ブラム・シューズ
夜になった。
祖母が夕飯のあとに酒を出してくれたので(我慢できなかったのか瓶は既にふたが空いていた)三人でちびちびとやっていたが、持だしっぺが歳のせいか一時間もしない内に潰れてしまい、
「それじゃあまた明日、お休み」
とだけ
調子が少し悪そうだったし体がだいぶ心配になってくるが、言葉遣いはしっかりとしていたのでたぶん問題はないだろう。
結局おれはねえさんとさしで酒盛りをしていた。テレビでは芸能人たちが海外タレントの整った氷のような顔立ちに感嘆の声をあげている。
ねえさんは梅酒の氷をからりと転がした。
「ね、なんで皆はアメリカが好きなんだろ」
「このタレントさんイギリス出身でしょ?」
「同じことだよ。何で私たちは外国産が好きなんだろう。ウーマン・リブ、スターバックス、資本主義、メメント・モリ」
「……それと、プラム・ジュース」
おれはねえさんのグラスを小突いた。
酒がたっぷりと入ったそれは、彼女のほっそりとした手に包み込まれて汗をかいている。
「梅をプラムって訳すのは誤用だって。海外では充分umeで通じるよ。昔言わなかったっけ?」
そんなこと教えてもらっただろうか──いや、ねえさんは海外留学をしていた時期があったから、多分そうなんだろう。
「絶対言った。忘れっぽいもん、あんた」
「うーん参ったな」
アルコールのせいか頭がぼうっとする。体質のせいか酒には慣れないし、ねえさんの顔もまるで幻覚のようにぼやけてきていた。
「ねぇ。ねぇ、聞いてる」
「なに、ねえさん」
「だから全部誤用なんだよぉ。いい加減気付けってぇこのバカ弟っ」
彼女はおれよりひどく、へべれけに酔っていて、息は梅の悪甘いにおいがする。
夜は更け続け、テレビの番組はいつしかニュースに切り替わっていた。人死に、台風、台風による人死に。お次は二年前の飛行機事故のこと。なんだっておれは──初めての大学の夏休みにこれほど気の滅入るようなニュースを見ながら、実の姉と世界で三番目くらいに不毛な酒盛りをしているのだろうか。
おれだって大学生になったのだ。
「明日、サークルのレジュメを仕上げないと」
「レジュメ? 何研究してんのあんた」
「姉弟間の恋愛について」
「ばぁか──文学部ってしじゅう暇してるのかと思ってたんだけど」
「馬鹿言うない、これでも一応色々賞とか貰ってるんだぜ。まぁ、もうそろそろ寝るよ。ねえさんも寝るでしょ?」
「えー、暇。あんたと違ってやることないし」
おれはくだを巻き続けるねえさんを無視し、グラスをひっ掴んで流し場で適当に洗って、それから和室に引き上げていった。
+
夢を見ているらしい――上手く体が動かないし頭ががんがんする。
電車に乗る時みたいな纏まらない揺れ。窓、風景。連想が波うつ。
黒煙をあげて海に落ちてゆく飛行機が見える。
地面。痩せこけた病人の肌のよう。
汐と血と鉄のにおいがする。
自分が今いるここはどこか
水を掻く感覚が、ノイズみたいにぶつと切れる。
冷たい土を抱く感触も今は虚ろだ。
どろろろろと言う水に沈む音が遠去かる。
薄暗い地下室にはしんと音が
ちがう。
おれはこの場所を知っている。知っているのだ。
+
目が
枕元の腕時計を見ようとしたら腕がうまく動かせないのに気付いた。立ち上がろうとしたら足も自由が効かない。
体をよじると、結束バンドのようなもので後ろ手に――両腕と両足の親指から縛られているらしかった。本当になにも見えないほどに暗いのだ。きつく締め付けられており芋虫のように這ってしか進めない。
空気は乾いていて、冷涼で、どこかに通じているらしく時折ひゅるるるると言う風の音が交じっている。辺りは全くの暗闇で一筋の光も見えず、ただ粘度の高い黒に視界は覆われている。床から土のにおいもうっすらと香る。
おれはわけがわからないまま前に──もしくは暗いので前と思われる方向に──惨めったらしくくねって進んだ。
冗談ではないと思った。
そうとも、全く冗談ではない。
頭は酒のせいかいつも以上に痛みそして熱く、脳みその中に心臓がぽこんと出来てやかましく跳ね回っているみたいだった――明らかに呑み過ぎか、寝過ぎか、あるいは呑み過ぎかつ寝過ぎの兆候をきたしている。
聞きたいことはこの上ないほどたくさんあったが、それでもおれは――ねえさんのことについて考えながら、尺取虫のような行進を続ける。
時間の感覚は自分の中にまだはっきりと残っていた。
這いずり回って――(と言うか途中で跳ね回ったりもして)調べた所、地下室はだいたい五メートル四方くらいで、冷たい壁に囲まれていて、扉も手すりもなかった。世界は完結しており、そのことはおれをひどく狼狽させた。
おれはまた、ねえさんのことについて考えてみる。どうして彼女はここにいないんだろう。どうしておれは独りぼっちなんだろう。
寝転がり、放埓でけじめのない暗闇をながめる。
もう一度だけ目を凝らしてみたが、闇の洞の中には何のしるしも読み取れない。
たた自分が「いる」という感触のみがとうに失われており、なんとなく俯瞰的に――拡散していくようにも感じられた。おれの存在はコーヒーに溶けゆく一粒の砂糖、汀に洗われる貝殻の薄蒼い欠片、梅のジュースに靄を落とす氷、その全てだった。
この気持ちはきっとわからない。
だれにもわからない。
なにごとかを呟いてみる。
「」
「」
「」
「」「」「」「」「」「」「」「」
「」
「」
「」 「」
「」
「」「」「」
「」
「」
「」
「」
「」 「」「」「」
()
「」 「」
「」
「」
「」
なにも聞こえなかった。静寂の向こうに吸い込まれていくばかりだった。
とろろろろと言う風の音だけがいまだ暗闇に流れている――それはひょっとしたら風の音じゃないのかもしれない。
この狭い世界に息づく、敷衍された不明そのもののこえ。
そして、土のにおい。これも土なんかじゃない。これじゃあまるで――。
その事実に気付いた途端、かっと脳髄が焼けた。
恐怖にわななき、のたうちまわり、ヒステリックに泣き叫びたくなった。
それでもおれがどんなに叫んだところで、意味をなさないのだ。
だってここはたぶん。
「」
最後にもう一度、名前を呼んでみた。
なにか、
なにか、
なにか。
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