鎖骨、あまい

棚倉一縷

Peach flavor?

A

 苦くも甘い、この不合理な感情に恋という名前があると知ったのはいつだったのだろう。

「久しぶりですね。千春くん」

 地下鉄の階段を登ってきた彼が、一瞬目を見開いたのを私は見逃さなかった。

「うん、久しぶりだね」

「………、それだけですか?」

 わざと声を低めにして、首を五度左に傾ける。もちろん、上目づかいで目を合わせるのも忘れない。仰角二十度。背伸びしてキスをするにはちょうどいい高低差だ。

「それだけって?」

 まっすぐと私を見つめ返す千晴くん。

「いえ、期待した私がバカでした。行きましょう」

 私が差し伸ばした手を、見た後、その意味を計りかねるように私を見てくる。

「何?」

「今日は、千尋の代わりをしてくれるのでしょう?」

「君たち兄妹は、手を繋いで出かけるの?」

「そんな兄妹がいたら気持ち悪くて吐きます」

「じゃあ、これは何」

「千春くんに、千尋の代わりが務まるわけがないでしょう。せめてもの繕いとして、です」

「はあ。よく分からないけれど」

 戸惑いを隠さずに、私の手をゆっくりと握ってくる。紙細工でも掴むかのように優しい。少し骨張っていて、想像よりも大きかったその手を、私は遠慮なく握り返した。

「あらためて、行きましょうか」

 私たちは、川沿いに向かう人の流れに加わった。



B

 たくさんの人が同じ方向へ向かっていく。この街の人が皆集まったんじゃないかというほどだ。

「それにしても、」隣を歩く千晴ちゃんは、さっきから不機嫌そうだ。「突然すみませんね。千尋がわがまま言って」

 千尋が一緒に行ってくれるはずだったのに。と頰を膨らます。

「よっぽど、千尋のこと好きなんだね」

「ブラコンってばかにしてます?」

「いや」

 どうやら、今日は良くない日だ。王子の不在で、姫の機嫌は下り坂。雇われの騎士が、姫の機嫌を取ることは難しい。

 ふんっ、と鼻で軽くあしらって、僕のほうを見てくる。

「千尋より、千春くんの方が好きです」

「はいはい」

「本気ですよ」

 本気だそうだ。

「困ったなあ」

「何に困るんですか」

「確かに。何に困るんだろう」

「自分のことでしょう」

「皆んな、自分のことが分からないんだ」

 ふっと、小さな笑い声がした。

「変な人」

「君こそ」

「君じゃありません」

「千晴ちゃん。紛らわしいんだ」

 千春と千晴。それに、千晴の兄の千尋。合計三千。もちろん、足し合わせることには、なんの意味もない。

「結婚したら————、」

「我々はどこから来た————、何か言いました?」

「なんでもない。ゴーギャンだっけ」

「ピカソではありませんね」

「あ、ケーキ屋。寄ってく?」

 車道を挟んで反対側には、小さなケーキ屋があった。人混みで気がつかないのか、こんなにも人が歩いているのに、店内のケースには多くのケーキが残っていた。

「花火を見ながらケーキですか」

「和洋折衷。悪くないんじゃない?」

「そうですね」

 花よりケーキ、と言って。微笑んだ千晴ちゃんの笑顔に、思わず目を奪われる。幼い頃の面影は残っている。しかし、なんだろう。幼い頃から可愛いとは思っていたが、美しいとか綺麗とかいう形容が似合うようになったその姿に、思わず時の流れを感じた。

「人のことジロジロ見て、罰当たりですね」

「いや、綺麗になったなって」

「何がですか」

「何でも」

 あ、私ですか。と叫び始めた千晴ちゃんをおいて、ガラス製のケーキ屋の戸を開けた。



A

 河原に着く頃には、日はかなり傾き、片足を夜の闇に浸していた。

 ケーキ屋さんで少し時間をかけてしまったため(千春くんがチョコケーキにするか、桃のミルフィーユにするかずっと迷っていたのだ)、芝生のほとんどは人で埋まり、コンクリートで舗装されたところに数カ所、まだ余地があった。

「千晴くんのせいで、硬い地面に腰を下ろすことになりそうですね」

「申し訳ない」

 謝っておきながら、その実、口元が緩んでいた。よほど、桃のミルフィーユが楽しみなのだろう。

「見終わった時に、腰が痛くて歩けなかったら、おぶってくださいね」

「自分で歩かなきゃケーキの分太るよ」

「千春くんとの会話のストレスで、今にも骨だけになってしまいそうです」

「それは困るね」

「どう困るんですか」

「千尋に殺されちゃう」

「………、それは困りますね」

 非生産的な会話を相変わらず続けながら、適当な場所を見つけ、レジャーシートを広げた。

「あれ、千晴ちゃんは持って来てないの?」

「極力荷物は持たない主義なので」

 人一人やっと座れるレジャーシートに、足を前方に放り出して、ぎゅうぎゅうになって二人で座った。

「暗くなる前にケーキ、食べちゃおうか」

「そうですね」

 可愛く装飾された箱から、私のチョコレートケーキと千春くんの桃のミルフィーユを出した。箱には、プラスチックのフォークが二人分入っていたので、それも取り出す。

「花火大会でケーキを食べてるのは、きっと僕たちだけだろうね」

「愚かですね」

「でも悪くない」

 もくもくと、けれどゆっくりとケーキを食べる私たち。周りを見渡せば、大量の人が腰をかけ、これから打ち上げられる花火に期待を寄せているのがわかる。皆、幸せそうに見える。

 それでも。きっと、花火の帰りに告白しようと胸を高鳴らせている少年少女もいるのだろう。別れ話の前の最後の思い出作りに来たというカップルもいるのだろう。数十年ぶりに花火を見に来た夫婦、彼氏彼女がいない友達で集まってきた若者たち。いろんな思惑が混ざり合った喧騒を耳にして、ここにも一人。私は甘くないチョコレートケーキを味わう。

「あっ」

 最後に、大きな口で食べようとした千春くんがクリームを首筋にこぼした。

「やっちゃった」

 そう言ってカバンからティッシュを取り出そうとする。

「待って」

 千春くんの手首を掴んで引き寄せ、

「何」

「そのまま」

色白で細い、首筋から繋がる、

「甘いのがいいの」

鎖骨を舐めた。桃の味がした。



 そして、花火が上がった。

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鎖骨、あまい 棚倉一縷 @ichiru_granada

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