第3話 うちの旦那は十四週間
冷たい水が頬を打つ。
だらしなく垂れた黒髪を濡らした水は細い顎を伝って流れ、ぽたりぽたりと雫となって大理石のパターンがプリントされたセラミックの洗面台に落ちた。
蛇口からほとばしる水は渦となって園が吐き捨てた吐瀉物を飲み込み流していく。口の中にへばりついた酸っぱい唾を洗い流し、園はゆっくりと顔を上げて、鏡の中の濡れそぼった自分自身を真っ直ぐに見つめた。
LEDライトの柔らかな光の下、曇り一つない鏡の中に背の低い女が青白いやつれた顔で立ち尽くしている。濡れた黒髪が束になって額に荒く貼り付いて、やや吊り目気味の睨むような目付きで小さな唇を真一文字に結んでいる。華奢な身体には一回り大きい黒いスーツを着込み、細い首にはスーツと同じ黒のネクタイと入館証のIDタグがぶら下がっている。
モノトーンの空間は静かに水が流れる音だけを響かせていた。水が流れる音がある。白と黒と言う色がある。それだけで安心する。ここはドリフターの空白の世界ではない。リアルだ。園は自分の存在を確かめるように、鏡の中に広がる現実世界をまじまじと眺めた。相変わらず、黒い格好をした小さな女がこちらを睨み付けるように見ている。
それにしても、なんてちっぽけな奴なんだろう。
身体の大きさだけじゃない。気持ちの弱さだ。この女はすぐにへし折れる。園はドリフター状態にあった自分を思い出し、ぞくりと腹の底から震えがこみ上げるのを感じた。
真っ白い空間にぽつんと置き去りにされ、何も出来ないままただ浮かんでいた狂気の時間が蘇る。
山鹿に半ば強制的に体験させられたドリフター状態は現実時間でわずか十五分間だった。
電脳接続中の園にドリフターのエミュレータをインストールする。その瞬間から園の意識は刈り取られてしまった。現実時間での十五分間、園の小さな身体は研究室のベッドに寝かされていただけだが、その精神は途方もない白い空間に放り出されていた。その空白の十五分間を電脳空間での仮想時間に換算すると七十二時間に相当する。
園は七十二時間もの間、真っ白いだけの空間にただ浮かんでいたのだ。何も出来ず、何も感じず、精神と言う粘性の高い液体が身体という脆い器から滲み漏れ出るのをただひたすら耐えるだけの七十二時間。目を閉じる事もなく、眠る事もなく、意識を失う事もなく、肉体の輪郭が緩やかに解けていくのを感じるだけの七十二時間だった。
再び胃が震え出したのを感じ取った。目に見えない何かに、気が付かないほどの遅さでじわじわと侵食され、自分が少しずつ少しずつ溶け出して無になっていく恐怖がまたやって来る。
園は吐いた。朝に食べた物はさっき胃の中から溢れて出ていった。吐く物なんてもう残っていないはずなのに。洗面台に両腕をもたれかけて突っ伏して、身体の中から苦痛そのものを絞り出すように胃液を吐き捨てる。
「くそっ」
蛇口のセンサーに手をかざして水を流す。ごぽごぽと粘り気のある音を立てて、吐き捨てた胃液が排水口に吸い込まれていく。涙に滲んだ目でそれを見届けると、よろよろと頼りない身体を起こそうと腕を弱々しく突っ張った。
いつまでもトイレに篭っている訳にもいかない。あの堅物の山鹿の事だ。園が戻ってくるのを待つはずがない。とっとと仕事を進めている事だろう。
顔を上げると、鏡の中に自分以外にもう一人いるのを見つけた。アイラインが涙で溶け出して目の周りを黒く滲ませた園と、いつの間にトイレに入ってきたのか、栗色の髪が肩までかかった女性だ。明るいイエローのカーディガンとデニムパンツと言ったラフなスタイルだが、しっとりと落ち着いた雰囲気で園よりもだいぶ歳上に見える。
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
鏡の中の女は低い声で園に話しかけてきた。まるで泣いている子供に語りかけるようなゆったりと落ち着いた口調で、鏡の中で前屈みになっている園を目を伏せるようにしてそっと見つめている。
「だっ……」
大丈夫です、と言い返してやりたかったが、園の胃袋がそうはさせなかった。無理に身体を起こすとまた吐き気が込み上げてくる。
「んぐっ」
まともな返事一つ出来ずに、園は口から情けない音を漏らして再び洗面台に突っ伏してしまう。もう吐く物なんか胃の中には残っていない。嗚咽のようなくぐもった音と粘性のある黄色がかった液体がわずかに口からこぼれ落ちるだけだった。
ふと、園は背中に温かさを感じた。
柔らかな手のひらだ。洗面台を舐めるようなみっともない格好のまま視線を上げると、鏡の中の女が園の背中に手のひらを当てていた。もう片方の手を園の肩に置き、背骨をなぞるように背中をさする。ほのかに温かく、柔らかい感触が背中を何度も撫ぜてくれた。
「……すみません」
ようやく絞り出せた園のかすれた声に、その女は小さく首を横に振って応えた。
「楽になるまでそうしてて」
「あっ、でも……」
「いいから。これ、外すね」
鏡の中の女は背中を優しく撫でながら、肩に置いた手を前に回して片手で器用に園のネクタイを緩める。園が抵抗する間もなくネクタイとIDタグをするりと剥ぎ取られ、シャツの胸元のボタンも外される。
「大きく口で深呼吸して。ゆーっくり、深ーく」
園は開いた胸元にひんやりとした空気を感じた。ネクタイを外しただけでも首回りがだいぶ楽になった気がする。蛇口センサーに手をかざして水を流し、両手ですくって口に含む。冷たい水が意識に張りを取り戻してくれた。
