見よ、汝ら獣の神を

月白鳥

-1

『本作戦は……シュタルク部隊に引継ぎ……本作戦に……隊員は本部へ帰還……繰り返します。本作戦は無事に完遂されました。掃討戦を――』


 限りなく肉声に近い声を届ける最新鋭の通信機器も、強度のジャミング下では単なる通信機に成り下がる。砂をむようなノイズを交え、切れ切れになりながらも辛うじて命令を届け終わった直後、耳孔に押し込んだインカムは余韻もなく沈黙した。

 再びの静謐を吹き消すように、深く細く溜息。銃を握り締めていた手を解き、腿のホルスターに押し込む。目深に被っていた帽子を脱ぎ、ずれていた眼鏡の位置を正した。

 皿のように見開いていた目を閉じて、開く。見回せば、シミついた灰色の壁と砂埃まみれの床、脛や腿を押さえて呻く男どもと、散らばった空薬莢の輝きが映った。もう一度、今度は安堵の溜息。

 小部屋の制圧は一瞬だった。それもそのはず。彼女は後方勤めの研究者だが、粒揃いの強者が集うSPR部隊の中で、人の身にありながら中尉まで叩き上げた女だ。常人と比べたならば、その身体能力はずば抜けている。素人の男五人を地面に転がす程度ならば朝飯前の話である。

 やれやれ、と喉の奥で呟きながら、呑気に伸び一つ。呻く男たちを睥睨する彼女の背に、声が掛かる。


「中尉!」


 自身と同じか、それよりやや上か。少なくとも三十路を越してはいないであろう、若い男の声。聞きなじみのあるその音に、中尉、と呼ばれた彼女はにっこり微笑みながら振り返る。切れ長なエメラルド色の眼は果たして、よく見知った者の姿を捉えた。

 深く被った軍帽から覗く、癖のある短い黒髪と、葉を透かしたような緑の双眸。右の眉から頬にかけて、斜めに走った切り傷が目立つ。中々に厳つい体格と顔の持ち主であるが、それで動じることはない。口の端に浮かべた楽しげな笑みも崩すことなく、彼女は男に気軽く片手を上げた。


「お疲れ様です、軍曹。割と早く終わったみたいで何より」

「ちょ――いえ。中尉こそ、ご無事で何より」

「はーい」


 いつものようにあだ名を呼びかけて、止め。階級だけで彼女を呼ぶに留めた男。その名をスペンサー。

 烏月白うげつましろ、と。立派な名があることを、スペンサーは知っている。知っているしそう呼びたいのはやまやまだが、烏月と呼ぶとやんわり叱られる。どうやらあだ名で呼ばせたいらしいが、間の抜けたその呼び名を外で、しかも仮にも制圧対象の前で使うのは少々憚られた。故の階級呼びである。

 むず痒そうに視線を泳がす軍曹の顔を見上げながら、中尉は面白げに華奢な肩を少しく揺らした。


「それで、此処へは私の回収に? それともそこに転がってるゴロツキの回収ですか」

「どちらもです」


 返答は素っ気ない。切り替えたようだ。烏月もへらへらと緩めていた顔を少しばかり引き締め、スペンサーよりも早く男達の方へと歩み寄っていく。男達は一様に足や手を押さえては、止まらない血に顔を青くしていた。

 彼女が携帯する銃で、人の命が奪われたことはまだない。物理的な意味でも能力的な意味でも人外に溢れたこの共存地区で、三十六口径の自動拳銃は、時に素手よりも武力としての価値に劣っていた。それを知るからこそ烏月は射撃の腕を上げたのだ。最も手軽にして強力な、暴徒無力化の手段として。

 その努力の成果が、今目の前で倒れている髭むさい男。地味極まりないが、一介の研究者が達する境地としては十分だろう。うんうん、と一人で頷きながら、烏月は呻く男に話しかける。


