八月のファーストペンギン
紺野天龍
第一章 ペンギノンと初恋
――ペンギノン、という有機化合物があるらしい。
平面構造式がペンギンに似ていることからそう名づけられたのだとか。
誰が名づけたのか、とか、何に用いるのか、とか、そういう細かいことは私にはわからないし興味もないが、命名者のセンスだけは共感できる。
ペンギンは可愛いから仕方ない。
行きつけの喫茶店の片隅。
行き詰まった原稿という圧倒的な現実から目を逸らしてネットをさまよいながら。
何となくペンギンに見えなくもない図(構造式?)を眺めて、私――
口寂しさをまぎらすために、ぬるくなった特製極甘カフェラテを啜る。
過剰な糖分がますます思考を鈍らせるが、それはさておきとても美味しい。
それから半ば義務的に目の前のそれに意識を向ける。
一世代前のノートパソコン。
ディスプレイには、書きかけ、と呼ぶのもおこがましいレベルに手付かずの原稿が冷然と表示されている。
その容赦ない現実に――私は深いため息を吐く。
大学卒業とともに作家となって七年目。
三十路を目前にして、将来への言いしれぬ不安と、満たされない欲求。
そして何より自身へのどうしようもない
普通ではない私が、普通に生きることは難しい。
だからこそ私は、作家という道を選択し、そして運良くその道でこれまでやってこられたのだが……。
その意義も――今や失われつつある。
私は何のために毎回締め切りに苦しめられながら才能もないのに作家などやっているのか。
仕事をする……それは生きるために皆が当たり前のようにやっていることだ。
おしなべて、生きることは苦しい。
ならば――何のために生きているのか。
そんな思春期の中学生レベルの情緒に、三十路直前の女が今さらながらに振り回されているのは滑稽というほかない。
これまでロクに情緒というものを育んでこなかったツケが回ってきたのか。
でも、言い訳くらいはさせてほしい。
なぜなら若い頃の私は、ただ生きることに精一杯だったから――。
半ば無意識に再びため息を吐いたところで、接近する誰かの気配。
私は埋没しかける意識を無理矢理引き起こす。
すると私のすぐ傍らに、最近この喫茶店にバイトで入った新人の子が立っていた。
彼は柔和な笑みを浮かべながらハスキィな――しかし、男性にしてはやや高めの涼やかな声で尋ねてくる。
「お仕事中失礼します。よろしければ、カフェラテのお代わりをお注ぎしますが如何しましょう?」
一瞬頭が真っ白になるが、すぐに冷静さを装って応える。
「……お願いします」
声量のコントロールが上手くいかず、随分と小さい返事になってしまった。
それでも彼は嬉しそうに私のカップに特製極甘カフェラテを注いでくれた。
控えめに言って、聖人。
おそらく前世は、さぞ徳のある高僧だったことだろう。
勝手にそんなことを考える私に、柔らかく微笑みかけて、彼は立ち去っていく。
はやる鼓動を何とか抑えつけて――私は
――純喫茶ラヴィアンローズ。
フランス語で『バラ色の人生』を意味するらしいこの古風な喫茶店は、私の仕事場のようなものだ。
古くさいアンティーク調の内装と、気の利いたBGMすらない店内は、ともすれば物足りなさすら感じてしまうが、私のような日陰者には逆にそれが大層心地良く。
学生の頃から入り浸り、今やすっかり常連と化してしまっている。
何より、飲み続けたら糖尿病になるんじゃないかという極甘カフェラテが大層美味しい。
食事メニューもミックスサンドとナポリタンしかない昔ながらの純喫茶。
当然のようにお客もほとんど寄りつかないこのお店がこの十年間営業を続けられた理由の一割くらいは、私が足繁く通って浴びるように極甘カフェラテをあおったためであろう、と勝手に思っている。
閑話休題。
さて、今さらながら遅まきの思春期を迎えて絶不調の私なのだけれども……。
斯様な状況に陥った最大の要因がこの純喫茶にある。
――いや、言い訳がましいのは止めて、率直に断言しよう。
最大の要因は、先ほどの新人バイト――
一週間ほどまえからこのラヴィアンローズに務め始めた彼に。
その、何というか。
――ありていに言って、恋をしたのである。
ほぼ三十路の女が何を恥ずかしそうに言っているのか、というなかれ。
だってこれは。
三十を目前にしてようやく訪れた――。
――私の初恋なのだから。
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