またいつか旅に出る

 昼休み、大学の中庭で犬の男と猫の女のカップルが惚気けてるのを見て死ねと思った。その頃の私はしがない人事屋ではなくしがない大学生で、昨今の嫌煙ブームでいよいよ隔離施設じみてきた喫煙所でイライラするのが仕事だった。

「先輩また死ねーみたいな顔してますよ」

 どこから見ていたのか、喫煙所の外から眉間にしわを寄せたたまこが顔を覗かせ、私はまた死ねと思った。

 その頃のたまこは、かわいく、人当たりがよく、友達が多く、巨乳で、ふわっとしていて、いい匂いがして、男に人気で、女にも人気で、誰にでも好かれて、ラーメン屋とか行かなさそうな、私とは正反対の、しがなくない一年下の後輩だった。

 それが何をどうして私と付き合いだしたのかはよく覚えていない。毎日死ねーみたいな顔をしていたら毎日寄ってくるので毎日死ねーと思っていたらいつの間にかそうなっていた。


 嘘。本当はちゃんと覚えている。二月の頭、真冬も真冬の朝のことだ。いつもの喫煙所でいつもどおり煙草をぶかぶか吸いながらあまりの寒さにイライラしていると、いつもどおりにたまこがふらりとやって来て「先輩今日も死ねーって感じですね」といつもどおりに言うものだからいつもどおり死ねと思ったのだけれど、その全部が全部いつもどおりであることに何故か無性に腹が立ったのだった。

「一限サボってどっか行こっか」

 それはいつもの私なら絶対に言いそうにないセリフで、たまこは二秒ほど固まって、それから私の目を見て、無表情で一言「行きます」と答えた。そのリアクションがあまりにも面白かったものだから、そこから先は本当に何もかも勢いで大学から一番近いレンタカー店で今すぐ借りられる車を車種も見ずに予約して一時間ちょっと東名高速をかっ飛ばして気づいたら江ノ島のてっぺんにある料亭で江ノ島丼を頬張っていた。

 江ノ島を目指したことにそれ程深い理由はなく、ただその日たまこが着ていたネイビーブルーのトレンチコートが海に映えそうだと思っただけなのだけれど、窓の外に広がる真冬の太平洋は想像していたよりもずっと重い鉛色に輝いていて、まるで金属を敷き詰めた絨毯のように見えた。

 そんなこんなで急上昇していたテンションが落ち着いてきた頃、どうやらそのタイミングを見計らっていた様子のたまこがおずおずと「先輩、何かあったんですか?」と訊ね、すぐに私は嬉しいですけど、とつけ加えた。それはごくごく当たり前の疑問だ。だって、普通は何の理由もなしに突然後輩を捕まえて旅行に出かけることなんてないだろう。きっかけの一つや二つあって然るべきだ。だから私は少しだけ俯いて、次に水平線に目をやって、それからたまこの鼻筋を見て、考えて、「何もないから来たんだと思う」と答えた。

「大学行って、煙草吸って、寒い死ねとかカップル死ねとか思って、それはいつものことで、特別な何かじゃないわけでさ」

 一息。

「でも多分、江ノ島丼とか、海とか、コートを着たあんたとかってのは、特別な何かなんだよ」

 言ってから、これじゃあちょっとした愛の告白みたいだと思った。だから、とぼけた顔で「はあ、コート欲しいんですか?」とズレたことを言うたまこに私は少しだけ安心したのだけれど、今にして思えば、きっとこの時の言葉はちょっとした愛の告白としてきっちり彼女に伝わっていたんだろう。だって、たまこはいつもそうだった。他人の気持ちに敏感なくせに、空気を読めば読む程ズレたことを言う。


 そんな具合で江ノ島をぶらついた後に寄ったスパの温泉が熱すぎてびっくりして死ねと思っていたら既に肩までお湯につかったたまこが隣でふわふわと笑っていて、唐突に「ああ、この子は私のことが好きなのか」と気付いてしまった。だから私は至極あっさりと「付き合おっか」という話をして、たまこはたまこで「いいですよ」という軽いノリで、そのようになった。


 彼女はかわいく、人当たりがよく、友達が多く、巨乳で、ふわっとしていて、いい匂いがして、男に人気で、女にも人気で、そういう人間で、誰にでも好かれるのだから、当然のように私もまた彼女のことが好きになったんだと思うのだけれど、私はいつだってたまこに対する気持ちをきちんと言語化できない。

 つい先日まで人間だった彼女のかわいらしい顔を、今の私は何故だか曖昧にしか思い出せない。今のたまこは魚の形をしていて、巨乳でもなく、ふわっともしておらず、いい匂いもしないのだが、魚のたまこに対する気持ちを正直に言葉にすれば「まぁ、好き」みたいな具合で、私は時々、そういう自分に安心するのだった。

 かわいいから、巨乳だから、ふわっとしているから、いい匂いがするから、そういう理由がたまこを好きにさせたのではなく、私は多分、たまこがたまこであることそれ自体が気に入っているのだ。もしたまこが魚ではなく、例えばヘビとかカエルになっていたとしても、「まぁ、好き」のままでいられたと思うのだ。人であろうと魚であろうと、私は彼女のタマシイとでも言うべきものがいいのだ。

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