「貴方がたが何かしら良からぬ手を結んでいるのは知ってます。何をやらかす気だったんですか?」

「……ッ」

「中尉、此処でそういったことは」

「まあ黙ったところで知ってますけどね。どうせだから搾り取られちゃって下さい」


 にこにこと童女のように無邪気な笑みと共に滴る、毒液のような言葉。それが嘘か真か、スペンサーには判ぜられない。腹の底に隠し持っている負の感情を、表に出すことは決してしない。烏月白とはそういう女だ。

 笑みを崩さないまま離れた中尉と入れ替わり、スペンサー軍曹が男の前に立つ。反抗的な鳶色の眼に無感情な一瞥をくれ、そのまま周囲の状況を検めた彼は、その場でインカムの通信を繋げた。手短に帰還の報告と男達の回収の要請を済ませ、承諾の返答を聞き届けるのもそこそこに通信を切る。間髪を容れず烏月へ視線をやれば、彼女は口の端の笑みを一層深くした。

 どうかされましたか、と。今のやり取りなどまるで忘れ去ったような一声に、スペンサーはがっくりと肩を落とす。聞きたいことも言いたいことも山ほどあるが、此処で言うことは一つだ。


「中尉……さっきの通信は聞いてるでしょう、本部に帰還ですよ」

「んー、いや、先帰っててくれません? やることがあるの思い出しました」

「シュタルク部隊に任せられないような事ですか」

「ええ」

「そう、ですか……」


 自信満々の肯定に、スペンサーは唸った。

 中尉は確かに特殊部隊の隊員ではあるが、所詮後方勤めの科学研究員だ。常日頃から前線で修羅場を潜る己に比すれば、膂力の差はあまりにも歴然としている。力ずくで連れて帰るなど、それこそ赤子の手をひねるよりも簡単だろう。しかしながら、そうしてはいけないような気が、彼にはしてならなかった。

 勿論、彼女の言うことがすべからく正しいなどとは、太陽が西から昇っても思わない。彼女の言うことを信じて大変な目に遭ったことは幾度もある。貧乏くじも引かされれば、共倒れになった回数は最早両手両足の指を全部足しても足りないくらいだろう。だが、それと同じくらい、いやそれ以上に彼女の助言は、当たるのだ。

 だから、これはただの勘。何度も死地を抜けて磨いた、軍人としての、或いはただのチンピラとしての勘だった。


「分かりましたよ、中尉。……ですが、貴方一人だけこんなところに放り出すことは出来ない」


 スペンサーは、中尉を半分だけ信じることにした。

 何かあることは信じる。だが、彼女一人で何とか出来るとは思わない――言外なその意志を、烏月は汲んだか否か。きょとん、と豆鉄砲を食ったような顔を一瞬したかと思うと、すぐに何時もの意味深な笑顔に戻った。


「共犯ですね?」

「お目付け役と言ってほしいです」

「どーせ一緒に命令無視で怒られるんだから共犯です。帰りはオザキの後ろに載せてってくださいよー」


スペンサーの愛車の名を挙げながら、したり笑い。失血で失神したらしい男どもに一瞥をくれた後、くるりと軽やかに踵を返して部屋を辞する。早く回収班がくればいい、そう心中で呟きながら、スペンサーも烏月を追って部屋を出た。

 建設途中で破棄されたビルを乗っ取り、不法に改造して作られた拠点は、ろくな内装もなければ塗装もされていない。壁や床はコンクリートを打ちっ放したきり埃にまみれ、天井には剥き出しの鉄骨が血管のように張り巡る。不気味な空気を漂わす中、烏月は冷たい灰色の壁に手を触れながら、一見何処も同じに見える通路をすいすいと歩いた。その歩みには澱みもなければ迷いもない。

 ところで、制圧作戦中は後方詰めの通信兵からの通信補助と支援を受けながら基地へ突入する。無論、個人に基地の地形や部屋の間取りなどは通達されるが、それも担当する区画の周辺のみ。いくら能力の高いSPRの隊員たちとは言え、蟻の巣のごとく縦横無尽に建て増しされた部屋の全てを把握することなど不可能だし、何より無意味だからだ。 

 そこへ行くと、中尉は通信補助などまるで必要としないように見えた。彼女はジャミング強度の高い部屋に突入したはずだから、あの部屋へ到るまでの経路を叩き込んでいるのは頷ける。だが、今のこれはそれとは別問題。特に目的としない部屋までの経路すら、頭に入れているようだった。


 ――だが、何のために?


