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 もう要救助者はいなかった。軍曹と伍長には半分だけ事実を話し、中尉は預けていた装備を再び身に着けた。

 右腿と左脇にホルスターを吊り、腰にユーティリティポーチを取り付け、外していた無線機を耳に掛けて、しかし通信機の電源は入れず。濃紺の外套を羽織りながら、烏月が歩み寄ったのは、上でも介抱していた男性をしきりと心配する少女の傍。あ、と不安げな声を上げて立ち上がりかけたのを制し、中尉は屈んで少女と視線を合わせた。


「随分心配しているようですが、貴方の身内ですか」

「……お父さん……」

「ぁあ」


 なるほど心配にもなるわけだ。

 烏月は己の感情を悟られぬ程度に目を細め、少女の父であると言う男に向き直る。細く柔らかい茶髪に色白の肌、軽く瞼を上げて覗いた瞳はライラック色。まつげが長く、雰囲気は何処か儚く頼りない。いずれも少女とよく似ている。肉親である可能性は高いだろう。そうでなくとも、中尉に彼らを助けない選択肢などない。

 改めてよく診る。最初の見立て通り、特別深刻な疾患や怪我を負っているわけではなく、ただひどく衰弱しているだけ。食が受け付けられなくなってからさほど時は経っておらず、脂肪も筋肉も限りなく薄いが骨格はまだしっかりしている。胃腸はかなり参っているようだが、それ以外の臓器に驚くべき異常はない。総評して、虚弱体質と気安く呼べる範疇だ。

 診察完了。ユーティリティポーチに押し込んでいる栄養剤――中尉が徹夜のお供としてロッカーに溜め込んでいる備蓄の一部――の内、効能の穏やかなものを選んで喉の奥に流し込む。

 半分ほどまで飲ませたところで、栄養剤特有の味と臭気に気付いたのだろう。薄く目を開けた。すぐに摂取を止めさせ、軽く意識と見当識を確かめる。


「お早うございます、私は烏月白、故あって貴方の娘さんを救出に参りました。お名前と、言えれば今日の日付を言えますか?」

「……、……」


 か細い声を聞き取り、首肯。どちらも異状はない。追認の為更に違う質問を繰り返し、それに対して得た答えにまた肯いて、中尉は男に笑いかける。


「貴方の娘さんはご無事です。元気ですよ」

「――――」


 男が返したのは、弱々しくもしっかりとした、少女のものによく似た微笑み。人の安否を聞いて笑える余裕があるならば大丈夫だ。追認の首肯を数回繰り返し、烏月はゆっくりと少女に向き直った。

 一連の結果を、分かりやすい言葉に噛み砕く。


「貴方のお父様は病気でも怪我でもありません。とても弱っているだけです。ゆっくり休んで、いっぱいご飯食べたらすぐ良くなりますよ」

「本当? お父さん、死んじゃわない?」

「大丈夫です」


 不確定な要素のことは一切口にせず、中尉は笑顔で断言する。きっと、とか、恐らく、とか、そんな不案を煽るような言葉をここで使う意味は何もない。くしゃくしゃっと柔らかな茶髪をかき混ぜるように頭を撫でてやり、そのくすぐったさに思わず少女が控えめな笑声をこぼしたところで、烏月はやおら立ち上がった。

 視線の先は、遠く部屋の出入り口。その口の端はきゅっと一文字に引き結ばれ、右手は腿のホルスターに掛けながら、左手は通信機の電源を入れる。耳の中でザリザリとしたノイズが暴れ回り、数秒して溢れてきた後方の兵士からの怒声を聞き流して、烏月中尉は淡々と告げた。


「大至急、シュタルク部隊の掃討戦を延期して下さい」

『延ッ……そっそれは小官の一存を超える決定です、お待ち――』

「上の決定を待っている余裕はありません、今すぐに止めさせなさい。……それとも、悠長に決定を待ってシュタルク部隊を壊滅させます?」

『! お、承知オーライッ!』


 いつになく低く冷たい調子に気圧された後詰めの兵士、その切迫した声を最後に通信を切り、烏月はちらと軍曹と伍長の方を振り返る。エメラルド色の片目、その輝かしさに宿る見たこともない鋭利さに、スペンサーとギンコは揃って硬直した。

