第8話 練習台になってあげる
園は電脳空間のマイルームにいた。
自室のベッドの上に部屋着のまま寝転んで、ヘッドボードのブラックボックスを延髄部の生体端末へ有線で繋ぐ。ケーブルを少し手繰り寄せて配線に余裕を持たせて、ごろりと仰向けになり、両手両脚を軽く開いて手のひらを上に向ける。いつ眠りに落ちてもいいように楽な姿勢で、そっと目を閉じる。するとそこはもう遠い異国の旧い図書館だ。
読書机のオイルランタンのみが光源の薄暗い図書館は、いつ如何なる時も水底に沈んだようなぴんとした静寂で園を包み、自然の木の深い色合いで統一された空間に招き入れてくれる。
アンティーク感のある背の高い本棚に囲まれた読書机は、たとえ誰であろうと触れる事すら出来ない園のためだけに存在する電脳空間。完全に孤立した仮想世界だ。分厚い革張りの本を適当にめくりながら、園はもう一人の園を探した。
いつもならすぐそこの本棚に寄りかかって立っているのに。今日は姿が見えない。現実世界の園はぐるりと図書館内を見回して仮想世界の園の姿を求めた。
電脳空間としての図書館は本棚の向こう側まではデザインしていない。歩行可能エリアは読書机までで充分で奥側まで歩いて行く事などないからだ。オイルランタンに薄っすらと照らされた長い影がぼやけて映る本棚群。そんな寂しげな背景画を貼り付けているだけだ。ふと、園は薄暗い背景の中に階段を見つけた。
階段なんてデザインしたっけ? いや、階段だけではない。背景画を貼り付けた空間の側に新たな電脳空間が奥へ伸びている。薄闇の向こう側に吹き抜け構造となったエリアが見て取れた。
確かにもうそろそろ図書館を拡張させて歩き回れるようデザインし直そうかとは思っていたが、まだ図書館内の奥行きにすら手を付けていない。ましてや吹き抜け二階構造だなんて、建築に関する知識など持ち合わせていない園にとって容易にデザイン出来るものではない。
読書机から身を乗り出して薄暗い影の奥の階段を見つめていると、固い木材を踏み付ける靴音が小さく聞こえてきた。ゆっくりと階段を下りてくる靴音の主は仮想世界の園だ。黒いワンピースにグリーンのカーディガンを袖を通さずに羽織るいつも通りのスタイルで階段の手摺りにもたれかかり、こちらを見上げている現実世界の園にひらひらと手を振る。
「おかえりー」
ぱたんとわざとらしく音を立てて革張りの分厚い本を閉じる薄い部屋着姿の園。きっと睨むように仮想世界の園を見上げる。
「それ、あんたがデザインしたの?」
「そうね」
「私に断りもなく勝手にやったの?」
「うん。でもこう言うの好きでしょ」
悪びれた様子もなく黒ワンピースの園が言った。踏み板が短くて傾斜のきつい階段を手摺りを伝いながらするすると下りてくる。趣向を凝らした木工細工のような手摺り子の隙間から細く白い脚が覗き見えた。
「うん、そりゃあ、嫌いじゃあないけど」
部屋着の園が立ち上がって言う。
「勝手にデザインを変えられるのはあんまり気分がいい事じゃない」
黒ワンピースの園のすぐ側を通り抜けて見慣れない階段の手摺りに手をかけて階段上を仰ぎ見る部屋着の園。階段の先は真っ黒く塗り潰されていた。
「まだ吹き抜けの先、二階部分はいじってないよ」
「でしょうね」
「上って確かめてみたら?」
黒ワンピースの園が読書机に座って、部屋着の園が読んでいた革張りの本を手に取った。
「確かめるまでもない。どうせあんたは私なんだ。私が好きなデザインは知ってるし、私が嫌いな構造はあんたも嫌いでしょ」
黒ワンピースの園は部屋着の園のデジタルクローンだ。自律学習型人工知能と濃密な会話を繰り返し、オリジナルの思考パターンと対話モーメントを覚え込ませた、言わば自己意識の複製であり、デジタルクローンとの会話は鏡と対話するようなものだ。
オリジナルの思考を忠実にコピーするデジタルクローンはもはやオリジナルの思考パターンそのものであり、園の好き嫌いはもちろんの事、行動判断のスピードまでそっくりそのままペーストしてくれる。園がやろうと思っていた電脳空間デザインの修正を園コピーがすでにやってくれていただけだ。デザインの好みに関してとやかく口を挟む余地などない。
「あれ、メイクの本なんか読んじゃって、今日はリアルの園ちゃんに何か良い事でもあったのかなー?」
園は現実世界で購入した電子書籍をこの仮想世界の旧図書館で読めるよう設定していた。ぱらぱらと革張りの本の重たいページをめくりながら、電子書籍の内容を読み上げて黒ワンピースの園ははしゃいだ声を上げた。
「別に良い事って訳でもないけど」
部屋着の園が黒ワンピースの園から革張りの電子書籍を乱暴に取り上げて、それでも律儀に答えてやる。
「ランチに誘われただけ。ただそれだけ」
