第三章 偽装

第7話 エレクトリカだと聞いていたもので

 厚生労働省推奨のガイドラインに則った仮想対話による喚起式カウンセリング、いわゆる思い出療法開始から二日目。モニターの中に佇むユカリは、やはりどこかヴァーチャルな雰囲気に包まれて、モニター越しに受け取る情報はどうしても現実味が薄れてしまっていた。


 園の目の前に展開されるすべての事象が作り物のようで、よく出来た虚構の寸劇を見させられているように感じられた。それは小さなモニターを通して見ているから、という視覚的な理由だけではない。すべてが漂流者天野優一の妻、献身的に思い出療法に協力しているユカリが出力している主観的なデータでしかない。それが園にとって現実味が足りないと思える大きな理由だ。所詮は色褪せた他人の思い出なのだ。


『いくら優一くんが電脳装備者だからって、優しい旦那様である優一くんの隣に座っていたって、勝手に回るハンドルってのは怖いものなのよ』


 ユカリは相変わらず子守唄を口ずさむような穏やかな口調で、十四週間もの深い眠りについている天野優一に二人だけの思い出を話し聞かせていた。


 ユカリが紡ぎ出す言葉に天野優一が物理的に反応を示す事はない。これまでの十四週間がそうだったように。それでもユカリはベッドの側まで椅子を引いて天野優一の手を握りながら謳うように思い出を語っている。きっとこれからの時間もそうしていくのだろう。


『紅葉を観に行こうって、初めてドライブに連れてってくれた時の事覚えてる? 僕は電脳装備者だからこんな事も出来るんだよって、峠道でいきなり目隠し手離し運転し始めちゃって』


 それは園の理解の範疇を軽く飛び越えている行動だ。もしも園がユカリの立場だったら、ドリフターの帰還限界点である四週間目で諦める自信があった。たとえ愛する夫の帰還と言えども、十四週間もの膨大な時間をたった一人で思い出に浸り続けるのだ。還るべき場所である自分自身の記憶の中の座標すら見失ってしまう。


『ただえさえ右へ左へぐるぐる道の峠道を、あっちへふらふらこっちへふらふらー。今思うとさ、優一くん絶対わざとゆらゆら自動運転してたでしょ。私を怖がらせるために』


 生暖かく柔らかなマネキンのようにただ横になっているだけの存在に延々と思い出話を聞かせるだなんて、そんなものは自己陶酔としか思えない。園の目には、ユカリが死の淵を漂う夫を見守る献身的な妻を演じている女優としか映っていなかった。


『優一くんがコレクティブコントロールだから大丈夫だなんて言っても、私はキャーキャー叫んじゃって、それを見て優一くんったら楽しそうにケラケラ笑ってて』


 あのお淑やかな大人の女性と言う言葉がぴったりなユカリが騒ぎ立てる姿は園には想像できなかった。ずっと眠ったままの天野優一の笑顔もまた思い浮かべる事ができない。二人の思い出に園が入り込む余地はなかった。


『あの時ね、実はね、この人と一緒になれたら、毎日がこんなにスリリングで楽しいのかなってドキドキしてたの。怖かったのは本当よ。今でも、コレクティブコントロールは助手席から見てて怖いものよ』


 ユカリが見ていた光景を天野優一も見ていたのだろうか。ユカリの脳内で再生される二人だけの思い出を天野優一の電脳は記憶をベースに再構築しているのだろうか。


 モニターの中のにこやかな表情のユカリをじっと見つめていると、不意にドアが開く音がして園は身体をびくっと震わせて振り返った。


「あ、すいません。ノックはしたつもりでしたが、返事がなかったもので。驚かせちゃいました?」


 背の高い男がドアから半身になってこちらを覗いていた。天野優一のバイオシグナルデータを管理している社員で、山鹿と園が初めて訪れた時に対応してくれた篠田隆士と言う研究員だ。


「いえ、別に。すみません、こちらに集中していたもので……」


 言葉を濁して園はモニターに向き直る。しかしながらモニターを眺めていても、ユカリの声を聞く以外園には何もする事がない。手持ち無沙汰からノートPCのキーボードを撫でるように触り、液晶モニターの角度を少しだけ変えて、ちらりとドアの方を盗み見る。篠田はひょろ長い手を縮み込ませるような格好でまだドアからこちらを窺っていた。出て行く気配はなさそうだ。


「……あの、何か?」


 園はモニターのボリュームを落として立ち上がって訊ねた。椅子に座ったままだと、どうしても背の高い篠田を見上げるようなポジションになり、ただでさえ悪い目付きが相当きつくなってしまう。


