第二章 サマープリンセス
――恋をするのに資格なんていらないのよ、と祖母は言った。
あれはいつのことだったか。
まだ祖母が生きていたときのことだから、かれこれ二十年近くまえになるだろうか。
確か夏休み、田舎にある父方の両親の家に遊びに行ったときのことだと思う。
親戚たちは、真夏の太陽の下で遊び回っていたのだが、それができなかった私は、薄暗い部屋の中、見慣れぬ地方局のテレビ番組をぼんやりと眺めるほかなかった。
たぶん、そのときに古い恋愛ドラマの再放送か何かをやっていたのだろう。
当時幼かった私は、テレビに登場した『恋』という言葉の意味がわからず、たまたま近くにいた祖母に尋ねた。
祖母は、数秒の間熟考して――それから妙に可愛らしくはにかんで応えた。
――誰かを独り占めにしたいと思う気持ち、かしら。
まだ人並みの情緒すら持っていなかった幼子には少しだけ難解な言葉。
それでも一つだけわかったのは、私一人ではどうしようもない、ということ。
普通ではない私が、普通の人と何らかの関係性を持つことはあり得ない。
幼いながらに、それだけは十分すぎるほど理解していたから。
だから私は、幼子特有の曖昧な言葉でこう告げた。
――じゃあ、私には『しかく』がないのね。
すると祖母は一瞬だけ悲しげな表情を浮かべてから――。
――恋をするのに資格なんていらないのよ、と穏やかに微笑んだのだった。
今さらながらに、そんな祖母のことを思い出す。
きっと祖母は、普通に生きることの難しい私でも、恋くらいは普通にしてもいいんだよ、ということを暗に伝えたかったのだと思う。
確かにそれはそのとおり。
恋なんてものは勝手にするものなので、資格とかそういうものは本来何もいらないのだろう。
だが――そもそも恋とは結果を伴ってこそではないだろうか。
運良くお付き合いできるにせよ。
運悪くお付き合いできないにせよ。
単に感情的なものではなく、その結果への一連の過程を含めて、恋と呼ぶのではないだろうか。
だからきっと、私には恋をする資格がない。
結果が見えきっている過程なんて――ただつらいだけだから。
そんなものは、ないも同然だ――。
――――。
そう思っていた時期が私にもありました!
身の程を弁えてこれまで平穏無事に暮らしていたというのに。
もう寝ても覚めても、彼のことが頭から離れないのだから仕方がない。
三十路を手前にして初めて訪れた、極めて特異的な感情に、私はすっかり参っていた。
――
細身で長身の大学二年生。
清潔感のある栗色の髪は、さらさらと絹糸のように柔らかそうで。
涼やかで切れ長の双眸は、いつも穏やかな色をたたえていて。
まるで幼子が夢見る、絵本の王子様のような美少年なのである。
あとなぜかやたらと良い匂いがする。たぶんフェロモン的な何か。
二杯目のカフェラテを飲み干したところで、今日何度目ともわからないため息をこぼす。
目の前には、結局今日も全く進まなかったほぼ手付かずの原稿が。
締め切り一ヶ月をまえにしていよいよ致命的な遅延だが……あまり気にならない。
いい歳した大人が、初恋で頭がいっぱいになって仕事が手に付かないなんて笑い話にもならないが……。
私の場合は少々事情が特殊なのだから仕方がない。
遅すぎた思春期のダメージはわりと甚大だ。
三十路をまえにして、なまじ人格が完成されているだけに、その根底が揺らいでしまっているのだから、控えめに言ってもアイデンティティ崩壊の危機だ。
これからどうすればいいのか。
そして何より――。
この恋にどのような決着を付ければいいのか。
何もわからなくて、先のことを考えただけで憂鬱だ。
現実逃避をするように、ノートパソコンを閉じて伸びをする。
ここは店内の奥まったところにある私の指定席で、近くに窓がなく、またほかの席とも離れているので、自室の延長のような感覚で自由にできる。
――だから、完全に気を抜いていた。
「――今日はもうお仕事おしまいですか?」
