プラム・ジュース
「……もちろん、泊まっていくのだよね?」
おれがそうだよと言うと祖母は少し考え込む素振りを見せてから、後で一緒に夕飯の材料を買いに行こうと言ってくれた。腹が減っていたおれとねえさんは一も二もなく頷いた。
出掛ける前に荷解きをしようと言うことで、おれたちは廊下を渡り和室にトランクをぶち込んだ。
ろーまーんすひとーつーだーけでぇーと歌うねえさんの調子はずれの声が十畳の部屋に空しく響く。
窓の外からは八月の青空が――ばかみたいに大きい刷毛雲が見えた。昔ここに来たときは入道雲が見えるとか何とか心の中で呟いていたなぁなんてことをふと思い出しながら、持ってきた本を何冊か畳に置いた。
「あんた、本なんか持ってきたんだ」
「ああ、これか」
おれは右手にル=グウィンの『闇の左手』を。
左手にロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』を持ちねえさんに見せた。
するとねえさんが何をとち狂ったのか本を引ったくろうとおれに飛びかかってきた。
見られないように身を引くも、置いてあったボストンバッグにおれの足がひっかかり結果揃って無様に転倒する。畳のい草の香りだけがした。
「暇つぶしには……なるかなって」
「帰れる予定も帰る事情もないのに? 甘えてんじゃないわよ」
「うるさいなぁ。ねえさんにはもう関係ないだろ」
ふたりでうつ伏せに、言葉をだらだらと交わす。
「ともかく、もう少ししたら買い物にいくんだ。とっとと荷解き済ませないと」
「その前に梅ジュース飲んでこうよー。わたしもうつっかれた」
梅ジュースとは祖母の家ではお馴染みのドリンクで、読んで字の如く梅、蜂蜜、日本酒、その他諸々の材料をガラス瓶にこれでもかと詰め込み熟成した原液を炭酸水で割ったもので、暑気払いには最適の一品だが、原液のビンを土蔵から運んでくる必要がある。それはえらく重い。
幼い頃、ねえさんが二泊三日の帰省中に運んできたのをことごとく落としてからと言うものおれたちが中学に進学するまで土蔵に入る機会は与えられなかった。
「そうしたいのは山々だけど、ビン持ってくるのもジュースに割るのもおれだろ」
「たのむッッ、この通りだ、後生だ、命に代えてもッ」
「そんな切腹寸前の侍みたいな頼み方しないでよ。ねえさんの命なんて引き合いに出されても全く心揺さぶられないし、おれだって疲れてるの」
「ふぅん」
おれが突っぱねると、彼女は目を細めて、四つん這いの格好で。
まだうつ伏せに寝ているおれに亀の甲羅みたいにおぶさって、首筋に口付けてきた――と思う。
曖昧な言い方なのは、位置関係上、全てはおれの見えない所で進行しているからだ。
「ね、飲もうよ……二人で分けてさ。美味しいよ、絶対」
でもまぁ、いつものことなのだろう。おれはねえさんに敵わない。静岡の夏は暑い。さっぱりするのもきっと悪くはない。ごろりと立ち上がってねえさんを振り落とし、ぐげェなんてうめきを背中に梅ジュースの原液を取りに行った。
祖母の分の飲み物も一緒に作ってお茶の間で飲んだ。机は大きい掘り炬燵で、夏はカバーを外して足をぶらぶらと動かせるので割かし涼しい。
午前十一時頃に、祖母の運転で近所のスーパーに行く。ねえさんがおばあちゃん免許返納しなくてもいいのと煽ったが祖母は無言でアクセルを吹かした。前の座席に座っていたおれは突然の加速にダッシュボードへと望まない口づけをする羽目になった。
ねえさんは例の如くけらけらと笑っている。
もう一度、死んでしまえば良いのにと思った。
買い物帰り。後部座席には長ネギ、冷凍麺、椎茸、白だしが入った袋がある。
今日は多分美味いうどんだ。おれは横目で、車窓から流れる田んぼを見る。
一瞬だけだったが確かに蛙が干からびて死んでいるのが見えた。今は夏だから暑さに耐えかねて車道に出てきたところを轢かれたのだろう。
おかしな話だが、目の黒さまではっきりと見えた。
なおもあぜ道を車は走る。
祖母が、不意に口を開く。
「めんとりさまがまた来るだろうから、しいっかり戸締りしないといけないよ」
聞き慣れないが聞き覚えのある単語に、記憶が少しばかり疼く。
「めんとりさん……ああ、あの迷信か」
「面取り? 煮物でも作るの?」
「馬鹿にするでないよ。爺さんもそれで死んだんだから」
そう言って、祖母は口をつぐんだ。
おれたちは揃って顔を見合わせる。
(ね、お婆ちゃんやっぱどっかぼけてんじゃないのかなあ)
(多分ね。あんな滅茶苦茶な詐欺に掛かったあたりそろそろまずい気もする)
「なんか言ったかい」
「いや、なんにも」
「ふん。返事くらいは満足にしなよ」
と、言われても――実際おれたちは祖母のことが心配なのだ。
『めんとりさん』とはおれたちの家系にだけ伝わる伝承――らしい。
それだけだ。
深く知る気も起こらないし、知った所でどうにかなるとも思わなかった。
現代社会に生きるおれたちにとってはたちの悪い、インターネットでよく見かけるような家単位の都市伝説にしか聞こえない。
「だってさ、信じられないよ。『会いたい人が現れる』なんてさ」
家が見えてくる。祖母は変らず黙ったままで、ハンドルを握る手は力なく震えている。
「それでも、居るんだよ」
あまり良く解らなかった。どだいおれは二流大学の文学部なのだ、とても家の因縁なりを解き明かそうとする気にはなれない。
「馬鹿言わないでよね。お婆ちゃん、ホントにおかしいんじゃないの?」
「ここに来たんならあんたもいつか解る」
「ねえさん、言い過ぎ」
特段、うちの家系が拝み屋をやっているとか三流オカルト雑誌にすっぱ抜かれるほどの闇を抱えているとかそう言う話ではない。ただ、すこしばかり不気味な地下室と、すこしばかり悪趣味な口承があるだけの中流家庭だ(祖父母だけは商才があったようだが)。
車のフロントガラスからはまた、祖母の家が見え始めた。蝉がじいじいと鳴いている。
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