第2話 リアルの私は研究室のベッドに寝ているだけ
ドリフター。
電脳空間の漂流者。仮想世界からの未帰還者。
近年になり、電脳装備者が仮想空間へ長時間連続でのオンライン接続中に、原因不明の意識喪失状態に陥る症例が報告されていた。電脳接続中の当の本人が意識不明状態にあるため、電脳空間との接続解除が不可能になるのだ。
それだけでなく、オンライン接続中の人間としての精神活動すら仮想世界の海に拡散してしまい、文字通り意識が雲散霧消する症状が確認されていた。電脳空間外からの刺激にも一切の反応を見せず、現実世界からの強制覚醒コマンドも無効で、延々と昏睡状態が続いてしまう。それが電脳空間への漂流だ。
発症例は電脳装備者千人に一人という低い割合ではあるが、人種、性別、年齢はもちろんのこと、電脳生体端末の機種、接続経験、身体的疾病、精神疾患、その他、発症者に共通項は未だ見つかっていない。ただ一点、長時間連続接続と言う点を除いて。
ある電脳装備者は言う。電脳空間へダイブしていると、もっと深く、もっと深く潜りたくなる。仮想の海の真っ白な奥底に、何かが待っているような……。そう思う瞬間がある。
電脳装備者は電脳空間に接続する事を海に潜水する事に例えてダイブすると表現する。それになぞらえて、原因不明の意識喪失状態に陥り、仮想空間から帰還できなくなった電脳装備者を広大な海を漂流する者、『ドリフター』と呼んでいた。
数こそは極めて少ないが、ドリフターとなってから奇跡的に現実世界に帰還を果たした者もいる。その特別にレアなケースを基に各国研究機関にて治療法が研究されていたが、その原理は未だ解明されていなかった。
ドリフターは今もなお増え続けている。
気が付くと、園は真っ白い世界にいた。
いや、そこを世界と呼べるだろうか。現実世界に見られる透き通ったくせに霞んでる空気感がなく、そうかと思えば、仮想世界特有の圧縮された奥行きが作り出す閉塞感もない。あるのは白と言う色に満たされた領域だけ。二次元平面のような白い平野、三次元空間のような白い空だけだ。そしてそれらは見分けがつかないほどに白く混じり合っていた。
私は何をしているんだろう。私は何をしていたんだろう。
はるか遠くまで、まるで無限に続いているかのような白い空間。空も地面も淡く光を放っているようで、その境目は目視では判別できない。そのせいで宙に浮いているような、不確かな居心地の悪さが全身を覆っていた。
本当に?
目に見えるこの白は、空のように、海のように、本当にずっと遠くにあるのだろうか。ひょっとしたら一枚の大きな白い紙を目の前にぴたっと貼られているだけではないのか。自分は上下もない平面に寝かされて、厚みも膨らみもなく、白と同一化した天井を見ているだけではないのか。
園は自分の肉体を意識してみた。ある。確かにここにあるようだ。と言う事はここは二次元ではない。三次元空間だ。
両腕を前に、それとも上に、突き出してみる。真っ白いだけの視界に二本の腕がにょきっと生えてきた。よし、身体は表示される。
衣服は身に着けていなかった。園は産み落とされたままの姿で白い宇宙に浮遊していた。薄ぼんやりとした意識で自分の身体を眺めると、皮膚のテクスチャーが異様に滑らかな単色であることに気付いた。おかしい。頭を振ると視界にふわりと漂ってくるはずの長い髪も見えない。
ああ、ここは仮想空間なのか。ここは電脳空間だ。仮想世界に構築されたただの真っ白い空間だ。
園は思い出す。山鹿が言っていた。ドリフターを体験をしてみろ。向こう側を覗いてこい、と。ここが電脳空間の向こう側なのだろうか。
頼りない記憶の紐を手繰れば、園はついさっきまで木の香りがするカウンターのあるビアカフェでグラスを傾けていたはずだ。読めない文字のラベルが貼り付けられたボトル達、象の頭の女性バーテンダー、鮮やかなオレンジ色のマンゴービア。すべて園の頭の中で構築されたヴァーチャルな存在だ。
そういえば、自分のグラスの隣にもう一つグラスが置いてあった。思い出そうとしても、記憶の場面は唐突に始まり、そして唐突に終わっていた。誰とあのカフェに行ったのだろう。
