第6話 お喋りしたい気分だーっ
都市はまるで生き物のように変異し、そこに生活する人間は細胞のように細かく蠢めく。目に見えない世界に張り巡らされたネット環境は意識と無意識。声となり、あるいは心の中で、お互いに情報を交換している。そして道路は血管。生き物が生き物であるために絶えずエネルギーを流している。園もまた一人の人間として、都市機能と言う巨大な生き物の一部となりエネルギーを消費し、情報を発信し、受信して、変わり映えのしない日々を繰り返して生きている。
メタリックピンクのテントウムシを思わせる丸っこいフォルムの車は、わずかな時間だけウインカーを瞬かせてすぐさま車線を左へまたいで走った。そのまま斜めに車線を走行し、歩道に乗り上げる直前にほんの少しだけ徐行する。
フロントガラスの左サイドに歩道接近の警告表示がなされ、柔らかなアラーム音が園の耳に飛び込んできた。園はいつものようにそれを無視して徐行運転のまま華奢な身体をぐいと捻って目視で歩行者を確認する。よし、歩行者はいない。
小さな足でアクセルをくんっと踏み込み、細い腕でハンドルをぐるぐるとさばく。モーター音を甲高く奏でて、メタリックピンクの車体は歩道を乗り越えて園のマンションの地下駐車場へとするすると潜っていった。
電脳を稼働させてコレクティブドライブで車を操縦すれば、こんな粗末な身体を駆使して運転しなくともいい。それこそ目をつぶっていてもこんな操作ぐらい一秒一センチの誤差もなく完璧に繰り返せる。
それでも園は同じ事の繰り返しの毎日で、可能な限り電脳は使わないよう心掛けていた。行動すると言う原理的な現象がルーチン化してしまわないように、あえて手続きを増やして複雑化した行動パターンに身を投じていた。
シートベルトに胸を締め付けられながら軽く背伸びをして、車体前方を覗き込んで地下駐車場の大きな柱を左折。突き当たり左側が園の駐車スペースだ。
ルームミラーだけでなくちゃんと身体を捻って後方確認し、丁寧に何度も切り返す。車体に標準装備されている衝突防止センサーはとにかく優秀で、わざとぶつけようとハンドル操作を雑に振り回しても勝手に車両の挙動をコントロールされてしまう程だ。園は鋭敏なセンサーが働かないくらいに奥の壁から離れ、お隣さんの車とも距離を取り、ゆっくりと所定の位置にきっちり停車させた。
多少の時間はかかっても、手間を惜しまず丁寧に行動する事が電脳制御に関して意識が麻痺してしまうのを防ぐコツだ。当たり前のように電脳機能に頼ってしまっては、それでは器用に人間の精神活動の真似事をするロボットと変わらない。この複雑な手続きは、私は人間だ、と言う確固とした園の宣言だった。
ひっそりと静まり返る地下駐車場にパンプスの軽い靴音を響かせて、ちゃんと自分の脚で階段を歩いてエントランスの集合ポストまで郵便物を取りに行く。
園のポストの中には数枚のダイレクトメールの封筒が入っていた。
今時こんな紙を使った物理郵便でのダイレクトメール広告だなんて。再生紙使用のリサイクル税の増税や広告の電子郵便化がメインになっている現在の郵便事情の中、この広告会社はやっていけてるのだろうか。園は他人事ながら余計な心配をしつつ、不必要な物理郵便物を集合ポスト側のゴミ箱へ投げ入れた。
無駄な郵便物を確認して選別してゴミ箱へ打ち込む無意味な行動、非合理的な時間。それでも園にとっては自分が社会の一員であると、人間として消費社会に必要とされていると再確認できる大事なアクションだった。
電子郵便をロボットに送り付けたところで消費活動なんて期待できやしない。広告を受け取る事だって人間ならではの無味乾燥な社会的貢献だ。個人情報のセキュリティに関して言えば少々甘い行動かも知れないが、園はあえて幾つもの通販会社に実名で登録して物理郵便を要求していた。園宛のダイレクトメールをゴミ箱へ投げ入れるために。たまにポストが空っぽだったりすると少しだけ不安になる。
園の部屋は二階の端、エレベータホールから最も離れた部屋だ。できる事なら誰にも会いたくない、と地下駐車場とは違って靴音を立てないようにそうっと忍び足。自分の部屋のドアにたどり着くまで、他室のドアから誰も出て来なくてほっとする。
飾り気のない金属の板を立てかけたようなドアの前でバッグの中から部屋の鍵を手探りで見つけ出す。電子キーならばその部屋の住人がドアの前に立つだけで、本人そのものが生体キーとなって自動でロックは解除される。園はそれも設定オフしていた。自分の手で鍵を探し、鍵穴に差し込み、金属の重たい扉を引き開ける。この面倒臭い手続きこそが自分だけの領域に帰ってきたと確定させる論理的なキーとなるのだ。
照明も灯っていない真っ暗な玄関で後ろ手にドアをロックする。ふうと、静かな溜息を一つ漏らす。やっと、帰って来れた。
「ただいまー」
この言葉は園にとって一日の終わりを意味する論理的キーワードだ。返事なんてないとわかりきってはいるが、園は誰もいない暗い部屋へ割と大きめの声を出した。これでようやく、酷い一日が終わった。
シャワーを済ませて部屋着に着替え、真っ白いベッドに顔から倒れ込む。低反発マットレスがもふっと園の細い身体を受け止めた。沈みそうで沈まないやたら固い泥の沼地のような、じんわりと園の身体の形にへこんでいくベッド。園は両腕で肩を抱くようにしてうつ伏せのままもじもじと身体をくねらせた。低反発マットレスに描き出された園の輪郭がぼんやりと滲む。