「中尉?」

「はい?」

「ぁ、いえ……何処に行くつもりなのかと」

「ギンコ伍長が制圧した部屋の真上です。あそこ隠し部屋があるんですよ」


 そんな情報は聞いていない。勿論だが事前通達にもない。

 信じられない、と言った風に、スペンサーは首を振った。


「そんなものあったとは全く」

「そりゃあ、ジャミングの中心地のすぐ傍ですし? スキャンは妨害されるし、目視でやろうにもあちこち入り組んでてよく分かんなかったじゃないですか。私だって見つけたのは偶然です」

「どうやって?」

「天井のあの、鉄骨みたいなやつ。あれのネジが何個か不自然に緩んでいるのが見えました。他は互いに噛み合ってガッチリ天井を支えてるのに、そこだけはどうも自由に動かせそうでして、あそこ部屋なんだろうなって。ただ、あんなところにある意図が分かんないし不穏当な動きは見られなかったので、今までほっぽらかしてました」

「……はぁ」


 たった数個のネジの緩みを見抜く観察眼、そこから隠し部屋を推測し得る空間の把握力、そしてそれを報告もせずに放っておく勝手奔放さ。スペンサーの中にある常軌からは、最早完全に逸脱しきっている。呆れて二の句など接ぐべくもなく、彼は明後日の方向に目を向けながら帽子を脱ぎ、がしがしと乱暴に頭を掻いた。

 そんな様に、何を思うのか。烏月はいつもと変わらない、何処か含みのある笑顔を前に向けるばかり。



「……やったね軍曹、共犯者が増えるよ」

「止めてください」


 立体的に交差する通路を上へ下へ、複雑に折れ曲がりくねりながら進むこと十数分。敵基地の中心にほど近い、一際広いホールのような部屋へ踏み入った二人が最初に見たのは、呆然としたように立ち尽くす大柄な男の背中。巨漢はパスカル部隊にも数おれど、その巨躯に彼方此方釘を刺された上、奇怪な文字の書かれた紙札を髪の毛のように垂らした男など、恐らく世界中をほじくり返しても彼しか居ないだろう。

 その彼と二人――とりわけスペンサーは、奇縁によって結ばれた仲。軍属である立場を超え、友人同士と言って過言でない間柄だった。


「ギンコ!」

「……スペンサー、軍曹。それに、中尉?」


 ギンコ伍長。素肌のほとんどを包帯で覆い隠した彼は、抑揚に乏しい、けれども確かに驚きを秘めた声で二人を呼ぶ。スペンサーはそれに大仰な首肯で、烏月はただ笑みを深めて応えた。

 体勢を変え、相対。数歩で間合いを詰め、伍長は軽く首を傾げる。


「二人とも、もう帰投したはずじゃ? 俺は作戦の引き継ぎで残ったん、です、が……」

「その作戦の始末書を書きに来たんです」


 中尉の軽口は、どうやら通用しない。包帯の合間から覗く左目を何度も瞬きながら、ギンコは更に首を捻る。スペンサーにもいまいち突っ込みどころが分からなかったのか、妙なものを見る視線が烏月の横顔に突き刺さった。気まずい空気が漂いかけて、ぱちりと間抜けた柏手の音が破る。