 烏月が斯様かように剣呑な表情をしたことなど、今までに幾度あっただろう。スペンサーが覚えている限りではただ一度きり、彼女と接点の少ないギンコに至っては見たことがなく、そして今の眼光はその時以上に鋭い。能天気な上官の見せる切迫した目の色に、二人は無意識の内に生唾を呑み込む。

 烏月は何も言わない。ただ顔を正面に戻し、鼻に引っ掛けた下縁アンダーリムの眼鏡、その黒いつるに手を触れる。幅の広いそれを人差し指の先でつつけば、何の変哲もないように見えた眼鏡の分厚いレンズが、チカチカと数度瞬いた。かと思えば今度は目にも留まらぬ速さで不規則な明滅ブリンクを繰り返し、てんかん発作を誘発しそうなそれは、たっぷり十数秒続いてようやく収まる。

 サブリミナル効果を利用した認識災害対抗ミームの接種。かの女の研究、その中で考案された対抗ミームを、通常の人間でも使用可能なレベルに落とし込んだものである。その原理は言ってみれば強引な刷り込みで、対抗用のミームとは、刷り込ませたい情報の他に刷り込みを引き起こすための干渉術式を含んだ、ある種の魔導的オカルティックな情報群のことだ。雛鳥の刷り込みが成立後二度と書き換え出来ないように、正常な認識を脳内に刷り込んでしまえば、これを後から書き換えることは出来なくなる。

 しかしながら、これに耐えられるものは決して多くない。ある程度発達した人間の脳で刷り込みを引き起こすことが土台無理な話であるし、その内容も本能的な要求とはあまりにかけ離れている。烏月が改造して組み込んだこれですら、一般人が接種しようとすれば体調を崩すだろうし、そも作った本人にとっても無害ではない。

 強い吐き気と目眩、強い視野狭窄。何より、血管を無理に拡張されているような頭痛。襲いかかる体調不良の数々に、堪らず中尉は膝を屈した。


「中尉、此処は俺達が」

「上官命令です。二人は要救助者を連れて、可及的速やかに離脱しなさい」


 いつになく強い拒否の姿勢。烏月の視線は一時のぶれも隙もなく入り口を見つめたままで、スペンサーは言葉を失った。

 武力に頼れぬ戦いが――彼女にしか出来ないことが、始まってしまう。だが、中尉という自分たちより遥かにか弱い者に、今から起こる一切を任せて良いものか。任せられるのか。

 短い間に脳をフル回転。結論をまとめて言葉を練り上げ、スペンサーはゆっくりと、

 首を横に振る。


「俺は従いません」


 軍曹は、上官の言うことを、半分だけ信じることにした。

 何かが起こることは信じる。その手の勘を中尉が外したことはない。だから肩透かしではないとは信じる。だが――中尉が一人で何とかしようとしたことが、彼女一人に背負いきれる問題であったことなど一度もない。だから、命令を聞くことは出来ない。

 一蓮托生、決死の覚悟で反駁した部下の目を、上官は無感情に見上げた。若木の葉を透かしたような、透徹とした翠の眼光が、揺らぐこともなく己を見つめ返した。


「よろしい。では私の推測を貴方に共有します」


 返ってきたのは、命令無視に対する怒りでも、覚悟に対する称賛もでない。

 それは、彼女の脳内に張り巡らされた、複雑怪奇にして深謀なる思考回路の一端。何故己だけが然るべき処置を施して残り、武に長けた男達にはそれをせず逃がすのか、その理由と結論に至るまでの思考過程であった。

