第二章 対話
第4話 サボテンに算数を教える方がまだましだ
八十年。
空白の世界にただ一人、何を見る事もなく、何を聞く事もなく、何を触れる事もなく、眠りに落ちる事も意識を失う事もなく、ただひたすらに意味を失った時間が流れ去るだけ。しかし、どれだけ時間が過ぎ去っても待ちわびるものが訪れる事はない。
ドリフターが待ちわびるもの。それは、終焉。
現実空間への帰還であろうと、意識の消滅と言う死であろうと、無限に続く白い世界からの解放こそがドリフターが求める唯一の救済だ。
電脳空間へ漂流してしまった天野優一は現実時間で十四週間、仮想時間では八十年と言う気が遠くなるほどの膨大な時間の渦に飲み込まれた。何を思い、何を感じ、そして今、彼の意識はどこにあるのだろうか。何の変化もない電脳空間を、真っ白く塗り潰された仮想世界をさまよっているのか。それとも、もうすでに彼を構築する精神の外殻から意識は溶け出して、単なるデータの羅列としてどこか遠くへ流れていったのか。
天野優一は今現在もまだ眠り続けていた。
天井のLEDライトが反射しないようモニターを動かして見やすい角度を探していると、園は液晶画面に映った自分自身とかちりと音を立てるようにして目が合った。
ふと、その幼さが残る顔から八十歳に年老いた自分を想像してみた。この小さな顔はさらに縮んでしわくちゃになっているだろう。一本に束ねた艶やかな黒髪も稲藁のようにかさかさに乾いて色を失っているだろう。
生まれ落ちてから老婆になるまでの途方もない時間を白い虚空の中にただ浮かんでいるだけ。何もしない時間をどれだけ体感すれば、心が枯れていくように機能を失い、精神が身体と言う器から溶け出してしまうのか。
園はすり潰されそうになる圧迫感に満ちた白い電脳空間を思い出してしまい、ぐいと強引にモニターの角度を変えた。ぎしり、モニターを支えるアームが乾いた音を軋ませる。
研究室内に設置された医療介護ベッドに横たわる天野優一と、それを大きな瞳で穏やかに見つめる天野ユカリ。一切の情動と感情のすべてが仮想世界の深淵に沈んでしまった天野優一とは対照的に、柔らかく表情を変えながら、手振りを交えてユカリはせわしなく口を動かしていた。
園は奇妙な一人芝居を見ているような錯覚に陥った。
演者はユカリただ一人なのに対し、観客もまた園ただ一人。舞台装置のごとくぴくりとも反応しない人形に情緒豊かに話しかける女優と、別室のモニターでその舞台をひっそりと見つめる観客。いったいどちらが主観で、どちらが客観だろうか。舞台袖にいるはずの自分も含めて、強制的に感情移入させられるような観客参加型舞台のようだ。
ユカリはベッドに横になっている天野優一の二の腕を撫でるように手で触れて、旅行でフェリーに乗った時の話をしている。思い出の中のユカリは船酔いをした天野優一をデッキに連れ出し、頬を切るような冷たい海風に当てて気分を変えようとしたようだ。その時の二人の様子を、ユカリは子守唄を歌う母親のような眼差しで天野優一を見つめながらとつとつと語っている。
天野優一の船酔いの思い出話に、園はつい先程のトイレでの吐き気を思い出してしまい、頭の中でわんわんと響くユカリの声のボリュームを絞った。甘みのある彼女の声に、背中をさするユカリの手のひらの暖かさまで蘇ってしまう。
「で、どうして仮想対話者の天野ユカリと一緒に戻って来たんだ?」
園の電脳接続中の端末をいじる小さな仕草に気付いた山鹿が、何も置かれていないデスクの上で指を踊らせながら言った。山鹿は自分が担当する仕事に真っ直ぐに向き合い、相変わらずこちらを見ようともしない。園は山鹿の方をちらっと覗き見て素っ気なく返事した。
「単なる偶然です」
「偶然か。その割にはずいぶん親しげに会話しながら歩いてきたように見えたが?」
