CQ

水瀬

サンシャイン

 試験対策で彼女が魚になった。六月の半ば、くもり空が爽やかな朝のことだ。理由を訊くのも野暮かと悩んでいたら洗いざらい自分から語り出したので、人それぞれ思うところはあらぁなと適当に聞き流したのがその日の夕方で、「あんたこれからは卵生なの?」という私の何気ない疑問から大喧嘩に発展したのが夕食後の話だ。回答としては卵生らしい。

 翌日、私は彼女のことをたまごフィッシュと呼び始め、「なによこの子宮モンキー」「モンキーはないだろたまご」「じゃあただの子宮よ子宮」「たまご」「子宮」という程度の低い罵り合いの末、私たちはお互いのことを「たまこ」「CQ」と呼び合うに至った。


 魚の生活はそこそこ快適であるらしい。そりゃあ試験対策でそうなったのだから不快なわけではないのだろうが、それにしたって魚を選ぶ人は稀だ。何年か前のランキングによれば、試験対策を経てなお人間のままでいることを選ぶ人が大多数であるらしく、次いで犬や猫といった身近な動物が人気らしい。魚なんて圏外もいいところで、だから池袋駅前の雑踏の中でもたまこの容姿はひときわ目を引いた。卵生デビュー記念に水族館に行きたいと言い出したのはたまこの方だった。水槽の中に閉じ込められた同類を見て何を思うのか不思議だったが、しかし私とて檻の中の猿を見たところで「猿だなぁ」と思うだけなので、たまこはたまこなりに「魚だなぁ」と感じているのだろう。どうやら試験対策を経験したところで人間性や常識や固定観念や社会性のような実態のあるようなないような精神性は特に変わらないようで、水族館の魚たちに自己を投影してどうのこうの、みたいなセンシティブな感性は残念ながらたまこには宿らなかったようだ。もちろん私だってそんなもの持ち合わせてはいない。何しろ二人で一番盛り上がったのは水槽どころか魚ですらないアシカのショーだったし、売店でねだられたのはペンギンのぬいぐるみだった。人間というのは存外そんな具合で、きっと根っこのところは支離滅裂なんだろう。思ったとおりに動かないし、何が何やらわからないのだろう。


 成果物が意図したとおりの挙動を取らないのなら、単純にそれはバグだ。人間はバグっている。だから神様は試験をするし、わざわざ対策もさせてくれる。どんな形が正解なのか、みんなに選ばせてくれる。そういうことだと私は思うけれど、こういう解釈は多分間違っているだろう。本当はもっと複雑で難解でどうしようもなく面倒な仕組みなんだろう。けれど、私にとっての世の中はもうちょっとシンプルでいい。私には十代半ばの人間のようなセンシティブな感性はないが、138億歳の神様のようなロジカルな思考回路もないのだ。だからその程度の理解でいい。たまこは魚になり、私はまだ人のままだ。それでいい。

 試験対策が始まってから多様性なんて言葉は死語になった。多様であることは大前提になった。本当は最初からそうだった。人も魚も犬も猫も何もかも元から多様だったし、私たちはそういう風に理解していたはずだけれど、どう足掻いても人は人をやめられなかったから、人が人であることすら曖昧になった今、ようやく私たちが多様であることは前提になったのだ。人生の、社会の、世界の、色々な、生きる上での前提に。


 地下一階から地上六十階まで上昇するエレベーターの中でそんなくだらないことを考えていたのだが、エレベーターを出るやいなや「猫がめっちゃ見てきて怖かった!」と妙なテンションになったたまこを見ていたら全部どうでもよくなった。そう言えば犬や猫も同乗していたような気がするが、今どき隣に立っている人が猫だかトカゲだかなんてことを気にする方が難しい。

 六十階から見下ろす東京はぼんやりとモヤがかかったようで、新宿の高層ビル群が妙に近くに見えた。たまこが「夜景の時間にくればよかったね」と呑気に言うので、「ここディナー高そうだから無理」と返す。魚の表情はよくわからないが、彼女は多分、少しだけ寂しそうな顔をした。「もっと稼いでよ、しがない……会社員? あれ、公務員だっけ?」全然寂しそうじゃなかった。

「公務員。人事屋さん。言ってなかった? ヒトゴトと書いて人事」

 言ってから、たまこに仕事の話をしたことはないと思い出した。仕事の話はあまりしたくない、とも。

「鳥はいいよね」と、窓の外を眺めながらたまこは言った。魚の顔で。ペンギンのぬいぐるみを抱きかかえて。たまこは私と違って他人の機微に敏い。その割に思考が大雑把なので、空気を読んで話題を変えようとするといつも妙なことを口走る。

「CQは鳥になってね。かわいいやつ」

 だったらたまこが鳥になればよかったのに、とは言えなかった。彼女はわがままなのだ。だから私は少しだけ真面目にそうなった時のことを考える。魚のたまこと鳥の私のことを考える。


「どっちもたまこになるから嫌だな」


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