第49話 第六章5
午後六時四十三分。
葵依は姫華のスマートフォンで時間を確認する。
幼い歩乃海からの逃走を開始して、優に五時間が経過していた。
葵依と姫華は奥多摩の山中へと逃げ込んでいた。
姫華は額に汗を浮かべ、白い息を小刻みに吐いている。
消耗し切っているのは火を見るよりも明らかだった。
一方の歩乃海は、もはや立っていられるような状態ではなかった。
四つん這いになって、全身から汗を噴き出している。
それでも少女は木に身体をもたせ掛けて、必死の形相で葵依と姫華を追おうとしていた。
歩乃海の姿が刹那消える。
しかし姫華は動かない。
再び現れた歩乃海は、さきほどの場所から僅かに二メートル弱しか転移していなかった。
葵依と姫華の居る場所までは、約三十メートルの距離がある。
葵依に肩を支えられながら、姫華がひとつ長いため息をついた。
「……たぶん、次で最後」
歩乃海が転移の魔法を使う。
否、おそらくは使ったのだろう。
歩乃海の姿は残像を纏ったようにぶれると、そのまま転移することなく木の幹へと身体を預けた。
そして力尽き、ずるずると崩れ落ちてゆく。
「お、終わったの?」
葵依の問いに、姫華が頷く。
「ええ。たったいま、過去が変わったわ。――まったく。昨日と比べてタフになり過ぎよ」
姫華の身体から力が抜ける。
倒れ込みそうになる姫華を、葵依が慌てて抱きかかえた。
「姫華も歩乃海さんも大丈夫? 魔法って使い過ぎると倒れちゃうものなの?」
「魔力を持つ人間は、無意識でそれに頼ってしまっているのよ。だから魔力を著しく消耗すると、体力切れをしたときのようになるわ」
姫華に肩を貸しながら、葵依達は歩乃海の元へと歩んでいく。
地面に倒れている歩乃海はぴくりとも動かない。
顔を、服を、土に塗れさせて。
「わたしは平気だから、歩乃海さんを抱いてあげて」
姫華は握っていたコンパクトをコートのポケットへと仕舞う。
葵依の身体を支えに、近くの木へと背をもたれ掛けさせた。
姫華に言われた通り、葵依は歩乃海を抱き上げた。
腕の中にいる歩乃海は相変わらずぐったりとしている。
ただ上下する胸だけが、彼女の眠りを教えてくれた。
「戻りましょう。葵依、わたしに触れて」
葵依は頷くと、姫華が差し伸ばした手に自分の胸を当てた。
姫華はピクリと眉根を寄せる。
「……葵依。どうしてわたしの手に、胸を押し当てるのかしら?」
「歩乃海さんをお姫様抱っこしているから手が使えないんだもの。しょうがないでしょ」
「――そう。わたしはてっきり、その下品に発育した胸を自慢したいのかと思ったわ」
「なにそれ。変な被害妄想やめてくんない? だいたい下品なんて言うけど、歩乃海さんの方がずっと大きいんだからね」
葵依がぶうぶうと不平を言った。
「わ、悪かったわよ。それにしたって、どうして胸なの? 肩でも背中でもいいじゃない」
「最近、ちょっと大きくなったから自慢したくて」
てへへと笑う葵依に、姫華がにこりと笑い返す。
「……どうやら葵依は、この山奥へ置き去りにされたいみたいね」
「ああ! ウソウソ! 冗談だって。ねー歩乃海さん」
葵依が同意を求めて、幼い歩乃海の顔を覗き込む。
眉間に皺を寄せた、さきほどまでの怒りに満ちた表情は姿を潜め、代わりに歳相応な愛らしい顔で眠っている。
歩乃海は夢から解放された。
もう毎夜、妹の死を見ることは無い。
自らの手で妹を死へ導くことも、もう無いのだ。
葵依は額を、眠る歩乃海の髪に当てた。
「――良かったね、歩乃海さん。私たち成功したんだ」
葵依の潤んだ声に、姫華の目頭が熱くなる。
「……珠希さんを救えたのは、きっとわたしたちの世界の歩乃海さんが頑張ったおかげよ。――さあ、一之瀬家へ戻りましょう」
姫華が葵依の肩に触れる。
葵依は目を閉じた。
辺りの空気が変わったと肌で感じ、葵依は瞼を開く。
そこは一之瀬家の玄関だった。
葵依と姫華は靴を脱いで玄関を上がる。
「こっちよ」
先導する姫華は、ふらつく足取りで階段を上ってゆく。
葵依は早く姫華を休ませてあげたいと思う。
姫華が向かっていたのは珠希の部屋だった。
ベッドでは、珠希と現世界の歩乃海が抱き合って眠っている。
歩乃海はずっと泣いていたのか、頬には涙の跡があった。
珠希はまるでそれを慰めてでもいたかのように、姉の頭を抱いている。
どちらも穏やかな寝顔だった。
姉妹はとても幸せそうに見える。
自分たちがなにを守ったのか、葵依は改めて実感していた。
だが心残りはある。
歩乃海は今日のことを――珠希との再会を忘れてしまう。
「……やっぱり、歩乃海さんの記憶は消さなくちゃダメなんだよね? なんだか利用するだけして、終わったらこっちの都合を押しつけるなんて――」
「前に言ったはずよ。葵依がそれを気に病む必要はないの。事実としてわたしは歩乃海さんを利用したわ。そして用が済んだから記憶を消す。結果として歩乃海さんは救われた。珠希さんと一緒に。――でもこれだけは忘れないで。魔法省からの援軍は間に合わなかった。他に方法はなかったの」
「そう……だよね。ごめん」
姫華は首を横に振った。
「気にしないでと言ったでしょ? 葵依。大きい歩乃海さんをベッドから降ろしてちょうだい。代わりに小さい歩乃海さんを、珠希さんの隣へ寝かしつけて」
「わかった。でも歩乃海さん起きちゃわない?」
「起きないわ。魔法で眠らせているもの。……記憶も、もう消してある」
「……そっか。ありがとう姫華」
葵依は小さい歩乃海をカーペットに横たえて、大きい歩乃海をベッドから抱き下ろす。
まともに食事を摂っていないのか、歩乃海の身体は驚くほどに軽かった。
葵依は土のついた小さい歩乃海の顔や手足を、濡れたタオルで丁寧に拭った。
服を脱がせてパジャマに着替えさせ、珠希の隣へと横たえる。
大きい歩乃海は姫華の膝枕で眠っていた。
姫華は歩乃海の髪をそっと撫でている。
傍から見れば、ふたりはまるで仲の良い姉妹のようだ。
葵依は、それを姫華に教えてあげようかと思う。
彼女はきっといまも、歩乃海と友達になりたいはずだから。
――思えば、きっかけはすべて歩乃海だった。
クライエントとなった歩乃海に呼び寄せられた姫華が、葵依の前に現れた。
そして『お友達が欲しい』などと言いだす。
その姫華が友達候補として選んだのが歩乃海。
おかげで葵依自身も歩乃海と関わりを持つことになる。
葵依と姫華の人生を交差させたのは、間違いなく歩乃海の存在があったからだ。
すべてが終わったいまでも、こんな考えは不謹慎だとわかっている。
それでも葵依は、歩乃海へ感謝の気持ちを伝えたかった。
川澄葵依と、西行寺姫華を巡り逢わせてくれたことに。
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