山鹿が装備している眼鏡の小さなパイロットランプがたまにチカッと光を発している。オーグメンテッドリアリティ、拡張現実眼鏡を装着していない園の目には映らないが、山鹿の手元には拡張現実眼鏡が表示しているARキーボードがあった。園からすれば何もないデスクを指で突いているようにしか見えない。
電脳をネット接続して園の視界と山鹿の装備するAR眼鏡とを同期させれば、山鹿が見ている拡張現実端末を園も見る事ができるだろうが、特にその必要性を感じないのでやらない。お堅い上司である山鹿と視界同調するだなんてやりたくもないし。
「ええ、トイレで会いました」
園はノートPCに表示されているデータを見ながら答えた。山鹿へ視線をちらとも向けずに、研究室から送信される天野優一のバイオシグナルデータを、別のモニターに映るユカリの姿と重ね合わせてじっとユカリの表情を見つめる。
「トイレで?」
「はい。ゲロ吐いていたところを優しく介抱されました」
「おまえは間抜けか」
山鹿の溜息が聞こえる。それでも園は上司に顔を向ける事もせずに、ずっとモニターの中のユカリを見つめていた。
「ええ、とんだ間抜けです」
山鹿に何か嫌味を言われる前に園は言葉を継ぐ。
「せっかく民間企業の協力でドリフターの研究データをもらえると言うのに、その観察対象者の身内に、しかも仮想対話者にドリフター体験したショックでゲロ吐いてるという醜態を晒してしまいました」
山鹿のわざとらしい溜息に、園は自虐的な説明を付け加えて返してやった。そしてそっと山鹿の方を盗み見る。山鹿は園へ視線を向ける事もなく、相変わらず何もないデスクの上で指を踊らせているだけだった。
「あの奥さんもそんなのでよくおまえの観察を許可してくれたもんだな」
「ええ、いい人で助かりました。嫌味もきっちり言われましたが」
「いい人、か。まあ、大した女だとは思うがな」
山鹿がARキーボードを叩く手を止め、拡張現実空間を展開させていたAR眼鏡を外してモニターの中のユカリを眺めた。それにつられて園もモニターのユカリへ目をやった。
モニターの中のユカリはにこやかな笑顔で動かない天野優一に語りかけている。
「三ヶ月以上も何の反応もない旦那に思い出話を聞かせてやる。還ってくるかどうかもわからないと言うのに、毎日毎日よく続くな。サボテンに算数を教える方がまだましだ」
「それって私達の職務を放棄する発言ですよ。仮想対話の一環として記録しておきましょうか」
「好きにしろ」
「はい。好きにします」
園はそれだけ言い捨ててユカリの声だけを抽出するようにボリュームを上げた。山鹿が何か言い返してきたが、聞こえないフリをして無視してやる。どうせまた嫌味だ。
これ以上山鹿の顔を見なくて済むように、園は電脳接続したモニターの映像を視界に同期させた。研究室の周囲の背景が霞んで消えて、まるでぴったり側にいるように視界いっぱいにユカリの顔が現れる。
本来なら天野優一が見ているはずの光景だ。鼻筋の通ったきめの細かい肌をした整った顔立ちの女が、澱みのない川の流れのようにゆったりと話しかけてくる。
吐息の混じるようなユカリの低い声に意識を傾けて、園は仮想世界の角度から感情移入を試みた。誰もいない深度までネットに潜るように、ユカリの言葉の海に意識を沈める。園自身が天野優一であるかのように思いを巡らせ、ユカリが紡ぎ出す思い出話を電脳空間で再現する。
『……だったでしょ? あの時、優一くんったら強がっちゃって無理にはしゃいで見せるから余計に船酔いしちゃって、すごい大変な目にあったじゃない』
ユカリが語っていた島への航路から船舶会社を適当にリストアップして大型フェリーの船体データを基に舞台を構築する。瞬き一つする間に、園は息苦しさを覚える研究室から大海原を走るフェリーの上に解放された。
船舶会社が公開しているデータがベースになっているのでこの電脳空間には園以外誰もいない。果てしなく透き通った薄青い空、遠くまで続く濃青の海、園は大きな船の上にひとりぼっちだった。
