第三章 ドキドキモラトリアム
「えうおうあうおあおうー……」
自室のベッドの上。
両手両足をばたつかせながら、枕に顔を埋めて私はひたすらに唸る。
まさか初恋の相手が女の子だったなんて……。
さすがの私も現実を受け入れるのに時間を要する。
というか。
日向くん……あんなに格好良いのに女の子ってどういうことなの……!
確かに男の子にしては物腰が柔らかいし、どことなく可愛らしいし、やたらと良い匂いがするとは思っていたけど……!
ただ不思議なことに。
日向くんが女の子だと判明して、私の初恋が終わったかというとそういうことは全くなく。
これまでと何も変わりなく、今も好きすぎてどうしようもない気持ちが止まらないのはどうしたものなのか。
気持ちの整理は一向につかず、私の稚拙な情緒は混迷を極めるばかりだ。
そもそも、三十路を目前にした初恋というのが尋常ではなく、その相手が十歳近く年下の大学生というのも常軌を逸していて、おまけにその相手が女の子だというのだから……あにはからんや。
これですぐに納得と理解を示せるようであれば、そもそも遅れてきた思春期に悩んでなどいないのである。
しかし、これからどうしたものか。
そろそろ諸々の問題に対して、真面目に向き合っていかなければならない。
ただでさえ、私は普通ではないのだ。
これ以上、普通ではない状態を続けると、本当に取り残されてしまう。
だが――と、そこで新たな疑問。
普通ではない、というのは本当にそれほど悪いことなのだろうか。
これまで私は、普通であることを夢見て生きてきた。
普通――あるいは一般的、平均的と言い換えても良い。
たとえば、何も気にせずに日中外で遊び回ったり。
休みの日に、海や山や川へ友達と遊びに行ったり。
あるいは――誰かと当たり前のように恋をしたり。
そんな、私以外のみんなが普通に行っているであろう日常に――私は恋い焦がれていた。
だからこそ私のデビュー作『八月のファーストペンギン』の主人公には、私がやってみたかった普通のことを私の代わりにたくさん体験してもらった。
富士山に登ってご来光を拝み。
ラフティングで急流を下り。
真夏のビーチで海水浴を満喫し。
お洒落なカフェでアルバイトをして。
最後にささやかな恋をした。
全部全部、私が憧れていた普通の高校生の夏休みだ。
みんなにとっては当たり前で。
それでも私にとっては、望んでも得られない夢で。
だからこそ、普通であることは素晴らしい。
しかし――。
三十路を目前にして今まで絶対的なものだと思っていたその価値観が揺らいでいる。
普通ではない――ただ標準的ではないということは、それほど悪いことなのだろうか。
もちろん、単純な善悪の問題でないことくらいは、私にだってわかる。
だが人は、他人と違うことを極端に恐れる。
知識であったり、能力であったり、環境であったり。
――あるいは、外見であったり。
その内容が何であれ、逸脱することは恐ろしい。
そしてその恐れから、普通ではないものに対して排斥を行う。
それが、意識的であるにせよ無意識的であるにせよ。
結果的には、拒絶と否定だ。
だから、普通でないことは怖い。
だから、私は――普通に憧れる。
――だがしかし。
ならばこの普通ではない恋に、言いしれぬ昂揚を抱いてしまっているのはなぜか。
ベッドの上でじたばたと藻掻きながら、結論の出ない問題に腐心する。
いったいどれだけの間そうしていただろうか。
不意に空腹感を覚えたので、時刻を確認しようと身体を起こす。
視力が極端に悪いので眼鏡を掛けてからスマホをチェック。
時刻は午後六時過ぎ――。
私は昼夜が完全に逆転しているので、ちょうどいつも起き出す頃合いだ。
つまり――結局、一睡もできなかった。
ああもう……いい年した大人が恋の悩みで完徹とか情けなさすぎて泣けてくる。
ぼんやりと鈍痛のする頭で、ふらつきながらバスルームへ向かいシャワーを浴びる。
熱めのお湯を頭から被ると少しだけ意識がクリアになった。
あとはいつものようにラヴィアンローズの特製極甘カフェラテを飲めば何とか回復するだろう。
昨日、日向くんに女の子みたいだ、なんて失礼なことを言ってしまった手前、少しだけ気持ちは重かったけれど。
それ以上に、今日もまた日向くんに会えると思えば気持ちは自然と弾んでくる。
そうと決まれば善は急げだ。
髪を乾かしてから、歯を磨き。
全身に日焼け止めを塗ってから、軽くお化粧をして。
仕上げにお出かけ用の度入りサングラスと。
髪を隠すためのつば付きキャップを装着して準備完了。
それから私は悠々と、日の沈みかける宵待の世界へと繰り出していく。
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