 集まる視線の中、ゆっくりと閉じられて開いた瞳には、いつもと違う鋭い光。


「知ってました? 私には後ろに目が付いてるんです」


 楽しげな声と共に、烏月は太腿のホルスターから拳銃を抜き放つ。しかし引き金は引かない。銃口だけをその方へ向け、中尉は深く帽子を被りなおした。

 一拍遅れて、軍曹と伍長もその方を見る。直後、二人は呆気に取られたが如く目を見開いた。

 天井の一区画、複雑に噛み合う鉄骨の狭間から、逆さまに身を乗り出して拳銃を構える者一人。

 ――その姿は。


「子供!?」

「しかも、人間の……」


 年の頃十ほどの、ほんの幼い少女に見えた。

 けれどもそのあどけない顔に浮かぶ険しさは、剣で切り刻まれたかのごとく深く、どす黒く。鋭く。

 そして、哀しかった。


「この基地は制圧されました。上から見ていたんでしょう? 降りられるなら降りてきなさい。降りられないならそこで待ってなさい。何かしてもしなくても、私達はそちらに行きますよ」

「……何で」

「非合法な薬を売り捌く組織であったことは知っています。売り捌かれたクスリで何人もの人が命を落としたことも、落とさずとも正気を失って二度と日の下を歩けなくなった人がいることも。そしてそれが、明星のアンファンという反人間組織と繋がりを持っていたことも」

「ならどうしてもっと早く来てくれなかったのよ!」


 耳をつんざくような悲鳴。

 それに、烏月はただ、双眸を苦々しく細めることで応じた。

 拳銃を構えたまま動かぬ女の背に、少女の弾劾は続く。


「ねぇ、どうして!? あんた達さえ、あんた達さえもっと早く来てくれたなら、誰も……誰も死にゃしなかったわッ!」

「……三日前、ある地区で女性の遺体が発見されました。顔は潰れ、指の先は全て刃物で切除されていました。加えて全身の打撲傷と骨折、膣の擦過傷――」

「中尉、止めてくださいそんなこと!」


 思わず声を上げたのはスペンサーだ。

 公安の手に余るとしてR/C部隊に託されたという現場検証にも、中尉らパスカル部隊の科学研究班が担当したという司法解剖にも、彼は立ち会っていないしそんな権限もない。だが、淡々と並べ立てられていく惨状が恐るべき凌辱の果てに生まれた、ということくらい聞けば分かるし、まだ年若い少女に到底聞かせられる内容でないこともすぐに理解できた。かくいう己とて聞いて気持ちの良いことではない。故の諫言である。

 中尉も言い過ぎたとは思ったようだ。ぺらぺらと滑らかな口を一旦閉じ、大儀そうに咳払いを一つして、改めて語り始める。


「もう少し簡潔に述べましょう。直接の死因は薬物の大量摂取による中毒死でした。ですがね、私達は今の今まで、その女性を死に至らしめた薬物の存在を知らなかったんです」

「何でェッ!!」

「その女性が初めて、此処から脱走に成功したんですから。そこから身元を特定するのに半日、生前の足取りを追って住宅地内の散発的な失踪事件に行き当たるのに半日、失踪者全員の足取りを追うのに一日、此処を探し当てるのに半日。それから、突入計画を立てるのに半日……我々は最速で動いたつもりです」

「このっ――無能ッ、あんた達は無能よッ!」


 めちゃくちゃに叫び散らして、少女は手にした拳銃の引き金を我武者羅に引いた。

 半ば反射的に、ギンコが二人を庇い前に出る。しかし、発射された銃弾のいずれも、あらぬ方へ吹っ飛んでは鉄骨にめり込み、あるいは弾かれ、一発も当たることなく虚空を裂くばかりであった。

 自動拳銃に残った十二発全てを使いきり、それでも尚狂乱し引き金を引く少女を、中尉は一瞥。片目だけで照準を合わせ、勘で調整を加えたかと思うと、躊躇なく発砲する。

 耳元で掻き鳴らされる激しい発砲音。鼓膜が破れんばかりに震えて限界を表明するも、エメラルド色の双眸は揺らぎ一つ見せない。狙い過たず少女の握る銃に当たった結果と、弾切れの得物を取り落としてしまった少女の唖然とした表情を、静かに見上げるばかりだ。