 まず――切り出した中尉の声はただただ静かで、生唾を飲み込む音すら周囲に響いているのではと、そんな錯覚を軍曹は覚える。


「此処は、明星研みょうじょうけんと一般に呼ばれている施設を、麻薬カルテルのアジトであるように見せかけた所です。我々がまず掴んだのは後者の欺瞞情報で、我々の制圧目的もまた後者であると知らされています。我々は確保した遺体からの復帰残存記憶サルベージメモリーの記録から、かの方が麻薬カルテルに捕まって薬漬けにされたわけではないと掴んでいましたが、その点は意図的に尉官以下の隊員には秘匿されています」

「何にせよ制圧はしないといけないと言う事でしょうか」

「それもあります。何より、下手に目的が増えると隊員に危険が及びかねませんので、我々研究班の方から大佐に直接提案しました。提案は受け入れられ、今こうして共有するまで秘匿され続けてきたわけです。……大佐は隊員の方々を信じたかったようですが」


――理屈は分かりました。道理であろうとも考えます。それでも、貴方達を信じたい。

――残念ですが、大佐。我々は大佐の思うほどに万能でもなければ、冷酷でも冷徹でもありません。我々が死力を尽くして尚あの方を蹂躙することしかできなかったように、我々が総力を挙げて尚あれは脅威です。それも、絶対的な。出会えば尻尾を巻いて逃げる他にありませんし、出会った時点で逃げられなくなるかもしれない。そういったものです。

――残酷な追い打ちですね。


 作戦決定直前の、大佐との会話が脳裏によぎる。

 烏月も、その部下も、その上官も。大佐の期待と信頼に応えること能わず、ただ見たものを伝えることしか出来なかった。そうあることしか出来ない程度に彼女らは無能で、それ故に彼女らは大衆的正義として此処に立てた。

 明星研の在り方は、科学者としては至高の環境であろう。しかし、中尉を含めた隊員らの持つ道理と倫理の観念からは、あまりにも外れ狂いすぎている。人としての理性を捨て去ってまで世界の真実を求めるくらいならば、いっそ人の死も尊厳も左右できぬ無能であろうと。それが共存共栄を目指す彼女らの掲げた、奔放なる彼等を縛る絶対の正気ルールである。

 ともあれ。中尉は無表情を貫いたまま、軍曹に次なる言葉を織り上げた。


「では、軍曹。貴方に一つ情報を渡します。――我々が秘匿すべきとしたものについて」

「兵器、とか?」

「いいえ。あれはです」


 一瞬、わけが分からなかった。

 “狐”ではないもの、というその曖昧な括りはなんだ?


「中尉、何ですそれは?」

「……失礼しました。あれは認識災害にんしきさいがいの神格です」

「認識災害?」

「周囲の事象を正しく捉えられなくなる異常、とでも言いましょうか。例えば、目で見えているはずのものが見えなかったり、或いは何か違うものにすり替わったり。記憶がいつの間にか消えたり、変わってはいけないものに変えられたり。また或いは、常識そのものの認識が狂ったり」

「……おぞましいですね」

「ええ、とても。認識災害に遭遇した社会はことごとく崩壊しています。私が個人的に確認した時点では、あれの降臨によって過去四つの村落が一夜にして消え、一万以上の人間が身を投げたとも」

「中尉。……そんなものと、貴方は一人で対峙する気だったのですか」


 非難めいた響きのこもった声であった。しかし、烏月は何の感情も見出せぬ目で正面だけを見つめている。


「大勢で迎え撃ったところで、その大勢が汚染源になるだけです」

「ですが……!」

「我々の次の手次第では、数千万の無辜の民が犠牲になりますよ。そうなった時誰が責任を取れますか?」


 今度こそ、スペンサーは沈黙するしかなかった。

 対策法を知っている以上、此処で最も力を持つのは紛れもなくこの華奢な女である。どれほど筋肉の鎧で固めたとしても、認識に汚染を植え付けられては何の意味もない。その上、彼女の口ぶりからして、その「“狐”ではない」とか言う汚染は、人から人へ伝染していくのだ。ならば、大勢の無防備な男達が此処に集えば、それは部隊内に、延いては市民間における大規模汚染パンデミックを引き起こす原因になりうるであろう。認識災害に関する知識は乏しくとも、それは想像に難くない。

