リペイント・イット・ブラック
もう、なにも感じない。
おれの官能はあの地下室のときと同じように拡散していた。
世界は――光の、星空の、息遣いの、あらゆる複写をやめていた。
たぶん祖母の家に来た最初の日から、世界はもう姉さんによって誤魔化されていたのだろう。この五メートル四方の闇の矩形におれの記憶と願望を投影して、リアリティをかたちづくっていた――つまりこの空間は姉さんのものだ。
あの日々はやけに鮮明だったがそれはサイケデリックなネオンサインや一面の向日葵畑みたいなただの演出であって。
ねえさんの仮面を取った、面取り様の腹の中で――姉さんと過ごした日々はぜんぶ、つくりものと言うわけだ。
彼女は葬式の日からずっとここに潜み、もう一度、妄想の仮面をおれが捧げに来るのを待っていた。いや、そもそも「ねえさんのパラノイアをつくる」という考えじたい面取り様から植え付けられたものなのだ。
姉さんの言うことをもう一度考えてみるとするならば、集合的無意識がそれ自体を元型とし『個人』としての人格のパーツをかたちづくっていくのに対し──『個人』の意識が寄り集まって『面取り様』となっている、少なくとも彼女の話ではそう言うことだ。
人間の意思は、そこまで強いものなのだろうか。
「『死にたくない』を舐めるなよう、このバカ弟」
だって――おれたちの想いにどんな意味があるんだ。
なにを現実に及ぼせるって言うんだ。
家族には認められることもなかったし、結局ねえさんのほうは死んじゃったし。
「それだけがあんたたちのホントに知ってることじゃないよ。頭でっかちだなあ。聞きたまえ、『死にたくない』ってのはつまり未練があるってことなんだよ。本能なんていう野蛮なメカニズムじゃない。だってあれは『死ねない』だもん。なにか残さなければいけないもの、なにか欠けているもの、それらのためにあたしたちは『死にたくない』と思うわけ」
その『死にたくない』思いを引っこ抜けば、人は死ぬと?
「そ。意志は本能をぴょーんと越える。だから自殺なんてものが生まれる」
祖母が、死ぬ前の祖父はまるで幽霊のようだったと語っていたのを思い出した。ねえさんが教えてくれたのだ。それもきっと──姉さんがやったのだろう。存在意義を夢の中で満たして、生きるための理由を完全に瓦解させる。
姉さんの真っ黒い眼は多層的な闇の拡がりを持っていた。誰かの瞳が、虚空を目指し二度と動かないたぐいの瞳が何千と塗り込められ透明な化石となっているようにも感じた。面取り様は一体、いくつの人生を呑み込んできたのだろう。
そう思うとふいに、やりきれなくなった。
「そんな悲しい顔しないでよ。あんたが来るまであたしはただの現象だった。遺した(遺されゆく)ものを求める感情が寄り集まったんなら――未練を晴らす為に、ばーっていっせいに動き回るのは当たり前だって思うでしょ」
”自殺させた”と露悪的に語るのは、それはすなわち面取り様がうちの家に使われていたと──そう口にすることに他ならない。
面取り様はだれかの生きる意義を求めてさまよう。どんな風にも化ける面、化面によって意義を取られた人間は──トランプカードで作った塔の最底の一枚を抜くように──どれだけその上に記憶と経験を積み重ねたとしても、あっけなく人間が崩れ去る。
表面上は取り繕うだろう、人格の塔が完膚なきまでに瓦解するその時までは。
それでも、最後には加わってしまうのだ。
あの暗闇の一滴に。
「そうなっちゃうね。あんた、昔ッからこう言うことはホントに頭まわるのね――うん、あたしはひどいことをしたよ。それもほんとうにたくさん」
おれは祖母の家で営まれたねえさんの葬式にたくさんの人が来ていたのを思い出した。あれはねえさんではなく、ねえさんを産んだ家のほうに用向きがあって来たのではないか――表向きの接触が葬式ならば怪しむものはない。
例えそれが馬鹿げた、殺しの頼みであっても。
そう考えると祖母の家が農家として栄えたというのも空々しく響く。
地下室に眠る面取り様の力を使ってことを進めたとすると、事実に完全に符合してしまうのだ。
「そう。もっと言えば、お婆ちゃんの家の地下室に面取り様があるんじゃなくて――面取り様があるところに家を建てたってほうが適切。あたしは解剖されて、検証されて、そしてある程度解明されて、おしまいにはただの道具になっちゃったの。海外だと『
だとすると、おれが祖母の家に送られたのも。
祖母が持ってきた酒の口がすこし空いていたのも。
震えがこぼれてきた。なんだ、面取り様よりうちの家族のほうがよっぽどおぞましいじゃないか。いや、そもそも面取り様を生み出したのは人間の心なのだからそれも道理なのだろうか。だって、おれは――。
「だめ。それ以上は言って欲しくない。ニセモノだったとしてもあたしはあんたのお姉ちゃんなんだから。だから、だめ」
顔をあげた。
声の調子とは乖離して、姉さんはまた泣きそうだった。
はじめて彼女の貌をちゃんとみた気がする。おれにあんまり似ていない。愛嬌があって、笑うとくしゃりと崩れる。なんだか綺麗に過ぎておれは参ってしまった。
「言ったらあんたのこと、引っぱたくよ」
「姉さんは自分が贋物だって気付いてるんでしょ?」
「まぁね。あたしはあんたの妄想を被ったただの現象。どう頑張っても、あんたの好きだったほんとうのねえさんにはなれない」
「じゃあどうしてそんな顔するのさ。いったい何がしたいのさ」
「あんた――」
そんなこともわかんないの、と――姉さんは闇に溶けゆくおれを抱き留めた。
光は亡い。命はない。
「あんたが、好きだからに決まってるでしょ」
その中で
「ここはあたしの世界。記憶だって消してあげる。あんたの望む『夏』をいくらでも創ってあげる。どうか行かないで。あんな情のない人たちのところにあんたを、あたしにいのちをくれた人を帰したくない」
おれはすぐにでもねえさんの言うことに従いたくなってしまった。なかなかこんな風に言ってくれる人間はいるものじゃない。それこそ家族でもないかぎり。
「でもそれはおれのパラノイアだ。まともじゃない。第一おれにそうするよう仕向けたのは『面取り様』じゃないのか?」
「言ったでしょ、あたしは現象。人の存在理由を取っ払って死に追い込むだけの道具。例えそうだとしても、あたしたちが出会ったことには意味がないなんて言わせない──あんたがあたしを好きでいてくれたから、あたしの殻を作ってくれたから、一緒に夏を過ごすことが出来たの――だからお願い」
ずっと、ここにいて。
+
おれは姉さんが、そしてねえさんがくれた色々なものについて考えてみる。
手を繋いで帰るだけでしあわせだった。街ゆく人々に恋人と間違われるのも面映ゆかった。家では大学の課題にうなるねえさんの横顔をつついた。おれは手の甲をシャーペンで刺された。家族にねえさんとのことが明るみに出て、ねえさんと留学の名目で引き離されたことを思い出した。葬式に来た親族は、愚かな近親の恋におぼれた彼女の死についてどれほど知的かつユーモラスに貶められるかを競っていた。
だから、また姉さんに会えたとき――おれはもう死んでも構わなかった。
姉さんとねえさんは、おれにとって等しい大きさの意味を持っていた。
もう一度、姉さんがくれた色々なものについて考えてみる。
風の音がきこえる。
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