第四章 モグモグミックスサンド

 ――ラヴィアンローズの扉を開くと、真っ先に日向くんが飛んできた。


葉月はづき先生! いらっしゃいませ!」


 突然の、今までにない熱烈歓迎に戸惑う私。

 早くも脳が思考を停止する中、日向くんは私をいつもの席へと案内してくれる。

 日向くんは一度下がり、おしぼりとお水を運んで戻って来てから、どこか申し訳なさそうに眉尻を下げて言う。


「実はもういらしていただけないかと思って心配していたんです……!」

「え……な、何故です……?」

「だって葉月先生、昨日お帰りになるとき、随分と気落ちしていらっしゃるご様子だったので……」

「…………」


 それは初恋の相手が実は女の子だったことに衝撃を受けてしまったからです、とはさすがに言えないので黙り込む。

 日向くんはますます申し訳なさそうに続ける。


「ですから私、何か失礼なことをしてしまったのかと思って……」

「……そ、それは誤解です……っ!」


 ほとんど無意識に声を出してしまったので、予想以上の声量になってしまった。

 慌てて声のトーンを落としつつ、私は続ける。


「……いえ、あの……。失礼なことを言ってしまったのはこちらのほうです……。その、日向さんは女の子なのに……『女の子みたいだ』なんて言ってしまって……本当にごめんなさい……」


 言いながら恥ずかしくなってきたので赤面を隠すように顔を伏せる。

 すると慌てた様子で日向くんは、私の両肩に手を添えて頭を上げさせる。


「き、気にしないでください! 私は慣れてますので! というか、こんな格好をしているのが悪いんですよね! 実は私、女の子用の給仕服に合うサイズがなくて……!」

「いえ……でも日向さん、とてもお似合いですよ。素敵滅法です」


 言ってからしまった、と焦る。

 つい本音がこぼれ出てしまった。

 しかしそんな私の言葉に、意外にも日向くんは可愛らしく赤面して照れる。


「そ、そうですか……。あまりこういう格好は好きではないのですが……でも、葉月先生にそう言っていただけるのであれば……嬉しいです……!」

「…………」


 後光が、後光が射して見える……!

 この天国的なはにかみを拝めるのであれば、いくらでも本音をこぼしたくなる。

 何だか諸々の問題からやぶれかぶれになりつつある自分を自覚しつつ、こういう方向性で攻めてみるのも悪くはないかもしれない、と今後の展望を考える私に、日向くんは思い出したように告げる。


「っと……ご注文も伺わずに自分のことばかり失礼しました……! いつものカフェオレとミックスサンドでよろしいですか?」

「あ……はい……」


 お決まりのセットメニュー。

 私のオーダーを受けて、満足そうに微笑んで立ち去ろうとする日向くんだったが、勇気を振り絞って私はそれを止める。


「あの……っ!」


 立ち止まり、不思議そうな表情で振り返る日向くん。

 もうそれだけで心臓が止まりそうなくらい高鳴ってしまうが、何とか私は言葉を紡ぐ。


「その……『葉月先生』というのはやめていただけないでしょうか……? 私……『先生』なんて呼ばれるほど立派な人間ではないので……」


 そう言うと日向くんは目に見えて動揺しながら頭を下げた。


「し、失礼しました! 私舞い上がってしまって……! 今後は『小比類巻こひるいまきさん』に戻しますので何とぞお許しを……」

「い、いえ、その……」


 そこで私は一旦言い淀む。

 どうする。踏み込むなら今だ。

 でも怖い。拒絶されたらどうしよう。


 ――だがしかし。


 そもそもこの恋は初めから負け戦なのだ。

 ならば負けも拒絶も予定調和。何をためらう必要があるのか。

 自らを鼓舞するように、一度大きく深呼吸をしてから私は告げる。


「その……小比類巻、って言いにくいと思うので……。もしよろしければ……名前で……『はづき』と呼んでいただけないでしょうか……?」


 ドクン、と心臓が一度大きく脈動する。

 脳に血が回り顔は真っ赤になっていることだろう。


 初めて――生まれて初めて、私は人に踏み込んだ。

 拒絶されるのを覚悟で。

 どこかの誰かが、当たり前のようにやっているように。


 ――普通の人と同じように。


 緊張のあまり呼吸が浅くなる。

 それから、改めて考えてみると三十路目前の女が大学生の女の子に名前で呼んでくれというのは図々しい上にちょっと気持ち悪いのではないだろうか、と多少客観的な思考が戻ってくる。


