第51話 第六章7

 目覚めた葵依は、タオルで涙を拭ってくれている姫華と視線を交差させた。

「……珠希ちゃん、小学校へ入学できたんだね。ランドセル、背負えたんだ」

 身を起こし、受け取ったタオルで顔をごしごしと擦りながら葵依が言った。

「ええ。あれから三ヶ月近くを家族と共に過ごしているわ。長い期間ではなかったけれど、交通事故で失われるより、遥かに幸福な最期になった」

「珠希ちゃん、病気だったの?」

 姫華は首を横に振った。

「正確には『病気になってしまった』。珠希さんの死後、脳に腫瘍が見つかったの。それは通常ではありえないスピードで大きくなっていって……。でも自覚症状は無かったし、痛くも苦しくも無く、怖くも無く。家族に囲まれて安らかに逝けた。そういう最期を珠希さんは迎えたわ」

 交通事故で失われるよりも、遥かに幸福な最期。

 姫華の言葉を、葵依は胸に刻んだ。

 それは珠希と歩乃海が救われた証だ。

 喜ぶべきことなのだろう。

 けれど虚しさはある。

 どれだけ心を砕いても、最終的には珠希の命を救えないのだ。

 姫華はベッドに腰かけ、葵依の背中を抱いた。

「……もう泣かないで葵依。あなたが泣くと、わたしまで悲しくなるわ」

「ごめんね。でも、止まらなくて」

 葵依は姫華の手を握った。

 それはとても小さい手だった。

 こんなにも小さな手で、少女はこれまで、どれだけの数の人々を救ってきたのだろう。

 どれだけの死を看取ってきたのだろう。

 ――コンコン、と控え目なノックが聞こえる。

 葵依は慌てて涙を拭った。

 訪ねて来たのは葉月か美菜だろう。

 泣き顔なんて見られたら、また余計な心配をさせてしまう。

「開いてるよー。入ってー」

 やや潤みが混じっていたが、葵依は普段とさして変わらぬ声で呼びかけた。

 扉は静かに開けられ、隙間から遠慮がちに室内へ足を踏み入れたのは。

「ほ、歩乃海さん?」

 葵依は驚いてベッドから飛び降りる。

 しかし彼女同様、びっくりして立ち上がった姫華に、その進路を塞がれてしまう。

 勢いがついていた葵依は止まれず、そのまま姫華の背中を押し潰して倒れ込んだ。

「グェーッ!」

 姫華が轢かれた蛙のような声を出す。

 葵依は姫華の身体に覆いかぶさりながら、どうしてこの美少女はこんなにも顔に似合わない声を出すのかとつい考えてしまう。

「ふ、ふたりとも大丈夫?」

「あ、へーきへーき。私はへーき。姫華は潰れてるかもしれないけれど、私は平気」

 駆け寄って来た歩乃海に、葵依はひらひらと手を振った。

「えっと、姫華さん立てる」

 床に突っ伏している姫華へ、歩乃海が手を差し出した。

「あ、ありがとう」

 姫華は緊張することも無く、素直に歩乃海の手を取った。

「ところで――どうしたの? こんな朝早くに」

 葵依と姫華は並んで葵依のベッドに腰掛け、歩乃海は姫華のベッドに腰掛けていた。

「その……迷惑だとは思ったんだけど、どうしても早くふたりに会いたくて」

 申し訳なさそうに歩乃海がうな垂れる。

「いやいや、迷惑とかはないよ。起きてたし。ねぇ姫華?」

 姫華がコクコクと頷く。

 歩乃海は胸を撫で下ろした。

「本当? 良かった。あのね、葵依さんと姫華さんに謝りたいの」

 歩乃海は立ち上がると、ふたりに向かって深々と頭を下げた。

「これまでいっぱい迷惑をかけてごめんなさい。ふたりがいてくれなかったら私、取り返しのつかないことをしてしまうところだった」

 葵依と姫華は揃って両手を左右にブンブンと振った。

「いやいや。迷惑だなんて思ってないから」

「そ、そうよ。それにそんな風に改まって謝罪されると困ってしまうわ」

 まるでシンクロしているかのようなふたりを見て、歩乃海は笑ってしまう。

「――そういえば、前にもこんなことあったね。そんなに謝らなくていいって、ふたりは言ってくれた。それなのに、私――」

 歩乃海は少し照れたように、葵依と姫華を上目遣いで見た。

「……こんな話をしたら、変に思われるだろうけど――昨夜にね、夢を見たの。小さい頃に亡くなった妹の夢。珠希が亡くなったのは、あの子が小学校へ入学する前だったのだけれど――私、珠希とランドセルを背負って、一緒に小学校へ通った夢を見たんだ」