それにしても、いつの間に別位相の電脳空間に放り込まれたのだろうか。上司の権限で電脳への接続キーを山鹿も共用管理しているとは言え、無意識下での電脳接続までもをコントロールされるのはあまり気分のいいものではない。
「山鹿さん、自覚しました。これがドリフター状態なんですか?」
枯れた泉のようにかすれてしまった自分の声が白い空間にかすかに響いた。しかしすぐにそのかすれた声も白色に吸収されるかのように消えてしまった。まったくの無音が押し迫り、園を全方位から覆い尽くす。
「山鹿さん?」
もう少し大きな声を出してみる。今度はしっかりとした音となって口から飛び出したようだ。しかしその声も、雪に染み込んで消えてしまう冬の雪音のようにすぐに聞こえなくなった。
「山鹿さん!」
ドリフター状態は入出力信号がまったくない状態だと聞いている。そこは宇宙空間を思わせる漆黒の世界だと勝手に考えていた。しかし実際には純白の空間だった。ただひたすらに白く埋め尽くされている。そして情報の入力も可能だ。しかしそれに対応するリアクションがまったくない。レスポンスが出力されない状態だ。
園の声の入力に反応するものはなく、発した声も一瞬で消えてなくなりすぐにまた無の空間に包まれる。音声と言う情報がデータとして変換されず、電脳空間を構築する情報がまったく更新されない。園自身にも今の情報入力が実際に声として音を出したのか、それとも園の頭の中で響いただけなのか、まるで判断がつかなくなった。
「なに、これ」
園はサーバーを移動してみようと思った。しかしデータが上書きも更新もされない電脳世界を物理的に動いて移動する事はできない。サーバー内での位置情報も更新されないからだ。
園自身は前に歩いているつもりだが、世界は一向に変化を見せない。とにかく真っ白いだけの空間。足が地に着いている触感もなく、背景と言う概念すら白く塗り潰されていて移動しているという感覚すらない。
「ウインドウを」
のっぺりとしたテクスチャーが貼られた手を顔の前に持ってきて、ジャンケンのチョキの形に手を握って二度振るう。情報ウインドウを開くハンドサインだ。しかし白い視界にウインドウが開かれる事はなく、仮想空間はやはり真っ白いままそこに在り続けた。
「私はどこにいるんだ?」
いくら歩いてみても、どれだけ走ってみても、仮想の世界は変わらない。いつのまにか園は前に歩いているのか、上へ飛んでいるのか、それともゆっくりと落下しているのか。どちらが前でどちらが後ろで、どちらが上でどちらが下かすらわからなくなった。自分の空間座標を見失っていた。
とてつもなく大きな手のひらに身体を握り締められるような、小さな胸からひゅうと空気が逃げていく感覚が襲ってきた。大きく息を吸い込もうにも胸が全然開かない。呼吸が浅く、そして速くなる。全身から冷たい汗がにじみ出て来る。
まずい、パニックを起こすな。落ち着け。
すべては仮想の現象だ。電脳空間からのただのフィードバックだ。ここには空気もない。心臓もない。身体も存在しない。呼吸が乱れるはずもなく、心拍数が上昇する事も発汗する事もない。何もかもが電脳上で演算され、現実世界を非実在的に再現しているだけだ。リアルにある脳が機械から電気信号を受け取って生理現象が発現していると錯覚しているのだ。
園は頭の中で、それとも声に出ていたか、自分自身に言い聞かせた。ここは電脳空間だ。この焦燥感も閉塞感も仮想のものだ。ありもしない情報を自分自身が勝手に入力し、勝手に脳内で再生しているだけのまやかしだ。すべては架空だ。これは現実の現象じゃない。
「機械のタバコ、おでんのちくわ、オレンジのクッキー、チタンの指輪!」
園は電脳接続を強制終了させる緊急コードを叫んだ。緊急コードは任意で選んだ二つの単語を組み合わせた四つのパスワードから構成されている。それらを順番通りに音声入力すれば電脳空間から安全に強制排除される。いわば緊急脱出装置であり、電脳空間では他の何よりも優先的に強制的に処理されるコマンドだ。
しかし、それは発動しなかった。
「機械のタバコ! おでんのちくわ! オレンジのクッキー! チタンの指輪!」
ぱちんと夢から覚めるようにすぐに目覚めるはずだ。この白い悪夢も泡のように消え去るはずだ。もう一度緊急コードを強く叫んでも、園は相変わらず白い空間に放置されていた。
