リアリティ・1
「ね、起きろって。もう朝ごはん」
涼やかな声に、目が空いた。
姉さんは枕元に座り込んで、仰向けのおれを見下ろしている――夢想と現実が攪拌されているような心持ちだった。
「地下室は?」
姉さんはちょうどおれの布団を引き剥がそうとしているところだったが、それを聞いてちょっと肩を竦めた。なかなかさまになっていた。
「なに、夢? それとも大学の友達にやばいクスリでも売りつけられたとか?」
「そんなんじゃないって。いや、解んないならいいんだけどさ」
「ふうん。ま、何でもいいけどご飯冷めちゃわないあいだに来なよね」
ねえさんはそれだけ残して、和室のドアを開け放ち出て行った。
リビングとほど近いこの部屋には、朝食なんだろうベーコンとコーヒーのにおいが漂ってくる。まだ夏休みはたっぷりあるのだと思うと、不思議と目が冴えた。
+
三人で昼食を食べたあと、祖母は親戚の用事だとかなんとかで出払ってしまった。昔からそう言うことは多かったが、おれたちが来ている時くらいゆっくりしていけばいいのにと思う。
結局家に残されたおれと姉さんはUNOをぶっ続けで一時間くらいプレイしていた。
「姉さんなんでもドローフォーで返してくるの止めてくれないかな」
「仕方ないでしょ二人でやってるんだから。どっちもドローツーなりドローフォーなり持ってる確率高くなるに決まってるじゃない」
「だからってドロー系の札で返されると永遠に終わらないんだよ。そもそも二人でUNOやろうって言い出したのそっちじゃないか」
「いーのよ。あんたも私も夏休みは死ぬほどあるんでしょ、一日くらいカードゲームやりまくったって誰も文句言いやしない」
とはいえ流石にこれだけじゃ飽きたねと――姉さんはにっかり笑う。
次は、何で遊ぼうか。
祖母の家にある旧いモノポリーでもいいし、将棋を打つのだって構わない。
なんだって構わない。
おれは卓におかれた二つの梅ジュースのコップ、その片割れを口につけた。
いつもより色濃く、蜂蜜の甘さが梅の清冽さに絡み付く。
「相変わらず美味いな、これ」
「うん――でもさ」
あんたのと一緒に飲むほうが、もっと美味しいよ。
姉さんの瞳には蜂蜜よりも金色に濁った
持っていたカードを捨て、こちらへ這い寄ってきた。
うっとりとしていた。荒い息がどこか他人事のように感じる。
山札が彼女の体重でばらけて、色彩の山を形作る。
赤。
緑。
青。
黄。
――黒。
こんな色の暗闇を、ついこの間視た気がする。
姉さんが顔を被せてきた。太ももが握り締められるのを感じながら、おれは目を閉じた。姉さんの膝のまるみが、おれの腕に押し付けられて、ちょうど夏の猫がくちづけているような形になった。
しとりとした唇は梅の香気にまぶされていて甘く、歯は少しだけ粘り気に濡れていて、それを舌でたどると今度は姉さんのほうがおれのべろをくすぐってくる。何だかふがいなくて目を開けられなかった。
しばらくウミウシの交接みたいに舌を絡ませあった後、不意に姉さんが顔を離す。
目が
官能は焼き付けられていて、肉のざわめきが――口もと、鎖骨、汗の溜まった耳の柔らかい骨。そのあらゆるくぼみから
「すき」
姉さんは珍しく泣きそうな貌をしていた。
「あんたのことが、すき――」
それ以上聞きたくなかった。たまらなくなった。
おれは姉さんをもう一度きつく抱き寄せ、唇を押し当てた。
たぶん、おれが人生で触れた中でいちばん柔らかくきれいなものだった。
しばらくそうして抱き合って、お互いの服が汗でべったりと癒合した頃には、部屋には夏の夕立みたいな二人のにおいが立ちこめていた。
祖母はまだ帰らない。
開け放ちのドアから框が見える。
おれのスニーカーとねえさんの赤いサンダルは、揃って二つ置かれている。
+
祖母は家の集まりの方で夕飯を食べてきたということで――帰ってきた途端さっさと風呂/歯磨き/洗い物を終えて寝てしまったので、手持ち無沙汰になったおれたちはねえさんが持ってきたという花火をやることにして。
家の裏の縁側。
玉砂利をしゃくしゃくと踏んで、ぴー、ぴ、ぴー、ぴー、と鳴く名前も知らない虫のやかましさを感じて、おれは水をたくさん溜めたバケツを持って歩く。
「いいね。夏のカリカチュアってかんじ。暑いし、ネット遅いし、蚊多いし」
「やめろよそんな夢のないこと言うの」
雑草がない適当な所に座り込んで、新品のチャッカマンを開けた。
「ほら」
姉さんは線香花火を取り出しておれに一房寄越す。
「最初にコレってのも中々乙なもんだと思うのよね、私」
「なんだそりゃ。風情ないなあ」
「気が緩んだときの線香花火は危ないんだよ。ほら、昔あんたがあのあっつい火の玉、足の上に落としちゃったことあったじゃない」
「あったっけかそんなこと」
「あったよ、忘れっぽいなあ。ゴムサンダルも突き
痛そうだったなあ、あれ――と、姉さんは線香花火のひょろりとしたひもに火を点けていった。とろりとした夜火が、花火の芯を舐めていく。
ぱぱ、ぱ、ぱち、と。
やわらかな光で編まれた金色の綿くずが暗闇に泡立ち始め、橙色の夏のかたまりは
おれはねえさんのことを──結局夏を迎えることが出来なかった彼女のことを想った。
群青色の夜に、紅い軌跡を描く飛行機がみえる。
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