。ケースの中にはラスト一本。仕事の流れに沿ってう一服するのと違って休日はタバコを吸うタイミングが計りづらい。ついつい早めに消費してしまう。


 リップクリームを塗っただけの唇にタバコをくわえ、パーカーのポケットからジッポライターを取り出すが、黒髪が風に踊り乱れてタバコに火をつけられなかった。


 ぐいと引っ張り巻き込むようにしてパーカーのフードを深くかぶり、乱れた髪の毛をフードの奥に押し込む。まるで黒いマフラーのように髪先を襟足から前に垂らし、パーカーのファスナーを首まで一気に引き上げる。首元の隙間が髪の毛で埋まり、吹き荒れる海風を防げてこれだけでだいぶ暖かくなった。


 待望のタバコをくわえて、ジッポライターの蓋を親指で弾いて金属を擦り合わせる鋭い音を立てる。返す親指で火を灯し、海風を遮るよう青白い炎を手で庇って唇のタバコを近付けた時、不意に耳に馴染んだ淑やかな声が投げかけられた。


「ほら、やっぱり園さんだ」


 タバコの先端に火が乗り移るまで園はなるべく動きたくなかった。でも、この声は。声からワンテンポ遅れて上半身をひねるようにして、唇のタバコとジッポライターの火がずれてしまわないように、声がした方に顔を向けた。そこにはフードの奥を窺うように立つユカリがいた。


「あ、こんにちはー」


 我ながら間抜けな声を出したな、と園はタバコに火をつけながら思った。


「園さんて、タバコ吸う人だったんだ」


 ユカリが一歩二歩園に歩み寄り、それでもタバコの煙が当たらないよう微妙な距離を置いて、穏やかに微笑みながら言った。


「ええ、まあ」


 喋ると口にくわえたタバコが揺れてうまく火がつけられない。園は口ごもるように返したが、ふと思い直してくわえタバコを揺すりながらさらに続けた。


「確かに過度の喫煙は身体に害を及ぼす可能性もありますけど、適量ならばリラックス効果も期待できます。要はどれくらいニコチンを摂取するか、です」


 そう一気にまくし立ててから、私はいったい何を言ってるんだ、と吐き出した言葉を掻き集めて飲み込んでしまいたくなった。


 他人との接点を深めるために積極的に人と会話を交わすように心掛けているとは言え、今さらユカリに対してこんな堅い説明口調だなんて。もっとリラックスして人と会話しろ、園。自分を叱りつけて、ようやく火がついたタバコを胸いっぱいに吸い込み、風に巻かれてユカリに当たらないように紫煙を細く吐き捨てた。


「ふうん、そうなんだ。でも今時火をつけるタイプのタバコだなんてずいぶん渋いセンスしてるのね」


「電子式とか加熱式とか、リキッドスチームも試してみましたけど、やっぱり直火の煙が電脳に一番効きます。電脳装備者で喫煙者ってパターンは非常に少ないので、私自身が厚労省にとってもいいサンプルケースになってます」


 まだ言うか。勢いに任せて喋ってみたものの、もはや園自身でも何を言ってるんだか理解できなくなってきている。


 そんな園の心情にも気付かず、ユカリはふと思い出したように園の頭の天辺からつま先までをじっくりと見定めた。


「ねえ、園さんって、そんな格好してるとほんとに女子高生にも見えるわね」


 園の華奢な身体のラインが出ないほどワンサイズ大きめのライムグリーン色したパーカーにダメージデニムのミニスカートを合わせていたが、パーカーのサイズが大き過ぎるため、黒ストッキングに包まれた細い脚がまるで田圃に立たされた案山子のようにパーカーから直接ひょろっと伸びていた。だぶだぶの袖から覗く指先と長い髪の毛が流れ落ちるフードの奥の小さな顔の部分だけ肌がかろうじて見えている。


「子供っぽいですか? すみません」


「褒めてるのよ、これでも。若く見られるってだけで羨ましいわ。三十過ぎたらお肌なんてあっという間にかっさかさになっちゃうんだからね」


 黒を基調とした落ち着いた大人の装いをしたユカリが頬に手を添えて言った。実年齢と見た目の差だったらユカリも園の事は言えない。三十路を迎えたばかりなはずが、まだまだ二十代前半にも見受けられる。


「それにね、仕事の時はびしっとスーツにネクタイで決めて、休日はダメージミニスカートから黒ストッキングをちらっと覗かせるなんてギャップ見せつけられたら、職場の男の人達が放っておかないんじゃない?」


「あいにく私の職場にはおっさんと老人しかいません」


 タバコの煙が海風に煽られて園の周りに白い筋を走らせる。ユカリの方に巻き上がらないよう立ち位置を変えて園は言う。


「厚生労働省の電脳保険課、それも倫理委員なんて、有能な若い男のいる場所じゃありませんから」


「そう? 有能な若い女の子なら一人いるじゃない」


「倫理委員電脳解析担当に配置されたのは、私がたまたま適性が合った政府認定の電脳を装備しているからです。言ってしまえば、私なんて厚労省が所有する歩くハードディスクですよ」


 右手を拳銃に見立てて、自分のこめかみに当てて園は言った。ばんっと人差し指の引き金を引く。ここにある電脳は使用権こそ園が管理しているが、運営は税金で賄われている政府の機材、特別製の電脳だ。だから上司が勝手に電脳の起動パスワードを使用したりもする。


「電脳のことはよくわからないけど、園さんがハードディスク代わりに使われてるとは私は思わないな。適材適所って言うじゃない? ちゃんと現場に適した能力があるのよ」


「ハードディスクじゃないならセクハラ要員ですね。老人達への生贄みたいなものです。こんな小さなお尻を触って何が楽しいのやら」


「あらあら、それは聞き捨てならないわね。ねえ、せっかく偶然会えたんだし、ちょっとお茶していかない? モンブランがおいしいお店がすぐそこにあるの」


 不意打ちのようなお茶の誘いに、思わず園は手元のタバコを見つめてしまった。たった今火をつけたばかりだ。まだほとんど吸っていない。せっかく寒い中をウッドデッキまで歩いて来たと言うのに。でも、他人と意味もない会話をしてみるのもいいか、と最後に一口深く吸い込んでからタバコを灰皿に押し付けた。


「ええ。いつもお誘いを断ってるので、今日はお付き合いします」

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