『電脳の位置座標情報と船の揺れがシンクロしなくてずっと空間座標の微調整が続いちゃって、仮想酔いが船酔いを強化同調させやがったとかなんとか言ってたよね。電脳持ちじゃない私には何の事やら、ちんぷんかんぷんだったわよ』
この波のようにゆったりとしたユカリの声が船内に響いている。園は海の波による船の揺れの再現はやめておこうと思った。仮想酔いが船酔いを強化同調させてしまってはたまらない。
園の記憶からユカリと天野優一、二人の姿をフェリーのデッキに構築させる。一般的なラフな服装の二つの人間の姿が現れて、デッキの手すりにつかまり海を眺めている。確か、屋久島へ行く船だとか言っていた。園はそんな優雅な船旅なんて経験がなかったので、電脳空間への再現はこれぐらいが限界か。多少リアリティに欠けるが、感情移入するには十分なデータ量だろう。
『電脳で船酔いも編集して消しちゃえばって言ったのに、優一くんってば船に乗っているライブ感を楽しむんだってそのまま仮想酔いと船酔いとダブルで酔いっぱなしだったね』
仮想の世界で青い海を見ながら肩を並べて語り合う若い夫婦。現実では意識のない寝た切りの夫に一方的に思い出を聞かせるだけの妻。それを俯瞰して眺める黒スーツ姿の園。園は天野優一の視点に重なり立って、思い出を語り続けるユカリの顔を見てみた。
『人間はちょっと不便な方が生きているライブ感が楽しめるんだってのがあなたの主張だったよね。でも船酔いの不便さは人間の不具合の一つなんじゃないの? その不具合を楽しめるかどうかが、あなたの言うライブ感ってのじゃないかな。私は、あなたのお世話でライブ感を楽しめましたけどね』
彼女はにこやかに、作り物の笑顔のような、楽し気な表情で笑っていた。
十四週間も意識がない天野優一に毎日毎日思い出話を語り聞かせる。ユカリがどんなに心を込めて楽しかった思い出を綴ったところで、何の反応も示さずに天野優一は眠り続けている。それがどれだけ残酷で、イバラのようにささくれた錆びた鎖で心を締め付け作業か。
恋人も親しい友人もなく、どこかの誰かと共有できる思い出なんてこれっぽっちも思い出せない園には、ユカリの心の内を、どんな思いで言葉を綴っているのか想像すら出来なかった。
『結局さ、雑魚寝の二等客室じゃ寝られないってロビーのソファーで毛布に包まってたら、今度はエアコンが寒くて寝られないとか言い出しちゃって。眠れる場所を探してフェリー中を歩き回っていたら、さらに船酔いが酷くなったよね』
思い出療法は、大切な人との思い出を擦り削り、粉にして消してしまうようなものだ。
仮想対話による喚起式カウンセリングを実施したドリフターの家族に聴き取り調査をした時に、涙声で絞り出すように言われた言葉だ。
そのドリフターは六週間思い出を聞き続けたが、ついに還ってくる事はなかった。七週間目に家族に見守られる事もなくひっそりと衰弱死した。
『やっと島に上陸してからも二人とも頭がゆーらゆーら揺れちゃってて、この島はいっつも揺れているのかーとか言っちゃって』
ユカリは身振り手振りを交えて楽しそうに思い出を語り聞かせている。十四週間もの長い時間、人は思い出だけを支えに、こんなにも希望を持ち続ける事が出来るのだろうか。
ふと思い立って、園は天野優一の視点からユカリの視点へと移動してみた。仮想の天野優一はどんな表情を見せているのだろう。
そこには、こちらを凝視している男がいた。目を見開いて、何かを言おうとしているのか、唇が半開きになってかすかに震えている。
「おまえは誰だ?」
天野優一が低く震える唸り声を上げた。天野優一が園を睨んでいた。勝手に二人の思い出に割り込んだのを怒っているのか、と園は思わずはっと息を飲んでしまった。
