最終章 八月のファーストペンギン(前編)

「――うわあ」


 天蓋てんがいに広がる幻想的な光景に思わず声を上げる。

 薄暗いトンネルのような通路の頭上はガラス張りとなっており、大小様々な魚が思い思いに揺蕩たゆたっている。


 ひるがえり、きらめく数多の鱗は、さながら星々の輝きのようで。

 その光と闇の逢瀬は、どこか物悲しく。

 まるで宇宙にいるかのような錯覚を想起させた。


 ここは都心にあるアクアスタジアム。

 私は、突発的かつ強引な夏姫さんのデートのお誘いを受け、今ここに立っている――。


 あれから。

 夏姫さんは食いつくような勢いでラヴィアンローズのマスターに急な休みを願い出た。

 さすがに突然の申し出に面食らった様子のマスターだったが、何かを察したのか、わりと呆気なく許可をくれた。

 まあ、こう言ってはなんだが、基本閑古鳥なのでそれほどバイトの労働力に依存していないのだろう。


 許可を得るや否や、高速で着替えを終えた夏姫さんは、有無を言わさずに私の手を取って歩き出す。

 アグレッシヴな夏姫さんの行動に、私は大正時代の女学生の如くしおらしく黙り込んで、ただひたすらにドキドキする。


 ちなみに夏姫さんの私服を初めて見たが、半袖のワイシャツにジーンズというボーイッシュな格好で、背の高さもありとても良く似合っていた。

 ほとんど口も利かず、まだどこへ行くとも知らされないまま夏姫さんに連れられて――気がつくと私はこの薄暗い海底の通路に立っていた。


 実は恥ずかしながら三十路を目前にして初めての水族館である。

 小学生の頃、社会科見学的なイベントでみんなは水族館や動物園に行っていたようだが、身体のこともありその手のイベントは倦厭していたのである。


 今思えば少し両親が過保護すぎた気もするが……さもありなん。

 おかげで、今もこうしてそこそこ元気に生きていられるのだから文句はない。

 まあ、そんなこんなの事情もあり。

 私は初めての水族館――もとい、アクアスタジアムで興奮しきりなのである。


「――あっ! 夏姫さん! 見てください! 鼻がぎざぎざの子……あれがノコギリザメですか!?」

「いえ、あれはノコギリエイですね。ノコギリザメととてもよく似ているので見分けは難しいですが……ざっくり言うと、ノコギリザメよりも全体的に大ぶりなのが特徴です」


 私と同様に天を仰ぎながら満足そうな微笑を浮かべて、夏姫さんは解説をしてくれた。

 私はますます嬉しくなる。


「すごい……詳しいですね。私、こんなにたくさんのお魚を見たのも初めてです……!」

「あ、そうでしたか。楽しんでいただけていれば良いのですが」

「とても楽しいです!」

「なら、良かった」


 夏姫さんは柔和に微笑み、私からまた天蓋の海中へと視線を移して続ける。


「――ここ、私のお気に入りの場所なんです。夜遅くまでやっていますし……それに近いので。最初はペンギンを見るために来たのですが、いつの間にかほかの魚にも詳しくなっていました」