固めの枕に顔を埋めたままヘッドボードへ手をやる。そこには片手で握るのにちょうどいい大きさの艶消し黒に染まったキューブ状の外部記憶装置があった。園はそのブラックボックスを手に取り、手探りで巻き取りケーブルを引っ張り出した。まだ乾ききっていないしっとりとした黒髪を掻き分けて、延髄部に埋め込まれた生体端末へケーブルを繋ぐ。
「んっ」
静電気が走るのによく似た刺激が園の脳髄を駆け上る。有線での電脳接続が完了。園の電脳と外部記憶端末が繋がった。即、電脳空間を展開させてマイルームを仮想世界に構築する。
園はブラックボックスのネットワーク接続を常にオフにしていた。この外部記憶装置とのデータの送受信は有線ケーブルのみ。外界との接続を完全に排除した独立した電脳空間がこの中にある。ネット接続しないと言うシンプルで絶対にハッキング不可能な物理セキュリティの中に、誰であろうと触れる事も覗く事もできない園だけの仮想世界が閉じられている。
劇場の緞帳のように瞼を落とした園の真っ暗な視界いっぱいにライトグリーンのラインが走り、園がデザインしたマイルームを描き出していく。線描で構築された立体的なデッサンはすぐさま色付けされ、光を当てられ、仮想世界を作り出す。
マイルームは電脳空間の入り口。そこから無限の仮想世界へ往き来する文字通りのマイスペースで、自分がデザインできるデータ領域だ。園は片手で掴める小さな箱に自分だけの記憶領域を作っていた。
「ただいまー」
園は再びその言葉を口にした。一日の終わりを告げる論理的キーワード。しかし現実世界とは違って、仮想世界から返事が聞こえてきた。
「おかえりー」
どこか遠い外国の歴史のある雰囲気の図書館に彼女はいた。古い木造りの背の高い書架が立ち並ぶ本の森に、読書机に置かれたオイルランタンの頼りない灯りに照らされて、仮想世界のもう一人の砂原園は書架に寄りかかるようにして立っていた。
園は現実世界でベッドに突っ伏したまま、仮想世界で読書机をそっと撫でて手触りを確かめてから背もたれの高い椅子に腰を下ろした。
「なんか、お喋りしたい気分だーってただいまに聞こえたよ」
仮想世界の図書館にいたもう一人の園が書架から適当に分厚い本を一冊手に取って、革貼りの表紙を撫でながら言った。
「そう、かな?」
現実世界と同じようにニス塗りの光沢がある読書机に突っ伏す部屋着姿の園。
「私は普通にただいまって言ったつもりだけど」
「私はあんたの事ならなんでも知っているよ。今日のただいまはいつもと違うただいまだった。声紋分析してみようか?」
「そんなのする必要はないって。うん、確かに、情報交換したい気分かもしれない」
「珍しいね。自分から記憶のバックアップを取りたがるなんて。なんかあった?」
もう一人の園は黒いワンピースに淡い緑色したカーディガンを袖を通さずに羽織って、オイルランタンが灯った読書机の園の向かいの席に座った。明るいオレンジ色の光を放つランタンを挟んで向かい側、視線を合わせなくていい斜め前の席。このちょうどいい距離感がいかにも園のコピー人格らしい行動だった。
「今日ね、初めて会った人といっぱい喋っちゃった」
読書机に突っ伏したまま、ゆったりとした部屋着を揺するように身体をくねらせて園が言った。
「そう、よかった。上手に会話出来た? 相手の人はどんな人? お友達になれそうな人?」
身に付けている衣服は違えども、同じ顔に同じ声、同じ姿をした仮想世界の園が読書机に突っ伏した現実世界の園に同じ喋り方で訊いた。しかし相変わらずお互いに視線を重ね合せる事はなく、仮想世界の園は片肘をついて革貼りの表紙をはらりとめくる。
「そんなのわかんないよ。向こうは友達になりたかったのかな。家に上がってコーヒーを飲まないかって誘われた。断ったけど」
「コーヒーを飲むくらいの友達なんじゃない? で、お誘いを受けなかった事を今ちょっとだけ後悔してる、とか?」
「デジタルクローンのくせに先読みしないで。そう、コーヒーくらい飲んでもよかったかなって思ってる」
仮想世界に構築されたデジタルクローニング技術の産物であるもう一人の園は軽く笑い声をこぼす。
「ちゃんとその小さな後悔も記憶に記録しといてあげる」
「ご親切にどうも」
「おっと、大事な事を聞き忘れてる。どう? いい男?」
「残念ながら年上の女性だよ。とっても可愛くて、私が男だったら間違いなくコーヒーを一緒に楽しんだだろうなって人」
「そりゃ残念。で、他には? 何を喋っちゃった?」
部屋着姿の園がそうっと顔を上げる。カーディガンを袖を通さずに羽織った園は片肘をついたまま分厚い書物のページをめくっていた。やはりこちらに視線を向けたりはしてくれないようだ。
オイルランタンのオレンジ色の光の向こう側、鏡の中の虚像のくせに違う動きをする自分自身を見つめる園は、また読書机に顔を伏せて、自分のデジタルクローンに話しかけた。
「その人の前で思いっきりゲロ吐いちゃった」
「うわあ、サイアクー」
「そうね、サイアクー」
「そりゃ一緒にコーヒー飲みたくなくなるわ」
「でしょ?」
「でも気になる? また会えるかなとか、嫌われたくないとか」
「明日からほぼ毎日会う人なんだよ。顔合わせる度にゲロ吐いてた女って思われるかな」
「さあ、他に何の印象もなければゲロのイメージがつきまとうだろうね」
「うわあ、サイアクー」
「そうね、サイアクー」
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