オーロラになれた人のことを

「試験対策、年内には終わるってさ」

 九月下旬。昼休みに職場近くの喫煙所で暑い死ねと思いながら煙草を吸っていたら、ふらりと現れた先輩職員が開口一番そう言った。

「再来月でリストが終わるから、その頃ウチんとこが対象になって、多分それでおしまい」

 火をつけた後のライターを手の中で弄びながら、ため息混じりにつぶやく。少しだけ声に疲労の色が見え隠れしていて、そのせいか彼の言葉はどことなく遠い世界の話のように聞こえた。

「試験、終わったらどうなるんですかね」

「さあ、今どき正規職員の首なんて切ろうと思って切れるわけもなし、異動なり転属なりあるんじゃないの」

「そんな話……」

 をしたいわけではない。そう言いかけて口をつぐむ。私も彼も、どうせ想像などできないのだ。基本的にこの世の中はいつもどおりが続くように出来ていているのに、あの試験の存在はその先のいつもどおりを一切保証していない。

「……ま、わかるよ」

 先輩はそう言って、二本目の煙草に火をつけた。お前の言いたいことはわかるけれど、俺が言いたいこともわかるよな、と。

 私も彼も、まだ試験対策を受けていない。根っからの。純粋な、生まれながらの人間だ。本来、試験対策の順序はランダムで、全ての人間はある日突然それを受ける。唯一の例外は私たち、試験対策を管理する側だけだ。人間社会は人間社会であるが故に人間以外が運用できるように作られてはいないから、人間を人間以外に変えてしまう試験対策を正しく管理監督するためには、私たちは最後まで人間であり続ける必要がある。だから、私たちが試験対策を受けるのは一番最後だ。

 実際のところ、その予想がどこまで的中しているかはわからない。私も先輩もこのプロジェクトにおいては下っ端もいいところで得られる情報はとても少ないし、誰がいつどこで試験対策を受け、結果どうなったかという情報の全てを横断的に把握できるのは神様だけだ。

 言葉通り文字通りの神様がこの試験と試験対策を仕切っている。私たちはそういう風に理解している。


 それは二十年ほど前に始まった。

 ある日突然人間が人間以外のものになる。最初の一人はゾウになった。意味も原理も解明不能の明らかな異常事態だったが、人々はごくごく自然に理解し、納得してその変化を許容した。何一つ混乱は起きなかった。だって、

 いいや、それはおかしい。我々はその事象について何一つ疑問を持っていない。それ自体が明らかにおかしい。だってそうだろう。人間がある日突然別の生き物になるなんて事態は人類史上ただの一度も起きていないのだ。我々は人類史上初の異常事態に直面しながらも一切混乱することなく、それどころか完璧に順応している。我々はそのことに何一つ疑問を持っていないし、不思議だとも思ってはいないが、それでもなお、と言い続けなければならない。

 そう声を上げたのは生物学者でも社会学者でもなく哲学者だったらしい。

 何もおかしなことなどないがおかしいなのだ、という一見して意味不明な主張だったが、それ故にごく一部で熱狂的な信者も生まれたという。

 それらの二次災害めいた人為的な混乱はあったにせよ、大多数の人々はちゃんと理解していた。いずれ全ての人類が試験を受けることになる。そのために、神様は一度だけ試験対策の機会を与えてくれる。私たちは試験をクリアするために最適で理想的な形に変わることが出来る。ただそれだけのシンプルな話だ。あるいはもっと複雑で難解な仕掛けがあるのかもしれないが、私たちにはそれを知る必要なんてない。生きていくために心臓が動く仕組みを知る必要がないのと同じことだ。

 私は今、この国で誰がいつどこで試験対策を受け何になったのかを記録し管理する仕事をしている。厳密に言えばその中でも比較的立場の低いポジションで、淡々とデータ入力と書類整理を繰り返す日々だ。大層な個人情報とやらを保護するため、担当するデータはその時々で変わる。私は時に赤の他人の名前を無心で打ち込み、またある時は試験対策を受けた日時を延々と打ち込む。


「先輩は何になるんですか」

 時間をかけてゆっくりと二本目の煙草を消費している先輩に、何の気なしに訊ねてみる。彼は一瞬視線を左上にやってから、「シロクマかな」と笑った。「今年の冬は寒いらしいから」と。熊も割と人気のある動物だ。

「いいですね」

 言って、私はそそくさと喫煙所を後にする。後ろめたいことは何もないのだけれど、何故かこの時「君は何になりたいの」と訊かれることに強い抵抗があった。私は多分、たまこが望むとおり鳥になるだろうけれど、その理由を正しく他人に説明できる気がしないのだ。

 九月の東京は未だ夏真っ盛りといった様相で、思えばいつの頃からか秋らしい秋を感じていないとふと気付く。もしも人が秋になれるのなら、それもいいかもしれないな、と思う。


 オフィスに戻ると、窓口で鳥が騒いでいた。

「だから鳥って書くんじゃねえよ! ハヤブサなの! わかるっしょ?」

「申し訳ありません、鳥類は鳥類でひとまとめになっておりまして――」

 最近は少なくなったらしいが、それでも一日に一度は目にする光景だ。あまり細分化しすぎても管理が煩雑になるということで、試験対策の結果は比較的大雑把な分類になっている。こだわりがある人にとっては許しがたいことなのだろう。

 無視して席につき、午後の業務を始めることにした。パソコンを立ち上げていつもどおりバシバシとデータを叩き込んでいく。今日の担当は試験対策結果だ。

 猫、猫、ウサギ、クマ、イルカ、ウミネコ、オケラ、トビウオ、トンビ、猫、ヒバリ、ホタル、クモ、コオロギ、犬、犬、白鳥、花、多摩川、オーロラ。オーロラ?

 人はオーロラになれるのだろうか。少しだけ見てみたい気もするが、多分どれだけ探しても会えないだろう。魚以上に珍しい事例だが、形のないもの、生き物以外にだってなろうと思えばなれる。海や空になりたいという人も書類上には稀にいた。けれど、海や空やオーロラになってしまった人のことを、私はどうしても想像できない。もしも自分がオーロラになったとして、それはまだ私なんだろうか。

 少なくともこのデータベースにおいて、彼ないし彼女はオーロラではなく自然現象と書き直される。そういうルールだからだ。


 オーロラになれた人の気持ちを、私はまだ知らない。ただ、きっとその人はもうどこにもいなくなってしまったのではないかという確信だけがある。触れ合えないから、そこにいないからだ。

 魚になった人の気持ちも、私はまだ知らない。

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