 まるで無限とも思える一瞬の後。

 日向くんは驚いたように顔を上げて――。

 それから、ぱぁっと、花が咲いたように表情を輝かせた。


「よ、よろしいのですか……! その、お名前でお呼びしてしまって……!」

「えっ……あ……はい、喜んで……!」


 予想外の反応に、変なリアクションをしてしまったが、そんなことも気にならないくらい日向くんは喜んでいるように見える。

 どうやら――少なくともこの場は受け入れてもらえたらしい。

 全身を弛緩させて、安堵のため息を吐く。


 怖かった……めちゃくちゃ怖かった……。

 でも、なけなしの勇気を振り絞ってみて良かった……。


 極度の緊張から解放されたことで、完全なノーガードになっていた。

 不意に日向くんは、私の手を取って身を寄せてくる。


「あのっ! はづきさんっ! では、もし差し支えなければ、私のことも名前で……『夏姫なつき』と呼んでいただけませんか……!」

「――っ!?」


 現役女子大生を名前で!?

 一瞬動揺するが、冷静に考えるとそれほど大したことではない気もしてくる。

 聞けば世の若い婦女子は、当たり前のように名前を呼び合っているそうではないか。

 普通の女子大生である日向くんならば、それこそ日常の一部のようにそうしているに違いない。


 だからきっと――それ以上の意味はない。

 意味はないのだろうが……それはさておき、嬉しいものは嬉しいのである。

 私は顔がにやけるのを抑えられないまま頷く。


「……わ、わかりました。えっと……では、その……夏姫、さんで……」

「――はいっ! ありがとうございますっ!」


 満面の笑みでそう応えると、日向くん――改め、夏姫さんはとても上機嫌な様子で、注文を伝えるためにバックヤードへ戻っていった。

 夏姫さんの背中が見えなくなってから――私も緊張を解く。


 それから、胸の奥底から湧き上がる感情に身震いをする。

 すごい……! まるで普通の女の子みたいだ……!