「ひゃいっ!?」
不意に声を掛けられて、私は驚きのあまり肺に溜め込んだ空気をすべて吐き出す間の抜けた声というか音を発する。
慌てて姿勢を正して声のほうに視線を向けると、そこには日向くんが立っていた。
清潔な白のワイシャツと黒のスラックス。それを彩るブラウンの腰巻きエプロンが今日も最高に似合っている。
日向くんは微笑みを浮かべながら私を見つめてじっとしている。きっと、私の返事を待っているのだろう。
その真っ直ぐの視線に耐えられず、私はやや視線を逸らして応える。
「あ……その……お仕事、おしまいです……」
オウムでさえもう少しマシなおうむ返しをする。
応えてからあまりの稚拙さに恥ずかしくなって赤面する。
特に私は肌が白く、赤面すると本当に真っ赤になるので、それがまた恥ずかしくてますます顔が発火する。
恥ずかしさのあまり目元に涙が浮かんでくる。
ああもう……穴があったら入りたいし、来世はペンギンに生まれ変わりたい……南極の雪の上でよちよち歩きたい……。
勝手に精神的に追い詰められていく私。
しかし、そんな私を見て、日向くんは慌てたようにあたふたし始める。
「す、すみません! 驚かせるつもりはなかったんです!」
「い、いえ……こちらこそお見苦しいところを……」
さすがに十歳近く年の離れた子にフォローされたのでは大人として情けなさすぎるので、鉛のような自制心(つまりとても柔らかい)で応じる。
掛けていた分厚い眼鏡を外してハンカチで目元を拭い、一度深呼吸。
多少なりとも気持ちを鎮めてから、ようやく人並みに思考を巡らせて対応する。
「それであの……何かご用ですか……?」
「あ、いえ、用というほどのものではないのですが……」
言いにくそうに言い淀んでから、しかし意を決したように日向くんは続ける。
「その、実は小比類巻さんとお話がしてみたくて……」
「……私と?」
予想外の言葉に私は首を傾げる。
ちなみに日向くんが私の苗字を知っているのは、バイトの初日に挨拶をされたからである。
常連だからそういうのは良くあることで。
そして私が恋に落ちたのもまたその瞬間なのである。
しかし、私のような人間と話がしたいとは穏やかじゃない。
困惑する私に、日向くんは少しだけ恥ずかしそうに言う。
「えっと……小比類巻さん、その、作家の
予想外の言葉に私は再び戸惑う。
七年間作家をやってきて、そんなことを聞かれたのは初めてだったから。
昨今の出版不況も相まって、未重版作家の知名度など無に等しい上に、そもそも私は覆面作家だ。
おまけに知り合いも極端に少ないので、私が作家であることを知っているのなんて両親とここのマスターくらいしかいない。
だが、マスターには絶対内緒にしておいてほしい、とお願いしていたはず……。
怪訝そうな表情を気取られたのか、日向くんは慌てたように両手を振る。
「あ、ち、違うんです! いえ、違くはないのですが……! 実は私、葉月先生の大ファンで……。それでさっきの休憩中に葉月先生のご本を読んでいたら、マスターが嬉しそうに教えてくれて……!」
なるほど、それでつい零してしまったのか。
そういう事情ならば仕方がない、か……。
きっとあのお人好しのマスターも、私のファンなんて初めて見て舞い上がってしまったのだろう。
さすがの私もいつもお世話になっている手前、そんな彼を咎める気にはなれない。
緊張した面持ちでこちらを見つめる日向くん。
怒られるかもしれない、と萎縮してしまっているのかもしれない。
だから私は、苦笑を浮かべて応えた。
「……すみません……ファンの方にお会いしたの、初めてだったもので……。確かに私が……葉月薫です。でも……覆面作家なので、どうかこのことは内緒にしてもらえませんか……?」
「も、もちろんです! 未来永劫内緒にします!」
そんなかしこまった態度に、ついに私は笑ってしまった。
ハンサムなのに、随分と純粋な人だ、とますます日向くんが好きになる。