 知っているよ、と葵依は心の中で言った。

 それは幸福な、うたかたの夢。

 すぐに失われてしまう、別の世界での現実。

 それでね、と歩乃海が嬉しそうに笑う。

「夢はまだまだ続きがあるの。

 私が小学校を卒業して中学校へ上がったときに、珠希が私の制服を隠してしまって。

 どうしてそんなことをしたのって聞いたら、『制服がなければ中学校へいけないから、また小学校へ戻ってくれると思った』なんて言うのよ。

 本当に、いつまでも甘えん坊のままで可愛いくて」

 葵依の心臓が大きく跳ねる。

 横目で姫華の顔を見た。

 彼女はじっと歩乃海へ視線を向けている。

「珠希が中学校へ入学したときも『お姉ちゃんと一年しか一緒に通えない』って拗ねて。

 私と同じ高校に入学して、大学まで追いかけてきて……。

 いつの間にか、私も珠希も大人になっているの。

 私は写真家を目指していて、珠希は私の助手になるってきかなくて。

 まだプロになれるかどうかもわからないのに」

 顔を上げた歩乃海は、晴れやかに笑う。

「きっとそういう世界もあるんだなって考えたら、不思議と心が軽くなった。

 ただ夢を見ただけなのに、そう思えたんだ。

 自分でもなに言ってんの? って感じだけれど、私はもうあんな風におかしくなることはないと思う」

 ごめんね、変な話をしちゃって、と歩乃海は照れ臭そうに言った。

 姫華は首を横に振る。

 そして葵依の手を握った。

「――別に、変な話じゃないわ。珠希さんが大人になって、幸せに暮らしている世界。わたしもあると思う」

「わ、私もそう思う。絶対にあるんだよ、そういう世界が」

 葵依が口にしたのは、ただの願いだった。

 そんな世界は存在しないと、葵依にも姫華にもわかっている。

 けれどすべての世界を見て回るなんて、誰にも出来はしない。

 そういう世界がどこかにひとつ隠れていても、きっと神様にも見つけられない。

 だから葵依は信じる。

 姫華は望む。

 歩乃海にはわかっている。

 その世界で、珠希は歩乃海と一緒に大人になっていると。

 願わくは、それが自分たちの世界であって欲しかった。

 ありがとう、と歩乃海は寂しげに笑う。

「葵依さんと姫華さんには、どうしてもお礼を言わなきゃって」

 それと、と歩乃海は言い辛そうに頬を指先で掻く。

「珠希の形見のコンパクト、たぶんふたりが持ってくれているんだよね?」

 葵依と姫華の背筋がピンと伸びる。

 ギギギと音が鳴りそうなほどにぎこちなく、葵依が姫華へ顔を向けた。

「――姫華ちゃん? あんた、もしかして返すの忘れて……」

 姫華はさっと顔を背けて無言で立ち上がると、壁に吊るしておいたコートのポケットからコンパクトを取り出した。

 そして顔を伏せたまま、両手でそれを歩乃海にすすっと差し出す。

 姫華からコンパクトを受け取った歩乃海は、あははと笑った。

「いつ失くしたとか、誰かに渡したとか、そういうのはまるで覚えていないのだけれど、どうしてかふたりが持っていてくれてるって思ったんだ」

 でも、と困り顔で歩乃海が続ける。

「なんでそう思ったか、理由は聞かないでね。私には本当にわからなくて、答えられないから。……たぶん、あなたたちも同じよね?」

 歩乃海はそう言ってぺろりと舌を出す。

「いやあ、ははは……」

 葵依が乾いた笑いで答える。

「あっ」

 姫華が不意に声を上げた。

 彼女は机の引き出しを開けると、そこから綺麗に畳んだハンカチを取り出す。

 そしてそれを歩乃海の前で広げた。

「ごめんなさい。ずっと返そうと思っていたのだけれど……」

