リアリティ・2

 平穏でつつがない夏休みの日々を、おれと姉さんはなかなか愉快に過ごした。昔一緒に訪ねた駄菓子屋でラムネを飲み、土蔵で肝試しを行い、――(からだは重ねなかったが)大抵の不道徳とされるようなこともやった。

 姉さんのからだは大きくすらりとしていて、抱きしめられるとちょうどおれがすっぽりおさまってしまう。流れ着いた旅人が椰子に日々をつけるように、彼女の心臓の拍動はたしかな現実を刻んでいる。


          +


 ある夜、姉さんとおれは星を見に行くことにした。

 おれが持って来たSF小説に――宇宙と繋がる窓を買った少年の話があったのを思い出したのだ。祖母の家の二階には埃まみれの天体望遠鏡が死蔵されていて、あたりに積まれた本をぶちまけながらやっとこさ引っ張り出した。昔も何度かねえさんと同じことをしたから使い方はわかっていた。


「ねえ、楽しいね」

 姉さんがスポットまでの道行きに、くしゃりと笑う。

 おれは望遠鏡を担いでいた。見上げるとまた、紅い線が宙天にゆっくりと刻まれていた。あれはたぶんボーイング787だ。

「楽しいかな。大学生にもなって弟と星見に行ってるんだぜ」

「あんたとだから、楽しんでるんだよ」

 おれたちはしばらく満天を眺めながら歩いた。デネブもアルタイルもベガも見付からなかったけれど、それでもところどころの群青の夜空の紗、そこに散らばる砂の一粒みたいな星を辿ることはかなう。

 視線を落とすと、小高い丘が薄闇を割り裂いて現れてくる。

「命短し恋せよ乙女、日々を摘carpe diemめってやつ。どうせ人間なんてすぐ死んじゃうんだからさ、

 おれには姉さんが星空を背負っているように見えた。

 日々を摘むということ――明日を信じずに、その日の星を眺めようとすること。

「姉さんが言うと説得力が違うよね。留年してるもんな」

 おれは物悲しくなって、なんとなく茶化してしまった。

「意地悪だなあ。ほら、行こ」

 姉さんは細い手を差し伸べる。しっとりと汗ばみ、血が通っていて暖かかった。

「海外のボーイ・ミーツ・ガールだとさぁ、ちょうどあそこの丘の上で『ぼくたちは最高のキスをした』とか描かれるんだよね」

 おれは黙ってボーイング787へと目を逸らした。望遠鏡を担ぐ手が震えている。


 丘の上でおれが望遠鏡を据え付けるあいだ、姉さんは荷物からてきぱきとレジャーシートを敷き、その上に梅ジュースと焼酎を置いて、おれがレンズの角度を調整し終えた時には蚊取り線香と二人ぶんのグラスを取り出していた。

「おいで。呑もう」

 おれは隣に腰を降ろし酒を受け取る。

「えー、それじゃ、乾杯」

「カンパイ」

 姉さんに。そう心のなかで付け加えて、グラスをあおった。

 この甘ったるい酒盛りはおれが望めばいつまでも続くだろう。たぶん、

「姉さん、思い出したことがあるんだけど」

「どうしたの。あたしを喜ばせる台詞じゃなかったら承知しないぜ」

 彼女はにかりと笑った。

 おれはその唇の柔らかさをおぼえている。

 そこから紡がれる言葉の優しさをおぼえている。

 ねえさんと過ごした夏休み、その全てを。

 おれはたまらなくなった。


 だっておれがこの手でそれらを壊すのだ。

 姉さんが日々を摘めなんて言わなければ──こんなことをする必要なんて全くなかった。

 それでも。

 もう、行かないと。


「ねえさんは二年前に事故で死んだ」


 姉さんの貌から、生がすとんと抜け落ちた。

 もはやおれの知っている誰の顔でもなかった。

 瞳は洞となって、あの地下室の放埒でけじめのない暗闇に満たされている。干乾びた蛙の黒目と同じ。

 瞬きも、感情のうねりも、同一性すらも剥ぎ取られた。


 すべて失われた。


 姉さんはデスマスクだった。ねえさんよりもねえさんらしい、現実を越えた仮面リアリティ

 おれが作った、リアリティ。




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