「あなた、電脳を装備しているのね」
鏡の中の女が園の黒髪の隙間から覗いた襟足の生体端末を見て言った。園はそれに答えずに、無言のまま濡れた手で襟足を覆い隠した。生体端末コネクタを他人に見られるのはあまり気持ちのいいものではない。まるで裸体を覗き見されている気分になる。生体端末を隠すために園は髪を伸ばしていた。
「すみませんでした」
「大丈夫なの?」
「もう全部出ました」
口の中に残った粘ついた胃液を洗い流し、園はようやく身体を真っ直ぐに起こす事ができた。背筋をすっと伸ばして胸いっぱいに空気を吸い込み、鏡の中に立ち尽くす自分の顔を見つめる。目元のメイクもすっかり崩れてしまい、貧相なパンダのような小さな女がこちらを睨みつけていた。
「よかったら、これ使う?」
不意に園の目の前にメイク落としのクレンジングティッシュが差し出された。園はちらりとその女の様子を横目で盗み見たが、彼女は園の事なんかまるで気にもかけず、園の細い首から奪い取ったIDタグを眺めていた。園がティッシュのパックを受け取っても女はこちらを見向きもしない。
「ありがとうございます」
一言つぶやくように礼を言って、一枚引っ張り出して目元を拭う。かすかに香るアルコールのつんとした刺激と皮膚の熱を奪うひやりとした冷たさが園の意識をさらにクリアにしてくれる。
「厚生労働省、電脳保健倫理委員、サワラさん?」
鏡の中の女が初めてこちらを見てくれた。片目だけパンダメイクを落とした状態でそれを見つめ返し、園はもう片方の目をティッシュで拭いながら答える。
「サワラではなくてサハラと言います。サハラ砂漠のサハラ。下の名前はソノ」
「あら、ごめんなさい。ねえ、読み間違えたくらいでそんなに睨まないでよ」
園自身睨んでいるつもりはないが、背が低い分だけどうしても下から見上げる事が多い。昔から怒っているだの睨んでいるだの、よく誤解されたものだ。
「生まれつきこんな目です」
「そう? ごめんなさい。それにしても厚生労働省のお役人さんって、こんな可愛らしい女の子もいるのね。就職面接に来た女子高生かと思っちゃった」
「背の低さも生まれつきです」
「ふふ、そう? 厚生労働省のって事は、ひょっとして、あなたが優一くんの?」
そこで園は初めてこの女性が誰なのか知った。思わず目を見開いて彼女に向き直ってしまう。園の観察対象者、ドリフターである天野優一の妻であり、仮想対話者だ。
「あ、失礼しました。挨拶が遅れました。私は厚生労働省電脳保健倫理委員電脳解析担当官、砂原園と言います。この度は、ご協力感謝いたします」
「そんなかしこまる必要ないわよ。私は天野ユカリ。優一くんがお世話になりますって、その前にまず顔洗っちゃいなさい、園さん」
「あ、はい。失礼します」
園はクレンジングティッシュをもう一枚引っ張り出し、目元にこびりついたアイラインの残骸を丁寧に拭い落とした。ティッシュの隙間から隣に立つユカリを覗き見る。ユカリはハンドバッグから口紅を取り出し、鏡に向かって口をあーんと開けていた。
蛇口センサーに手を当てて水を吐き出させ、勢いよく流れ落ちる冷たい水を両手ですくい頬に当てる。たったそれだけでも意識がぴんと張り詰める。鈍った感覚を取り戻してくれる。でもまだだ。まだ足りない。もっと緊張感が欲しい。
園がじゃぶじゃぶと乱暴に顔を洗っていると、ユカリが明るい口調で話しかけてきた。
「園さんは体調でも悪いの? そんなんで仕事になる?」
「いえ、ドリフター状態を体験したんです。無神経な上司に仮想時間で七十二時間分の空白を植えつけられました。それで少し気分が悪くなっただけです。でも、もう平気です」
胸を張るように顔を上げて、スーツのポケットからハンカチを取り出して頬の雫を拭う。園は鏡の中に佇む弱々しい自分を睨みつけた。メイクが落ちた素っぴんの彼女の顔は幼さが滲み出てはいるが、瞳の奥の濁りは洗い流せたようだ。よし、だいぶ取り戻せた。
「ふうん、そう。うちの旦那は十四週間って言ってたわ」
「十四週間、ですか」
自分は七十二時間、たった三日間の空白でこのざまだ。あの真っ白い虚無の空間に十四週間も置き去りにされたら。園は背筋が寒くなるのを覚えた。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。そんな電脳空間の海に漂流する。ドリフターは電脳空間から一切の刺激を感知できなくなり、思考する能力のすべてが連鎖的に反応を起こせず脳波のパターンがフラットになると仮説が立てられている。脳自身が刺激信号を受け取れず、身体機能が失われてしまったと勝手に解釈して機能を休眠させる。脳に追従して身体もその活動を停止してしまう。徐々に消えていく春の氷のように、やがて完全なる意識の消滅、そして脳は死を迎える。
「ええ、そう。現実時間で十四週間昏睡が続いているのよ」
「……現実、時間?」
「仮想時間では八十年だって。優一くんは、八十年間も何もない電脳空間に一人ぼっちでいるの」
園は返すべき言葉を見失った。想像した以上の桁違いの時間が園を圧し潰す。ユカリは大理石のパターンが白く眩しい洗面台に寄りかかるように身をしな垂れて、青白い園の顔を覗き込んで低い声で言った。
「大丈夫? あなたに八十年も迷子になっている優一くんを連れ戻せる?」
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