 ハンカチに包まれていたのは、鏡の欠片。

 珠希のコンパクトから落ちた破片のひとつだ。

「これ、もしかして珠希の……ありがとう。大切にしてくれていたのね」

 歩乃海はそれを受け取ると、愛おしそうに胸に抱いた。

「そうだ。ちょっと待っていて」

 歩乃海は通学鞄を膝に乗せ、そこに括りつけた黒い巾着袋からカメラを取り出した。

 一眼レフの無骨で重厚なボディは、歩乃海の手には少し大きいように思える。

「カメラ? 歩乃海さんって写真が趣味なの?」

 葵依の問いに、歩乃海は首を左右に振った。

「これ、お父さんが何年も前に買ってくれたものなの。私って学校へ行く以外はいつも家に引き篭もっていたから。だからお父さんが心配して、これがあれば外へ出るようになるんじゃないかって。――でもこれまで一度も写真を撮ったことなかった」

 歩乃海はカメラを撫でてから、それを葵依と姫華に向けた。

「お願い。初めての写真に、葵依さんと姫華さんを撮らせて」

「ええっ? 姫華ならまだしも、初めての写真に私みたいな、しょうもない子なんて撮っちゃダメだよ。もったいない」

「しょ、しょうもない子なんかじゃないと思うけど……」

 歩乃海が苦笑いを浮かべる。

 だがすぐに真剣な眼差しをふたりへ向けた。

「迷惑だとは思うけど、どうしてもそうしたいの。――そうしたら、ちゃんと前へ向かえる気がする。珠希のことを、ちゃんと忘れてあげられる」

 ――忘れる。

 珠希のことを『忘れる』と、歩乃海は言った。

 別れるでもなく、思い出にするでもなく、送り出すでもなく。

 それがどういうことなのか、歩乃海の過去を見てきた葵依にはわかってしまった。

 歩乃海は珠希の存在を、心に留め置いたままではいられないのだ。

 そうでなければいずれまた思い出して、後悔と共に過去へ引き摺り込まれてしまう。

 また同じことを繰り返してしまう。

 それほどまでに歩乃海は、いまでも珠希を愛しているのだろう。

 忘れなければ前へ進めない。

 彼女はどんな想いで、そう結論付けたのだろうか。

 それを考えると、葵依は胸を掻き毟られるようだった。

 葵依は歩乃海の顔を見る。

 目の周りが赤く腫れていた。

 夢を見て、一晩中考えて、そして泣いていたのだろう。

 姫華が葵依の肩を抱いた。

 葵依も姫華の肩を抱く。

 歩乃海がカメラをふたりへ向けた。

 葵依と姫華がレンズへ笑顔を返す。

 ねぇ、と歩乃海が訊ねた。

「どうして、ふたりは泣いているの?」

 歩乃海さんこそ、と葵依が言い返す。

「泣いていたら、写真のピントを合わせられないんじゃない?」

 そうよ、と姫華が重ねてくる。

「泣くのをやめて。せっかくなのだから、可愛く撮って欲しいわ」

 ごめん、と歩乃海が笑う。

「ちょっと無理っぽいや」

 歩乃海がシャッターを切る。

 ピピッという電子音と共にフラッシュが光る。

 撮った写真を液晶に表示した歩乃海が、くすりと笑った。

 葵依と姫華が、歩乃海の両脇からそれを覗き込む。

 そして同じように笑った。

 そこに写っていたのは、お世辞にも可愛いとは言い難い、くしゃくしゃになった泣き笑いの顔。

 構図もなにもない、ただ顔だけをフレームに収めた写真。

 けれど不思議と美しい。

 そんな写真だった。

 歩乃海は目を閉じる。

 そして珠希にさよならを告げた。

 楽しげに笑う、珠希の声。

 歩乃海は確かに、それを耳にした。

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