「いくらでも罵ってもらって結構。公安が度重なる他の事件への処理で忙殺されていたことは事実ですし、日々上がってくる報告の不自然さに気付けなかった我々の体制の甘さも事実。それらの為に、強いることのなかった犠牲が強いられたことも事実。――なので、罪滅ぼしをさせてくれませんか」

「無理よっ……! できるわけない、助かるわけない!」

「出来ます。断言します」

「どうして!」

「そういう存在だからです。人と人ならざる者が手を取りあえる世界を作り、その永劫平和たらんことを――掲げられた理念の為になら、我々は、私は、どんな手でも使ってみせます。それが出来るだけの権威と個人の力を、我々は持っています」


 不気味なほど説得力を帯びた響きだった。

 少女は最早反論の言葉すら紡げなくなり、あえなく黙り込む。完全に無力化したのを見計らって、烏月は未だ前に立つギンコの背を、どこか宥めるように見上げた。


「伍長、あの子に抵抗の意志はありません。威嚇しないでくださいナ」

「ですが……」

「二メートル近い巨漢に凄まれた女の子の気持ちですよ。可哀想でしょう? 私だって伍長に睨まれると怖いんです。私には対抗手段がありますが、それもない女の子がどれだけ怖いことか」


 怖がっている素振りなど見せたこともないくせに、と。そんな野暮ったいことは言わず、ギンコは失礼しましたと一礼。怒らせていた肩を落とし、睨んでいた少女から視線を外す。同時、逆さまに天井からぶら下がっていた身が天井裏に引っ込んだ。

バタンガタンゴトンと騒々しく何かをひっくり返す音が少し。やがて、少女の代わりに地面まで下りてきたのは、シーツだか衣服だかを細く引き裂き、繋ぎ合わせて作ったロープが一本。簡易な縄梯子であった。どうやらロープ術に覚えのあるものが混じっていたようで、結び目は水で濡らして固く締め上げ、長い長い布紐の途中には輪結びによる足掛かりもある。即席の救助ロープにしては良い出来だ。

 余計なことは言わず、中尉は微笑を湛えたまま。少女がいつまで経っても顔を出さぬことをはかって、努めて明るい声を上げる。


「自力で降りられない人がいるんですね?」

「そ、う。そうなの。あの、ちょっと前から、えっと――」

「あー無理しなくて良いですよ。此方から様子を見にゆきます。ってことで、落ちたら受け止めて下さいね~」

「えっあっうわっ! 中尉、待って下さい!?」


 兵は拙速を尊ぶべし。目方を減らすべく重い装備類を全て外し、上着を脱ぎ、その中に吊っていた予備の拳銃もホルスターごと取り、それら諸々をまとめてスペンサーに放り投げた。突然大荷物を投げられた軍曹は大慌てに慌てて受け取り、そしてするするとロープを昇る上官が丸腰なことに気付いて、咄嗟に声を張り上げ引き留める。ギンコの方も不味さに気付いたようで、烏月の着ているスラックスの裾を引っ掴んだ。

 声だけなら無視を決め込んでも良かったが、物理的に留められると流石に抵抗できない。大人しくその場でロープを保持、しっかと握って止まった中尉は、やや不満そうな視線を目下の隊員に飛ばした。


「大丈夫ですってば。敵性存在は確認できませんでした」

「しかし、その、流石に護身の手段を全て手放すのは――」

「で、す、か、ら。無力な人の前に武装した見たこともない大人が立ったら、もうそれだけで怖いんですよ。向こうがか弱いんだったらこっちもか弱い研究員の身一つで行かなきゃ、さっきの発言が丸ごとウソになっちゃうでしょ?」


 やけにすらすらと返されたが、果たしてこれは正論なのか暴論なのか。元々の目方が大きなギンコには分かりかねる。考えこんで指の力が緩むと、最早烏月を止められるものは存在しない。あっという間に伍長の制動圏内からも離脱し、天井裏まで潜り込んだ中尉は、薄暗く狭い中に十の人影を見た。