 思わず鼻面にしわを寄せて、軍曹は呻いた。


「俺にできることはないんですか」

「出来ることなら救助者を連れてさっさと逃げて頂きたい所なんですが」

「それはギンコに任せます。俺は」

「護衛でもお願いしときましょう」


 味気のない命令である。それだけ己にやれることが少ないと言うことでもあろう。

 しかし、これでやるべきことは出来た。素早く脇に下げたホルスターから拳銃を抜き放ち、弾倉の確認。全弾装填済みであることを確かめ、スペンサーは中尉と背中合わせの位置へと移り――

 いつのまにかぽつんと佇む、一人の少女を見た。


「……!」

「軍曹、やめなさい!」


 ――あれが件の化け物か?

 疑問に思うよりも早く、身体は反射的に咄嗟に銃を構える。引き金に指を掛けた所で、中尉のいつになく強い激声が飛んだ。

 しかし、構えは解かない。銃口を少女に向けたまま、目を凝らし観察する。

 灰がかったような色の肌、どこかくすんだ色の白髪。顔の造作は半分以上が隠れて見えず、見えぬ目元の代わりと言わんばかりに、頭部の大きなコウモリの耳が忙しく動いて音を集めている。姿はなるほど見慣れないが、神格と聞いて想像していたほどの凄味はない。それに、あれはきちんとコウモリか何かの獣人であると理解出来る。異様な認識を植え付けられているという感じはしない。

 ……違う、のだろう。

 たっぷり時間をかけて理解し、銃を下ろした軍曹の耳が、中尉以外の声を拾った。


「此処にいらした方々はどちらへ?」


 場違いに可愛らしい、少女とも妙齢の婦人ともつかぬ声。勿論中尉のものではない。

 あれがかの認識災害の神格なのか? 目の前の少女に隙なく警戒を払いつつ、疑念を心中で育てる。一方、大の男から警戒心を剥き出しにされている少女の方は、まるで意に介さぬ風に可愛らしい声へ答えていた。


「私達が通ったの隣の区画を通って外に出たみたい。今パラさんとプロイさんが追いかけてるはずだよ」

「――ギン、っ」


 思わず名を呼びかけて、背に来る衝撃に詰まらせる。正中線に思い切り肘鉄を放ったのは、勿論中尉だ。安易に敵の前で名を喋るなと、後から来た背の痛みだけが雄弁だった。

 平静を繕い、スペンサーは喉から声を絞り出す。


「お前ら、何が目的だ……?」

「認識してくれた子を探しているの」


 先ほどの可愛らしい声だ。やはりこれが認識災害の神格なのだろう。そう考えると緊張してくる。


「何のために探す? 殺しでもするのか」

「オダマキさんがそんなことする訳ない」

「あれだけの非道を働いておきながら今更何をほざく!? あの子はただの、本当にただの善良な人間だぞ。お前らみたいなテロ組織に金輪際関わらせてたまるか」

「わたし……」

「黙れッ!」


 己も驚くほど強い言葉を、軍曹は叫んだ。

 何故だろうか。あの薬物中毒と陵辱の果てに生き絶えた女性を少しでも見たからだろうか。衰弱した大人たちと、薄汚れた子供たちを見たせいだろうか。或いは、父を心配し傍を離れたがらぬ少女の姿を、弱りきった父が死なぬと知って安堵した笑みを、見たからなのだろうか。

 きっと、違う。


「指一本も触れさせてたまるか……!」


 恐らくは、彼女らを連れて離脱した伍長のことが、心配なだけだ。

 振り絞るように叫んで銃の照準を合わせたスペンサーは、その時、ひどく寂しそうな怒声を聞いた。


「友達が、欲しかっただけなのに」

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