「ペンギンもいるのですか!?」

「ええ、もちろん。これからご案内しますよ」


 また嬉しそうに微笑むと、夏姫さんは私の手を取って奥へ進んでいく。

 薄暗い海底トンネルは少しだけ怖かったが、夏姫さんの温かい手のひらがそれを忘れさせる。

 胸一杯の幸せを噛みしめながら、ゆっくりとした歩調で通路を進む。

 そうしてその先に――ペンギンはいた。


「――っ! う、動いてます! 可愛い! 可愛いです、夏姫さん!」


 夢にまで見た本物のペンギンに、私のテンションは青天井だ。

 微かに残った客観性が、三十路女のはしゃぎようにしては見苦しいのでは、と疑問を投げ掛けてくるが、そんなものは無視して滾る情動に従う。

 夏姫さんも心なしか普段のクールな表情を緩め、双眸を輝かせながら頷く。


 しばし無言のまま、ガラス一枚挟んだ向こう側で戯れるペンギンたちを眺める。

 それから十分に初ペンギンを堪能したところで、私は傍らで物憂げな視線をペンギンへ向けていた夏姫さんに告げた。


「――あの、今日は本当にありがとうございます。とても良い気分転換ができました」

「いえ、少しでもお役に立てたのであれば嬉しい限りですよ」


 微笑とともにそう応える夏姫さん。何だかものすごい包容力を感じてしまい――私は、尋ねる必要のないことまで尋ねてしまう。


「その……どうして夏姫さんは、私なんかにそこまで親切にしてくださるのですか? 私が……『葉月薫』だからですか?」


 その問いに、一瞬だけ考えるように間を置いてから夏姫さんは答える。


「葉月薫先生は――私の命の恩人ですから」

「命の……恩人?」


 まるで見覚えのない言葉に私は首を傾げる。

 ええ、と頷いた夏姫さんは、よちよちとはしゃぐペンギンたちに視線を戻して、憂いをはらんだ口調で続ける。


「――私、子供の頃から男の子みたいで……。顔も男っぽいし、どんどん背も高くなって、声も低くなって、胸も全然大きくならなくて……すごい劣等感コンプレックスがあったんですよね。普通じゃない自分に」

「――――」


 思わず息を呑む。

 普通ではない自分への劣等感――それは形は違えど私と同じ悩みだ、と戸惑う。

 しかし、そんな私に気づいているのかいないのか、夏姫さんは気にせずに朗々と語る。


「格好良い、とはよく言われますけど……それは、私の感覚では女として喜ばしい評価ではないですし……実際に男の人は、小柄で可愛らしい女の子が好きみたいですし……。だからって、私が女の子みたいな可愛らしい格好をしてもちっとも似合わないし……。自分の気持ちと、周囲の評価の不一致がとても気持ち悪くて……生きるのがつらかったんです」

「――――」


 それは――私が考えたこともない思想。

 ハンサムで、背が高くて、声がハスキィで、スレンダで。

 私が好きで、この上ない魅力を感じていた夏姫さんの長所がすべて……彼女にとっての劣等感になっていた。

 他の人にはない魅力――というのは、とどのつまり一般的、平均的ではない逸脱した要素にほかならない。


 言い換えるのであれば――普通ではないということ。


 ならばそのことに、劣等感を抱くことも当然考えられる。

 客観的な善し悪しの評価など……本人には関係がないのだ。

 自分の浅慮さに呆れると同時に、新たな見地に鳥肌が立つ。


「――でも、そんなとき、葉月薫先生の『八月のファーストペンギン』と出会ったんです。普通ではない主人公の女の子が、普通であろうともがく姿は新鮮で……とても感動しました。それで私も、彼女みたいに頑張ってみようと思えたんです。自分の劣等感を受け入れて克服してみよう、って。そうしたら、つらかったそれまでが嘘みたいに楽になって……生まれ変わったような気持ちになれました。だから、お世辞を抜きにして……葉月先生……いえ、はづきさんは、私の命の恩人なんです」


 もちろん、それだけではないですけどね、と夏姫さんははにかむ。


「はづきさんが、葉月薫先生ではなかったとしても、私ははづきさんに同じことをしたと思います。その……こう言っては失礼ですが、初めてお見かけしたときから、はづきさんは何だか昔の私に似ている気がして……放っておけなかったんです。浮き世離れしているというか……世間と隔絶しているというか……。だから、私が先生の本で救われたように、私も何か力になれればいいなって――そう思ったんです」

「――――」


 私の描いた理想の物語で救われたという少女。

 それは私の意図したものではなかったとしても、確かに目の前の少女の胸に響き、何かを変えた。

 だからこそ、今ここに思いやりのある優しい日向夏姫という少女が存在する。


 あるいはこの世界のどこかに、同じように私の意図しない部分で私の物語に救われた誰かがいるかもしれない。

 それはきっととても価値のあることで――。

 ならば、私が作家を続けてきたこと、あるいは続けていくことにも……意味があるのかもしれない。


 憑き物が落ちたような不思議な気持ちで私は放心する。

 そして夏姫さんは、そんな私を見つめながら恥ずかしそうに言った。


「……それに、綺麗な人には、できれば笑っていてほしいですから」


 その言葉が。

 あまりにも身に覚えがなさすぎて。

 私は眉をひそめて首を傾げる。


「綺麗な人って……私がですか?」

「ええ、もちろん」

「……気休めは止してください」


 少しだけ不快感を露わにして。

 私は帽子と眼鏡を外し、夏姫さんの目を真っ直ぐに見つめて告げる。


「――?」

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