 一人は先程の少女。男物のシャツをワンピースのように着て腕だけまくり、大人物のジーンズの裾を切り詰め布の端材をベルトの代わりにして腰を留めている。似たような恰好をした少年少女が他に五人いた。いずれも薄汚れているが、元気はありそうだ。中尉が人懐っこく笑いかけると戸惑いがちに笑い返してくる。

 その少女に介抱されているのは一人の痩せ細った男。黒いシャツとスラックスだけを着ている。右の手の甲には蛍光塗料で何かの数字と紋章のペイント。此方は衰弱していて自分で立つのも難しそうだ。同じような有様の男女がこれまた三人。下ろすのは難儀しそうであるが、幸い骨格や内臓はまだ健常そうだ。最悪投げ落として伍長に回収してもらえばいいだろう。

 そして残る一人は、白衣を着た、パンキッシュな緑髪とメイクの女性。耳は勿論鼻や唇にもピアスを光らせ、隈の浮いた右眼に掛けた片眼鏡の奥には獰猛な光を宿した碧眼。片膝を立ててもう片方は胡坐を掻き、火の点いていない煙草を片手に、中尉を静かに観察している。元気そうで何よりである。


「あ、あの……動けない人、いっぱい居るの」

「大丈夫ですよー、心配しなくても動けない人は私が何とかして下ろします。動ける人は先に出て、下のいかついお兄さんがたの指示に従ってください」

「ほんと?」

「勿論ですとも! さー降りた降りた、でないとお姉さんの仕事にお付き合いさせちゃうぞ~!」


 手をわきわきと開閉しながら言えば、きゃぁっと黄色い歓声が複数。我先とばかりに子供たちがロープを滑り降りた。誰も途中にある足掛けを使いもせず、猿か何かのようにすいすいと地上へ降下してゆく。流石の身軽さに口笛を吹きつつ、渋っていたかの少女もロープの方へ向かわせて、エメラルドグリーンの双眸がまっすぐに見つめるのは、未だ動こうとしない白衣の女。

 浮かべていた笑顔がふっと消える。いつも上げている口角を下げるだけで、空気は得体の知れない緊張感に包まれた。


明星研みょうじょうけんの方ですね?」

「…………」

「沈黙は肯定との前提で話を進めます。此処にいるのは被験者ですか? それとも廃棄済みのゴミですか? それとも、実験の成功者ですか」

「…………」

「まあ入り混じってるんでしょうね。私見ですが、あの子達は被験者、動けない大人は失敗、そして動いている大人の貴方と、それからさっき発砲してきたあの女の子は成功したんでしょう。どんな実験なのかは知りませんが、成功して我々――いや、私に襲い掛からない以上は、さほど害のあるものではないとお見受けします」

「……創命研そうめいけんの、烏月」


 女が初めて声を上げた。煙草の灰と煙によってしわがれた低い声だった。

 烏月は消していた笑みでもう一度口の端を釣り上げる。それは少し自嘲気味に。


「元同僚をアンファンで見つけるのは貴方が二人目です。一人は死にましたけど」

「優秀な女……生命科学部門の副主任が、何故軍属に?」

「用事のついでが終わらないだけですよ。逆に貴方はどうして?」

「主任がいるからだ」

「――――」


 今度は烏月が絶句する番だった。

 思わず眉根を寄せた彼女に、女は僅かばかり顔の険を緩める。


「今の主任を主任とは言い難いが。気を付けろよ天才、あれは嫉妬の獣リヴァイアサンだ」

嫉妬狂いの龍ダイタリアサンに化けてないならやりようはあるでしょう。それで、貴方は此処に残りますか、それとも我々に従ってくれますか」

「……ある観念子ミームの作成と接種の実験だった」


 烏月の問いには答えず、女はそれだけを呻くように絞り出した。

 中尉は無言。衰弱した男の容態を診つつも、黙って耳を傾ける。此処では肯定も否定も必要ではない。彼女が零すのはただの独り言で、中尉は要救助者の救護中にそれを偶然耳にした。たったそれだけのことだ。そう偽装しなくてはならない。