「あ、いや、山鹿さんに頼まれていた、その、天野に関するデータのコピーを用意してきたんですが……」


 下から睨むような目付きの園に萎縮してしまい、しどろもどろに答える篠田。


「山鹿は本日は別件が入っていてこちらには来れませんので、よろしければ私が受け取っておきます」


 園はそう言って篠田に一歩近付いたが、篠田は何かを言いたげに視線をさまよわせ、ドアの向こうからのっそりと縦に長い身体を引っ張り出してきた。その両手は空だった。園は首をかしげて先を促す。


「データ、媒体は?」


「はあ、あの、砂原さんは、エレクトリカだと聞いていたもので……」


 篠田は園の当たりの強い視線に負けてもごもごと言い淀んでしまった。尻すぼみになった篠田の声に、園は心の中で舌打ちを一つ鳴らした。


「普段は電脳をオフラインにして仕事しているので、今電脳を繋ぎます」


 園は小さく溜息をついて、そっと目を閉じ、頭の中で電脳接続のパスワードを魔法の呪文のように唱えた。


 それにしても、エレクトリカ、ですか。まだ出会ったばかりだと言うのに、随分と気安くその呼び名を使ってくれるな。園は電脳をオンライン接続した。


 エレクトリカとは若い世代の間で使われている電脳装備者の俗称だが、園はその単語が嫌いだった。


 元ネタは一部の人間にカルト的な人気があるSF映画に登場したロボットの呼称だ。人間になりきれなかったロボットとロボットになりたかった人間との交流をテーマにした物語の主人公だ。


 人間とは何かと言う哲学を語りたかったのか、ロボットとは何かと言うSFを描きたかったのか、どっちつかずの物語が展開されて、映画評論家達から酷評を受けた映画だった。そんな映画評論家の意見に反発するかのように一部のロボットフリーク達から絶賛され、皮肉の意味も含めてロボット映画の代名詞的な扱いを受けている。


 そのせいかどこかロボットに対して自虐的なイメージが付きまとう言葉だ。厚生労働省勤めの人間としてもそんな特殊なジャンルのスラングは使いたくないし、使われたくもない。


 軽い貧血症状に似た眩暈がして、視界が一瞬濃いグリーンに染まる。すぐに現実世界は復活するが、視界の端に白いラインで描かれたインターフェイスが現れて、電脳オンライン接続完了のサインとデータ受信要求アイコンが提示されていた。


「ああ、もう送信していたんですね」


「ええ、まあ。オンライン反応がなかったので、今日はいらっしゃらないのかなってこちらに寄ってみたってとこです」


 篠田がひょろ長い身体を折って頭を下げた。


「じゃあデータをいただきます」


 篠田の方を見ると、胸の前辺りにめくられた紙束を模したデザインのアイコンが揺れていた。篠田としては部屋に入るずっと前から送信コマンドをかけていたのだが、電脳をオフラインにしていた園にそれに気付く術はなかった。


 そうならそうと最初から言えばいいのに。はっきりしない奴だ。園は内心毒づく。


 篠田のデータアイコンがふわふわと漂う風船のように園に近付いてくる。目の前まで流れて来たアイコンに手をかざして蓋を開けるような仕草をしてやると、園の視界の下半分がものすごい勢いでダウンロードされた半透明のテキストデータや画像、動画のサムネイルで埋まってしまった。


「……すごい量ですね」


 思わず額に手を当てて呟いてしまう園。


「山鹿さんには、天野の思い出療法に関するすべてのデータを、と言われてましたので」


 園は速攻で新しいフォルダを作成し、ぷかぷかと宙に浮くデータ群を全部まとめてフォルダに落とし込んだ。


「はい、確かに受け取りました」


「一応、個人情報も含まれていますし、社外秘レベルのデータもありますので、管理は、その、ぜひ気を付けてお願いします。電脳上のセキュリティを厚労省の電脳装備者に言うのもアレな話ですが」


 厚生労働省推奨のガイドラインに則った仮想対話による喚起式カウンセリングは、原則として一般で言うところの医療行為ではない。エポックメーキングを担う電脳と名付けられたシステムの研究開発の分野になる。


 そこは人類が初めて立ち入る新たなる世界だ。まだ誰も足跡を残した事がない分野は大きなビジネスチャンスとなる。電脳関連企業がこぞってドリフターの研究をしている。そんな生き馬の目を抜く情勢の中、文字通りの生きた情報源が手に入ったのだ。天野優一は篠田にとって同僚であり友人であるかもしれないが、同時に貴重な研究材料でもある。園としては篠田の口ぶりは気に入らないが、その心情は同じ電脳研究者としては理解できた。個人的な見解では、第一印象は最悪な男性だが。