「へえ、ランチに誘われた。久しぶりに男とランチかー。いいじゃない」
「誘われただけだってば。結局一緒に食べてないし、最初は誘われたって事すら気付かなかった」
「ほうほう。それでそれで何でメイクの本なんか読んじゃったりしてるのかな」
「特に理由なんかない。ただ何となく、何となくだ」
「メイク変えたっていいんじゃない? 何て事もない気分転換さ。別に誰かのためでもなく」
黒ワンピースの園がふわりと顔を上げる。強めのアイラインで目元を強調するメイクの園がふるふると顔を振ると、瞬き一つする間にメイクの跡は消え去りすっぴんの顔が現れた。柔らかい角度で吊り上がった眉毛にかかる前髪はさらりと流れて、薄いピンクの唇は和かに微笑んでいた。
「練習台になってあげる」
「練習って、そんな急に言われたって」
「あんたは私なんだから、もう心は決まってるって知ってる。さあ、好きにメイクしてみて」
タバコに火をつけるタイミングを誤ったか。それとも信号が幸運にも連続で青だったおかげか。地下駐車場に滑り込んで所定の駐車位置にメタリックピンクの愛車を停めてもなお、園の唇にはまだ火のついたタバコがくわえられていた。
園はタバコは一日に五本までと決めていた。毎朝の儀式のように箱から小さなシガレットケースに五本だけ移し、通勤中の車内で最初の一本を消費する。ちょうど地下駐車場に潜る頃に吸い終わるよう逆算してジッポーライターに火を灯すのだが、今朝はまだ半分も燃え尽きていない。
地下駐車場内をゆったりと徐行運転し、園の駐車スペースに停めてもまだもう二、三服できそうだ。一日五本限定の貴重なリラックスタイム。ここで揉み消すなんてもったいない。
園はくわえタバコのまま車を降り、きょろきょろと周囲を見回した。大丈夫だ。地下駐車場に他の職員の姿はなさそうだ。ヒールの音を控えめに響かせて、歩きタバコで薄い紫煙をたなびかせながらバッグの中の携帯灰皿を探った。
「コラッ!」
と、そこへいきなり一喝されて、びくっと背筋を伸ばしてしまう園。鋭い声のした方へぎこちなく顔を向けると、鮮やかなオレンジ色の作業着が目に飛び込んできた。太いコンクリートの柱の側に、柱に負けず劣らず立派な体格をした中年女性の清掃員が腰に手をやって仁王立ちしていた。
プロフェッショナルな清掃用具を満載にしたカーゴを押しながら掃除のおばちゃんは近付いてくる。とりあえず笑顔を作って朝のご挨拶をしておこうと、園はくわえタバコのまま軽く頭を下げた。
「おばちゃん、おはようございます」
「ダメでしょ、園ちゃん!」
掃除のおばちゃんは自分の口元を指差してにこにことした愛嬌のある笑顔で園を叱りつけた。
「駐車場内は禁煙! 何度も言ってるでしょ」
「今消すとこでした。ほら」
園はバッグの中からようやく探し当てた携帯灰皿取り出すが、そんなことお構いなしに掃除のおばちゃんはお説教を続ける。
「タバコの火程度で警報器は鳴らないからって、ダメなものはダメなの」
「はーい」
確かに悪いのはくわえタバコの自分だ。園はタバコを携帯灰皿に押し付けて揉み消した。あと一服は出来たのに。名残惜しそうに携帯灰皿をパチンと閉じ、気を付けの姿勢でもう一度頭を下げる。
「はい、これでいいでしょ? 改めて、おはようございます」
「はい、よろしい。おはよう。……あれ、お化粧変えたの?」
掃除のおばちゃんが丸っこい顔を園に近付けて覗き込んできた。背の低い園にとって体格が良過ぎる掃除のおばちゃんの接近は圧が強い。一歩、後ずさる。
「あー、いや、まあ」
思わずバッグを掲げ上げて目元を覆ってしまう園。眉は強く書き加えずにもともとの自然なカーブを描いたままにし、目尻もアイラインの色を柔らかいものに変えてマスカラも控えめに。アイカラーもぱっとした明るい色を選んでみた。
「やっぱり急にメイク変えるのって変ですか?」
顔を隠したバッグをそうっと下ろして聞いてみる。
「どれ、おばちゃんに見せてごらん」
新しいメイクを黒ワンピース園でしっかり練習したとは言え、こうも至近距離で顔面をじろじろ見られるのはさすがに気まず過ぎる。一度は下げたバッグのシールドをまた持ち上げる。再びシールドの向こうに隠れようとする園に掃除のおばちゃんは笑いかける。
「何か良い事でもあった?」
「良い事あるとメイクって変えるものなんですか?」
ブラックボックスの中の黒ワンピース園にもそんな事を言われたのを思い出し、園はバッグの向こう側からちらっと掃除のおばちゃんを覗き見た。現実世界の人間に見られる前にまずは掃除のおばちゃんで反応を見てみようと思ったのだが、やっぱり気恥ずかしさが前に出てしまった園。ビジネスバッグのシールドをなかなか下げられない。
「そう言う訳じゃないけど」
「これは単なる気分転換です。特に意味はありませんよ」