 女は煙草に火を付けた。強いメントールと酩酊効果のある危険な草ヤクの香りは、前職の職場の屋上で、幾度か嗅いだことのあるものだった。


「作成したのは私で、最初に接種したのも私だ。作成物がひとまず私で有効であると分かった後、通常の人体実験を行った。恒常的な薬物やミーム接種を行っていない者にも適用できなければ、このミームの意味がない」

「…………」

「あの麻薬ドラッグは、治療――いや、処分時の安楽措置の一種として投与したものだ。掻き集めた被験者は接種に耐えきれなかった。被験者の六割は即死し、残った者の半数に暴力性と性欲の増強が見られ、残る半数はそこの男のようにただ衰弱した。だが……」


 女の空色の眼が下を見た。ロープの垂れ下がる先では、下りた子供たちが軍曹と伍長を取り囲んでいる。野郎二人は子供に翻弄されつつも、何とか上手くやっているようだ。しばらくは彼等に任せておいても心配あるまい。

 釣られて視線を下ろしていた中尉が、再び女の憔悴した顔を見つめる。無言で先を促すその眼光に、彼女は怯まず応えた。


「あの子だけは成功した。恐らく烏月、お前でも成功するだろう」

「要りません」

「だろうな。お前の底は昔から知れない」


 笑みが何処か自嘲の色を帯びていたのは、何故だろうか。

 中尉は敢えてその疑問に答えを出さず、黙々とミーム接種に失敗したと言う民間人を検める。最初に視診した通り、そして女が口にした通り、ひどい栄養失調だがそれ以外の異状は見受けられない。問題は此処から動かせるかどうかだ。

 少女が介抱していた男性の頭へ回り込み、脇の下へ手を入れて抱え上げる。成人男性だと言うのに恐ろしく軽い。これならば、と中尉は男を背負うと、何のためらいもなくスラックスのベルトを外して、男ごと自分の胴を縛り上げた。

 男がずり落ちないよう重心を変えながら、慎重にロープを下りる。とんでもない姿で降下してくる姿、何か得体の知れない生命体を見るような視線が二つ投げ付けられたが、気にしている暇はない。わっと一斉に集まってくる子供たちは笑顔でいなし、男を少し離れた床へ横たえて、中尉は次なる者の救助へ向かう。

 ひたすら三往復。計四人の男女を地上へ下ろし、まだ他にいないか確かめてくる、と嘘をついて、中尉は再びロープを上がった。女は変わらずそこに片膝を立てていて、辺りには濃い煙草と麻薬の臭いが沈滞している。


「貴方は見なかったことにしておきます。早く離脱してください」

「何故? 一連の事件の発端だぞ」

「『断薬・減薬時の精神症状の軽減・治癒に際する対抗ミーム接種の効果』。貴方の論文は毎度興味深く拝読しています。……そう言えば、最近人間地区の一角で急に精神病患者が増えたらしいですね?」


 今度は中尉が質問を無視する番だ。

 僅かに目を見開いた女に、烏月はどこか仄暗く口角を釣り上げて応対する。


「貴方が私や私以外の方をどう思うかはさておき、貴方を研究から引き離すことは、我々にとっても非常に良くない結果をもたらすでしょう。ならば私は、貴方をここで捕らえようとは思いません。

「――お見通し、なんだな」


 何も言わない。ただ笑う。

 何時、どうやって、何からヒントを得て回答に辿り着くのか。言葉にせず、誰にも読めないからこそ、烏月白は紙一重で天才である。


「では」


 細かいことは何も言わずに、中尉は踵を返し。


「中尉! 何かありましたか!?」


 下からスペンサーの心配げな声が掛かったのは、天井裏を脱出した直後だった。

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