魚
十二月の雨の日、池袋駅前の喫煙所で煙草を吸っていたら水たまりにライターを落としてイラッとした。喫煙所の外でその一部始終を見ていたたまこが声を上げて笑っていて死ねと思った。
「禁煙しろってことじゃない?」
たまこは時々禁煙を勧めてくるけれど、私は一度も首を縦に振ったことがない。たまこはたまこで別に無理強いする気もないようで、その話はそれっきりで終わった。
たまこが魚になってから半年が過ぎた。
その間、私の仕事はラストスパートだとでも言わんばかりに多忙を極め、たまこの友達は少し減った。そのかわり、私の周囲は少しだけ賑やかになった。いよいよ試験対策も終わりに近づき、職場の同僚が少しずつ様変わりし始めたのだ。他人事のように感じていた試験対策がわずかに現実感を帯び始め、先輩が宣言通りのシロクマになって出勤してきた時、もうそろそろ私の番が回ってくるのだろうなと直感した。そうしたら突然たまこに会いたくなったので、いつかのように池袋で遊ぼうと誘ってみたのだった。とは言え雨の中を歩き回るのも億劫で、喫煙所を離れた私たちは繁華街を一本逸れた路地の小さな喫茶店でコーヒーを飲んでいる。
客のまばらな店内は静かで、カウンターの奥に置かれたテレビから漏れるニュースキャスターの声がやけにはっきりと聞こえていた。曰く、試験対策は今月中には終了する見込みであり、来年早々にも試験が行われる可能性が高いという。
「CQは何になるの? もう決めた?」
同じようにニュースを聞いていたのだろうたまこが訊ねる。何故か少しだけ物憂げな声だった。
「まだ決めてない」
言って、温かいコーヒーを一口すする。
私はまだ理想的な私の形を想像できずにいる。少なくともオーロラにはなれそうにないけれど、たまこのような確固たる思いを持って新しい自分を決めることが果たして私に出来るのだろうか。
「こないだ、先輩がシロクマになってさ」
そう言えば、彼は三ヶ月も前からそれを決めていたっけ。もしかしたらもっと昔からシロクマになりたいと思っていたのかもしれないが、どちらにせよ彼はあっさりと自分の形を決めてしまった。
「でも同期の半分くらいは人のままみたい。勿体ないって言う人もいるけど」
ちょっとわかるなぁ、と、魚の顔でたまこは笑った。
「わたしは何となくだったから。CQと違ってお仕事もないし。仕事とかお金とか生活とか、気にしなくてもよくて。だから何となくでもよかったんだけど」
少しだけ考える素振り。雨脚の強まる窓の外に目をやって、それから彼女は続けた。
「どういう形の自分がいいのかなーって考えるのは、今までの自分の答え合わせをするようなものでしょう? だから、自分の形を気に入ってる素敵な人ほど変わらないんじゃないかな」
そうだろうか。そうかもしれない。理想の自分が人間の形をしているのであれば、それは多分、幸福なことなのだろう。たまこの言うところの答え合わせで百点満点を取るということは、つまりそういうことだ。今の自分が理想の自分であり、何もしなくても試験をクリアできるという絶対的な自信があるということだ。素敵な人、自分に自信がある人ほど変わらない。何だそれはムカつく死ね。
「また死ねーみたいな顔してる」
言われ、私は慌ててまばたきをした。そうしてふと思った。だったら、今の自分とは程遠い変化を望む人ほど、自分に自信がないのだろうか。そういう人が、オーロラであったり、多摩川であったり、魚であるような自分を望むのだろうか。
「CQが今何考えてるのかわかるよ」
たまこはそう言った。
「でもそれは考えすぎ。わたし、ほんとに何となく魚になっちゃったから。前にも言った気がするけど、わたしはわたしのことなんてあんまり考えなくて、CQが鳥になってくれればいいなって、そう思っただけ」
そうだった。六月のあの日。たまこが魚になった日。彼女は自分が魚になった理由を洗いざらい全て話してくれていて、私はその時、何を言えばいいのかよくわからなかったのだ。