「でもいいんじゃない? いつもみたいに怒ってるようなお化粧より全然可愛いよ」
「そうですか?」
「うん、全然いいよ。おばちゃんと違ってまだまだ若いんだからすっぴんでもいいくらいよ」
「この前、仕事で失敗してゲロ吐いちゃった時、顔洗ってすっぴんに戻りました。一日すっぴんはさすがに人目が怖かったですけどね」
「園ちゃんくらいの歳なら全然すっぴんの方がいいわよ。これからはしょっちゅう吐いてすっぴんでいなさい」
豪快に大口を開けて笑う化粧っ気のほとんどない掃除のおばちゃん。釣られて園も笑った。自然に笑うなんて、久しぶりかも知れない。笑い声をこぼしながら、園は思った。
今日もユカリは穏やかな歌を詠むように思い出を語っていた。深い眠りについているような、昨日とまったく変わらない天野優一にユカリの化粧の仕方について軽く口論になった時の思い出を聞かせていた。
『女性のメイクってのはね、男性の髭剃りとは全然別次元のものなのって言っても、優一くんは結局理解できなかったもんね』
もはや毎朝の日課のように園がユカリを迎えに行った時、ユカリは園のメイクの変化にすぐに気付いてくれた。何か良い事あったか、とは言われなかったが。
移動の車内でも話題はもっぱらメイクの事ばかりで、あくまで年上の女性として、ユカリからメイクに関して幾つかアドバイスももらえた。
それは今まで経験した事のない他愛ない会話で、園は嬉しかった。意識しなくとも自然と笑みがこぼれた。
メイクを変える。たったそれだけの事が、精一杯強がって装備していた重たい鎧を脱ぎ去る事ができたように思えた。
黒ワンピース園との会話。掃除のおばちゃんとの会話。そしてユカリとの会話。どれも何気ない日常会話だが、久しく味わっていない人の温もりがあったような気がした。実は思い出とはそう言う何気ない人の温かさなのかも知れない。園は思った。
変な角度で意地になって、他人に隙を見せずにへし折れないようにと強張って生きるより、他人の言葉に耳を傾け、思いを飾らずに口にする事でも普通にコミュニケーションは成立する。それを思い出として振り返る事で自己の思いが形成され、他人の心の中に自分の像を創り上げる。思い出なんて現実を生きるのに必要ないものかも知れないが、現実に生きた事を証明するには不可欠なものなのかも知れない。
『お化粧にはちゃんと意味があるのよ。時と場合に応じてメイクに変化をつける。大人の女性はみんなやってる事よ。何より、隣に立つ旦那様のために見栄えを良くしなくちゃね。でも優一くんはそれも気付いてくれなかったね。化粧の時間が長過ぎるって。誰のためにしっかりメイクしてると思ってた?』
ユカリが化粧の時間に関しての口喧嘩を楽しそうに語り、脳波の振幅で応える天野優一を見ているとそれがよく解る。他愛ない会話でも、十分に人と人とを繋ぎとめる結合端子となれる。
『今思えば、ほんと、優一くんは私のメイクに無関心だったね。ほら、メイクに時間かかっちゃって映画の時間に遅れちゃった事もあったじゃない? ずーっと優一くん不機嫌だったの覚えてる?』
たとえ会話の内容が嘘偽りだったとしても、心にない事をその場を取り繕って喋ったとしても、それでも会話は会話だ。他人と接した明確な記録になり、やがて川の流れで角が取れる丸い小石のような滑らかで手触りの良い記憶となる。
ユカリの化粧時間が長過ぎたせいで観たかった映画の上映時間に間に合わず、さらにレストランの予約時間に遅れ、ユカリは夫の運転する車の助手席で延々と愚痴を聞かされる羽目になる。そんな会話でも天野優一の脳波はかすかに波紋を呼び起こしている。園にはそれが楽し気な波に見える。初めて、ほんの少しだけだが、話し相手がいるユカリを羨ましく思えた。
思い出を作るため。そんな陳腐な理由ではない。ただ、誰かと繋がっていてもいいかな、シンプルにそう思えたから。メイクを変えたのと同じだ。特別な理由なんてない。
園は細い手首に巻き付いた時計を見た。もうすぐ正午だ。
ふう、と大きく深呼吸し、電脳を起動させて一つのファイルを展開させる。篠田からもらった天野優一とユカリのカウンセリングに関するデータファイルだ。視界に開かれたそのファイルの中から小さなデータを探し出す。篠田のメールアドレスを。
あった。
園はもう一度深呼吸して、メールを送信した。
『厚生労働省電脳保健倫理委員電脳解析担当官の砂原園です。お疲れ様です。実は、今日はお昼ご飯を持ってくるの忘れてしまって、私のような社外の人間でもこちらの社員食堂は利用できますでしょうか?』
返信はすぐに来た。
『もう、ぜひ! 僕がご案内します! 今すぐそちらに行きます!』
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