「はい。機密保持に関しては厚生労働省を信頼してください」


 園は笑顔を作り、髪を揺らす程度に軽く頷いてみせた。ぎこちない仕草だと自覚はしているが、民間企業の協力あっての今回の調査だ。これくらい媚を売ってもいいだろう。


 篠田は園のわざとらしくもあどけない笑顔に気を許したのか、つと園に歩み寄ってモニターの中のユカリを覗き込んだ。


「カウンセリングは順調ですか? 天野の状態に何か変化は?」


「……目で見て解る変化はありません。でも、脳波の波形に変化が見られた箇所を抽出して四十八倍に圧縮をかけたところ、レム睡眠とほぼ似通ったパターンを示しました」


「レム睡眠、ですか」


 篠田は園の隣に立った。少し近過ぎやしないか? 園はなるべく自然に一歩だけ後ずさった。


「ひょっとして、天野はとてもスローな夢の世界にいるのかも知れませんね」


「スローな夢の世界ですか。四十八倍の時間が流れている世界って、どんなんでしょうね」


 脆く儚い意識を恐ろしいまでにゆっくりと浸食して跡形もなく溶かしてしまう白い虚無。その奥底から思い出をとてつもなくスローに再生しながら現実空間へと浮上する。


 園の脳裏にそんな虚ろな光景が思い描かれた。しかし、肝心の思い出とやらがぼんやりと不鮮明なままで、色褪せた映像は何一つ出てこなかった。


 園は思う。もしも私がドリフターになったら、帰還の助けとなる思い出っていったい何だろうか。園を真っ白い虚無の世界から救い出してくれるほどの強い絆を持った思い出。そんなものは園には思い当たらなかった。そもそも、誰が私に思い出を語り聞かせてくれるのだろう?


「……ですか、砂原さん?」


 篠田の問いかけにふと我に返る園。何やら熱心に話しかけていたようだが、その言葉は何にも園の頭に入っていなかった。


「えっ?」


「いや、もしお昼まだでしたら、社員食堂にご案内しましょうか? この集合オフィスビルの食堂、けっこう評判いいんですよ。良かったら、ランチしながら、思い出療法に関してお話でも聞けたら、と。どうでしょう?」


「……私と?」


「ええ、はい。その、良かったら」


 少し間を置いて、園の顔から微笑みが消えた。


「いいえ、けっこうです」


 ばっさりと言い捨てる園。


「私は食が細いので昼食は自分で用意してる分で十分足ります。そう言う食堂とかでは量が多くて残してしまったりしますから」


 身長差のある篠田を見上げると、どうしても睨むような目付きになってしまう園。そんな園の視線に再び負けてしまい、篠田はあっさりと提案を引っ込めた。


「いえいえ、いいんです。もし良かったら、だったので」


 そして逃げるように背を向けてドアを開ける。


「また、何か、御用がありましたらメールください。チャンネルはいつでも開けておきます。僕のアドレスはさっき渡した資料に添付してあるので、その、なんなりと」


 そのまま園の返事も聞かずに、篠田はそそくさと部屋を出て行った。背が高い篠田がいなくなった分だけ急に広くなった部屋に一人残された園は、何事もなかったかのようにデスクに座り直し、モニターに映るユカリと対峙した。


 ユカリの口調と天野優一の脳波とを比較し、波形と時間の同期を取り、篠田からもらったばかりのデータの中から過去の脳波と照らし合わせて類似したパターンがないかマッチングをかける。


 検索結果が出るまでの間、園は喚起式カウンセリング開始当初のデータを呼び出してみた。ほぼ待ち時間もなくカウンセリング初日の動画ファイルが開く。緊張した顔つきのユカリが園の視界に浮かんでくる。その顔色は青白く、指先も落ち着きなく細かく動き回り、天野優一の顔をまともに見られない様子だ。震える声が園の電脳内に再生された。


『優一くん。君は溶けてしまった。でも、絶対に取り戻してみせる』


 ユカリの瞳は澱んでいなかった。決意に満ちた、芯のある光を宿していた。


 ふと、思い出したように園はモニターを見つめる。モニターの角度をずらすと、そこにぼんやりとした自分の顔が映った。


「……私、ランチに誘われたの?」


 きゅっと吊り上った眉と目尻を強調したメイクをした気の強そうな女が、薄く澱んだ瞳で園を睨みつけながら呟いた。

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