彼女が魚になった。六月の半ば、くもり空が爽やかな朝のことだ。
その日は確か土曜日か日曜日で、昼過ぎまで寝るつもりでベッドの上でゴロゴロしていたらたまこから突然電話がかかってきたのだ。家に来るというので掃除でもするかと思い、思っただけで、気付いたらインターホンが鳴っていた。
ドアを開けたら魚になったたまこがいて、私は少しだけ驚き、まぁでもそういうこともあらぁなとあっさり納得して彼女を部屋に招き入れたのだった。それから半日ほど、私たちは驚くほど普段どおりの休日を過ごした。私は少しだけ家の中の掃除をし、たまこは床に放り出してあった漫画を目ざとく見つけ、ソファに寝転がってそれを読み、特に示し合わせたわけでもなく二人してベッドに転がって昼寝をし、起きた時にはもう夕方だった。
「だって、神様の試験っていうのは世界を滅ぼすやつなんでしょう?」
二人分のコーヒーを淹れてソファに腰を下ろすと、たまこは突然そう切り出した。彼女が一体何を話し始めたのかよくわからず、私は何となく曖昧に「まぁ、そうかも」と答えた。
「ソドムとゴモラとか、ノアの箱舟とか、P-T境界、恐竜の大絶滅、きっと全部そういうものだったんでしょう?」
そうなのだろうか。後ろの二つはよくわからないけれど、前の二つはそうかもしれない。ともあれ神様が人間を試すということは、たまこにとってはそういうことのようだった。
「多分、津波とか隕石とかで陸地が滅びちゃうような、そういうものだと思うのね」
「SFだなあ」
「だったら、わたしと先輩の二人で魚と鳥になればいいのかなって思ったの」
その時になってようやく、たまこは自分が魚になった理由を話しているのだということに気付いた。私は自分で淹れたコーヒーを一口飲んで、それが思っていたより美味しかったことに少しだけ気分を良くした。
「それでね、最初は鳥になろうと思ったの。クジャクとかインコみたいなきれいなのはちょっと違うかな。スズメみたいなかわいいやつ」
たまこはずっと喋り続けている。私はスズメになったたまこを想像して、それは確かにかわいかろうと思った。彼女は小鳥のような女性だったのだ。うんうんと頷きながら、私はテーブルの上に放り出してあった煙草のケースを手に取った。
「だけど、そしたら先輩が魚になっちゃうじゃない? それで考えて、わたしは魚の先輩より鳥の先輩の方がかわいいなって思って、そしたらわたし魚になっちゃった」
煙草をくわえ、火をつけ、大きく煙を吸い込み、それから長い時間をかけて息を吐いた。納得のいくところまで話し終えたのだろう、たまこは満足げな様子で私の吐いた煙が天井に溶け込んでいく様子を眺めていた。
「……え、私?」
「何が?」
「あんたが魚になった理由。魚と鳥で、私が鳥担当?」
「うん、そう」
「あー……そう」
正直にその時の気持ちを言葉にすれば、私はただ、たまこはすごいなあと思っていた。小学生並みの感想だが、本当にただそれだけを思ったのだから仕方がない。私はただすごいなあと思い、けれどそれ以外のたまこに対する感情は特に変わらなかった。かわいく、人当たりがよく、友達が多く、巨乳で、ふわっとしていて、いい匂いがして、男に人気で、女にも人気で、誰にでも好かれる、そんな人間だった彼女が、今日突然魚になったというのに、だ。
たまこがどんな形をしているのかという事実は私にとってそれ程重要ではなかったのだということを、私はその時初めて理解した。私は彼女の形よりもタマシイのようなものにこそ惹かれていて、それは数多ある恋愛感情の中でも最上級に尊いものであるかのように感じたのだった。
だから、その日を境に私とたまこの関係の何かが変わるということはなかった。強いて言えばお互いのことを「たまこ」「CQ」と呼び合うようになったくらいのもので、それは変化と言うにはあまりにも些細なことだった。
それから半年、私たちは運良く今も二人のままだ。
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