電脳空間では天野優一の意識は覚醒しているのか。いや、それはあり得ない。そもそもここはいわゆる共有された電脳空間、一般仮想世界ではない。園が構築した限定的仮想世界だ。
実際には園の電脳空間が二人の思い出を園自身の記憶をリソースに再現しているだけだ。園ののめり込んだ感情が天野優一に反映しているに過ぎない。この天野優一は園が作り出した虚像だ。感情移入はやめておこう、と園は思った。
園は現実世界に戻り、カメラ映像を天野優一側に切り替えて、彼のまぶたをズームアップした。ユカリの声に合わせて、ぴくりと眼球が動いている様子が見て取れる。レム睡眠中に眼球が動くのと同じ現象だ。
ユカリが思い出を語り始めて十三週間目、ついに天野優一が反応を示した。ユカリの言葉に応じるように、フラットだった脳波が動きを見せたのだ。それこそドリフターからの帰還の兆しであり、電脳保健倫理委員会が欲しがっていた貴重なデータだ。
『せっかく旅行に来たんだから美味しいの食べるんだって、優一くんはやたら張り切ってごはん食べてたけど、結局全部戻しちゃったよね。あの時ね、優一くんの背中をさすってる時ね、広い背中だなあって思ってたんだよ』
仮想世界に溶け出した天野優一は夢を見ているのか。
八十年に及ぶ仮想時間の海に沈み、何もかもを白く包み込む空白の宇宙に浮遊し、何を聴き、何を観ているのか。
自我と言う脆い構造体はすでに霧散してしまい、意識すらも白い空間に溶けてなくなってしまうほどの長い時間だ。それが仮想時間とは言え、一人の人間の人生がまるごと入ってしまうほどの膨大な時間だ。人が一生を費やして過ごす時間を、何もせず、何も見ず、何も感じず、ただ浮遊しているだけで消費しなければならない。ただ時間が過ぎるのを待っていても、そこに救済は現れない。夢でも見る事が出来れば、せめてもの救いになるものの。
園は電脳へ入力される情報に制限をかけた。ユカリの音声だけを抽出し、天野優一のバイオシグナルの波形パターンを視界へと出力した。そして目を閉じ、耳を塞ぐように、それ以外の情報をシャットアウトする。
頭蓋の中でユカリの声がうわんうわんと反響する。少し鼻にかかったような低音の声で、その柔らかな音色はかすかに甘い。吐息を感じられるゆったりとしたリズムで、丁寧に一字一句言葉を紡いでいく。
一切の視覚情報を断ったせいで視界を満たす真っ白い空間に、不安定に揺れる一本の赤いラインが真一文字に走っている。天野優一の脳波パターンだ。その赤いラインがユカリの甘い声に反応をしてぴくりと波形を乱す。
天野優一は白い深淵から目覚めようとしているのか。それとも生体反射としてユカリが発する音に意味のない反応を返しているだけなのか。そこに失われた意思があるのか。
園達が今まで集めた有象無象のドリフターに関するデータを解析すると、ドリフターに対して仮想対話による喚起式カウンセリングを行った際に帰還の兆しが現れるその反応限界は四週間目と見られていた。
電脳空間の海に漂流してから四週間を過ぎて帰還した者はいない。そのため、仮想対話の試行も四週間目が限度と思われている。
しかし、天野優一が対話に反応を示したのは、反応限界をはるかに越えた十三週間目だった。十四週間も延命されているドリフターは他にいない。唯一の親族であるユカリの強い要望から仮想対話による喚起式カウンセリングを続けてきた結果だ。
『優一くんがお酒飲む時にね、実は私、飲み過ぎて具合悪くしないかなって変な期待をしているのよ。また背中をさすってあげるチャンスが来ないかなーってね』
園は真っ白い空間を漂いながらユカリの声を聞いていた。たった一粒の電子すらも自由に出来ず、風に吹かれる綿毛のようにすべてを空に委ねて、いつ潰えるとも解らない不確かな安寧に包まれて、天野優一は何を思う。
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