 身もだえするほどの歓喜。

 しかし、それと同時に昨日から抱いていたささやかな疑問も脳裏をぎる。


 ――そも、『普通』とは何か。


 昨日までは当たり前のように、茫漠としていながらも何となくイメージできていた『普通』というものがわからなくなってしまった。

 それは、一般的、ないし平均的という概念を超越した思想のように思えてしまう。


 ならば何故、人は半ば無意識かつ強制的に『普通』であることを望むのか。


 考えれば考えるほどわからなくなってくる。


 そんなもやもやを抱えながら、執筆など進むはずもなく。

 私は今日もまた進む当てのない原稿を睨みつけるだけに終始する。


 夏姫さんに持って来てもらったミックスサンドをモグモグと平らげ、甘すぎるカフェラテを呷る。

 おなかは満たされ、寝不足による体調不良もだいぶ治まったが、さりとてそれで原稿が進むわけでもなく。

 気分転換に私は、スマホで可愛らしいペンギン画像を巡る旅に出る。


 ペンギンは好きだ。

 愛らしく、勇敢で、ほかの動物にはない魅力がある。

 生憎と本物は見たことがないが、DVDや写真集をたくさん持っているので問題ない。


 極寒の世界で、その過酷さをものともせず、彼らは日々を生きている。

 陸上には彼らの天敵はいないらしいが、海の中にはシャチやサメなどの天敵がうようよいる。

 しかし、生きるためには海に潜って魚を捕らなければならない。

 ゆえに彼らは、小さな身体に目一杯の勇気を滾らせて、荒れ狂う極寒の海へと飛び込んでいく。


 それは軟弱な私には絶対にできない生き方で。

 だからこそ、私は彼らに限りない親愛と畏怖を抱いてしまう。


 また、愛情の深い動物としても有名で、卵は雄と雌で交代しながら暖めるという。

 カップルの離婚率も極端に低く、一度卵を産めばまた次も同じカップルで卵を産み育てるのだとか。

 実に微笑ましく、可愛らしい。


 さらには、同性愛の象徴としても知られ、雄同士、雌同士でも愛情の深いカップルを作ることがあるらしい。

 それは今の私にはとてもタイムリィな話題であり。

 もしかしたら、ペンギン好きが高じて、夏姫さんに恋をしてしまったのかもしれない。


 そんな馬鹿なことを考えて思わず笑みをこぼしたところで――。


「――ご機嫌ですね、はづきさん」

「えひゃい!?」


 また完全に油断していたところに声を掛けられたので、私は北斗神拳を喰らったアミバのような間の抜けた悲鳴を上げてしまう。

 慌てて口元を押さえ、振り返る。

 そこにはいつもの穏やかな微笑みをたたえた夏姫さんが、カフェラテのポットを持って立っていた。

 夏姫さんは、眉尻を下げ申し訳なさそうに言う。


「あ、その……驚かせてしまったようであればごめんなさい……。よろしければ、カフェラテのお代わりをと思ったのですが……」

「ぅぁ……その……い、いただきます……」


 いい加減私も学習すればいいのに、と反省しながらまた芸のない返事をしてしまう。

 私に話しかけるたびに申し訳なさそうな表情を浮かべさせてしまう夏姫さんに申し訳なくて、私はまた俯いてしまう。

 引っ込み思案とかそういうのを通り越してもはや人間不信に近い。


 いい年した大人が恥ずかしい……!

 赤面する私。

 しかし、夏姫さんは特に気にした様子もなくカフェラテを注いでくれる。


 それから不意に、あ、ペンギン、と呟く。

 どうやら私のスマホの画面が視界に入ったらしい。

 夏姫さんは上機嫌な様子で言う。


「私、ペンギン大好きなんですよ。可愛いですよねえ」

「あっ……そうなのですか……」


 ペンギンへと話題が移り、私も少しだけ気持ちを楽にして会話に応じる。


「私もペンギン大好きで……。デビュー作のテーマにしたのも、それが理由で……」

「あ、そうなんですか! 実は私も、ペンギンが好きだったから、はづきさんのご本と出会えたんですよ! 神様に感謝しないといけませんね!」


 嬉しそうに笑う夏姫さん。

 しかしその笑顔を――私は直視できない。


 作家としての自分を――今は見失ってしまっているから。


 夏姫さんは不思議そうに小首を傾げる。

 どうしたものか、と迷うが、気がつくと私は正直に告げていた。


「――実は私、今……スランプなんです……」

「スランプ?」


 ますます不思議そうに首を傾げる夏姫さんに、私は、ええ、と頷く。


「小説が……書けないんです……。ちょっと精神的に参ってるというか……このまま作家を続ける自信がなくなってしまったというか……」

「なっ、何を言ってるんですか!」


 驚いたように夏姫さんは声を荒らげる。

 ほかにお客がいないとしても、さすがにまずいと思ったのか、声のトーンを落としながらも迫真の様子で夏姫さんは続ける。


「な、何があったのかは知りませんが、元気を出してください! きっと連日の暑さで少し参ってるだけですよ!」

「……それもありますけど……もう少し深刻な悩みがあって……」

「あ、あのっ! 私でよろしければ、何でも相談に乗りますよ!」

「――――」


 あなたのことが好きすぎて悩んでいます、と告げてしまおうか。

 一瞬だけそんなずるいことを考える。

 もちろん、本当はそれを口にしたかったし、そうなったときの彼女の反応も見てみたかった。


 この恋の終わりを――しっかりと見届けたい。


 でも、さすがにその勇気はない。

 私は――ファーストペンギンにはなれない。


 ますます気落ちする私。

 すると夏姫さんは、意を決したように、はづきさん! と私の名前を呼んでから、顔を寄せて言う。


「あのっ! もしよろしければ――これからデートしませんかっ!」

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