急に笑い出した私にきょとんとした表情を浮かべてから、日向くんは改めて言う。
「葉月先生のご本はすべて読んでいますが、特に『八月のファーストペンギン』はもう数え切れないくらい読み返している私のバイブルです……!」
「あ、その……ありがとうございます……」
褒められ慣れていないので何とも居心地が悪い。
おまけにその相手が私の初恋の人だというのだから、理解が追いつかない。
――八月のファーストペンギン。
それは、大学生の頃に書いた私のデビュー作だ。
生まれつき身体が弱く、普通でない自分に漠然とした不安を抱く高校生の女の子が、夏休みに勇気を振り絞って普通のことをする――そんなありきたりの物語だ。
ファーストペンギンとは、リスクを恐れず新しいことに挑戦する人を指す経済用語らしい。
何でも、崖っぷちのペンギンの集団から、天敵がいるかもしれない海の中へ最初に飛び込む勇気ある個体になぞらえてそう名づけたのだとか。
主人公の女の子は、そんなファーストペンギンよろしく、リスクを恐れず様々なことに挑戦して成長していく――。
それは、私とは真逆の生き方であり、ある意味では理想の投影のような少女像であったのだが――そのデビュー作の評判は今ひとつであった。
理由は単純、普通すぎたのだ。
私の理想の物語は、みんなにとっての当たり前であり、新鮮さなど皆無であったらしい。
普通であることを望む私と、普通であることを厭う世間。
つまり初めから私は――世間という集団と埋められない溝で隔絶されていたのである。
まあ、そんなこんなで、葉月薫とは世間的には凡百な才能として認識されており。
だからこそ、私のファンだという存在の出現に、戸惑うばかりで――。
しかし、日向くんは私の戸惑いに気づかず、興奮した様子で身を寄せてくる。
「――っ!?」
予想外の展開に、戸惑いも忘れて私の心臓はひときわ高鳴る。
私の手を取り、その透き通るような双眸を輝かせながら彼は言う。
「あ、あの! もしよろしければ……サインを頂けないでしょうか……!」
「う……あ……わ、私のサインで、良ければ……」
脳がフリーズしかけるが、何とか応じる。これ以上無様を晒すわけにはいかない。
私の返事に飛び上がるように喜んでから、マスターに一応確認取ってきますね、と足早に去って行く。
今は私以外にお客がいないとはいえ、律儀なものだ、と感心する。好きだ。
そして、すぐに私の単行本――『八月のファーストペンギン』とサインペンを持って戻ってきた。
興奮した様子で彼は言う。
「あ、あの、できれば名前入れてもらってもよろしいですか……?」
「……いいですよ。えっと、日向ナツキさん、でしたよね……」
本とサインペンを受け取りながら、私は久しぶりのサインなのでちゃんとに書けるだろうか、という不安を抱く。
幸いなことに一応手が覚えていてくれたようで、さらさら、とサインは終了。
続けて名前名前……。
「……えっと、日に向かう、で日向さんですよね……? ナツキさんは、どういう字を書かれるのです……?」
その何気ない問いに、日向くんははっきりとこう答えた。
「サマーの夏に、プリンセスの姫です」
「……はい、えっと、
何とか無事に書き上がってから、テンパった脳みそが今さらながらに疑問を抱く。
「……日向夏姫さん……ですか。なんだかその……女の子みたいなお名前ですね……?」
冷静に考えればものすごく失礼なその言葉に。
日向くんは、きょとんとした表情を浮かべてから、何とも言えない渋い笑みを浮かべ直してこう言った。
「……だってその……私、女ですから……」
「――――へっ?」
――拝啓、天国のおばあちゃん。
あなたの孫は、三十歳を目前にしてようやく初恋をしましたが。
そのお相手は、美少年風の美少女でした――。
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