「落ち着け、落ち着け。ここは電脳空間だ。リアルの私は研究室のベッドに寝ているだけだ」
パニックを起こしかけている気持ちをリセットするために、園は堅く目をつむろうとした。砂の中の二枚貝のようにぴったりとまぶたを閉ざし、そこに真っ暗な空間を作り出す。嵐が過ぎるまで海底に潜るように、呼吸が落ち着くまでじっと耐える。しかし、それは叶わなかった。
いくらまぶたを閉じようとしても暗闇は訪れない。まぶたがなかった。身体が存在しないのだ。目をつむれる訳がない。園はついにヴァーチャルの身体すら失ってしまった。
電脳空間では自分の空間座標を固定させるために義体を表示させている。従来の電脳空間なら現実の身体と同じように義体の機能をコントロールできる。しかしそのコントロールすらこの白い空間に奪われていた。身体の輪郭が空間に染み出てしまったように感覚が薄れている。
身体が在るのかどうか、そんな簡単な判断ですら注意深く行わないと、自分と言う領域がどこまでも際限なく拡がってしまう。自分と言う世界がすべて白に染まりつつあり、世界が自分自身に同化する。すべてが白の世界には、見る、見ないの選択肢は存在し得ない。すべてが白になるのだ。
やがて、自分と言う概念すらも白い空間に溶け出してしまうだろう。自我と空間とが一体化し、身体の機能と反射は失われていく。ただ白い空間の一部になる、いや、白い空間が園の一部になるだろう。
園が知る限り、電脳空間で眠ってしまうと言う例はなかった。電脳接続中の脳波はレム睡眠時のそれに似た波形を示し、身体の反射機能は睡眠状態に近い反応を見せる。電脳接続中の身体データはすでに眠っているに等しく、脳だけが情報を処理している、まさに夢を見ている状態となる。眠っている中でさらなる眠りに落ちる事はない。しかし、もしそれがあるとしたら。
実時間よりもはるかに圧縮された仮想の時間軸の中で、高度に演算された濃密な情報が脳内に激流のごとく流し込まれる。脳は常に覚醒された状態を維持し、現実ではなし得ない速度で情報処理を繰り返す。
いつしか、脳が持つ能力以上に高密度な情報を処理しきれなくなり、限界を突破できず、電脳空間に欠損が生じる時が訪れる。クラックと呼ばれる電脳現象だ。呼び名の通り、電脳空間に処理が成されない領域が発生して白いヒビが入ってしまう。電脳装備者と言えどヒトの脳としての限界点とも言えるポイントだ。
その限界の先にあると言われているのが漂流現象、ドリフターの世界だ。
園はあらん限りの大声で叫んでみた。自制心などかなぐり捨てて金切り声でわめいてみた。白く見えなくなった両手で胸があるであろう空間を押さえ付けて、身体の中の空気をすべて音に変えようと試みた。
しかし、その声が白い空間にすーっと吸い込まれているのか、頭の中でわんわんと反響しているのか、それすら解らなかった。声が出たと言う確固たる証が見つけられない。何ら変化を見せない世界が目の前にあるだけだった。
山鹿はドリフターの擬似体験をさせてやる、と言っていた。今の園が置かれているこの状況が山鹿の言う擬似体験なのか。それとも、何らかの技術的トラブルが発生して擬似体験を通り越して、園の脳は本当に電子の海に漂流してしまったのか。園に知る術はない。
どれだけ叫んでみても、どれだけ身体を動かしてみても、情報の出力はされず、世界は更新されなかった。ただ白く在り続けるだけだった。
どのくらいこの不確かな白い空間に浮かんでいた、あるいは沈んでいただろうか。数時間か、それとも数分、数十秒か。
もはや何もせず、もう何も考えず、ただそこにいただけの園は、ふと世界に変化を感じた。うわぁんと白い世界がゆっくりと震えた。
波。音の波だ。それは声だ。それも自分のかすれた声じゃない。誰か他の人間の声が空間に響いた。情報の出力だ。電脳空間に変化が訪れた。仮想世界が動いた。
「……サハラ、サハラソノ……」
ああ、声だ。白以外の世界要素だ。
「……オキロ、サハラ……」
誰かの声が聞こえる。この白い世界にひとりぼっちじゃない。
「さあ、目を覚まして。起きるんだ」
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