第48話 第六章4

 一之瀬歩乃海は、川澄葵依から預かった黒いスマートフォンの液晶画面を見ていた。

 彼女が立っているのは、自宅玄関の脇だ。

 西行寺姫華が指定した時刻になるまで、ここで待っているように言われていた。

 なぜ定められた時間になるまで、自分の家へ入ってはいけないのかわからない。

 わからないが、理由を考えるのは酷く億劫だった。

 玄関脇から見える風景にも歩乃海は違和感を覚えるが、その違和のもとを探す気力も湧かない。

 目の端でまた、ちらちらとなにかが動く。

 だがそれに苛立ちすら感じなくなっていた。

 さきほど庭先で子供の叫び声が聞こえた気がする。

 けれどそれにも興味を持てない。

 午後一時二十六分。

 姫華が指定した時刻になった。

 スマートフォンからアラームが響く。

「……このスマホ、時間ずれてる」

 歩乃海は呟く。

 それに今日はとても寒い。

 葵依がコートを着せてくれなければ凍えていただろう。

 九月って、こんなに冷えただろうか?

 まあいい。なんでもいい。

 歩乃海は扉を開けて、家の中へと入った。

 玄関には二足の靴が並べて置かれていた。

 随分と小さい靴だ。

 客でも来ているのだろうかと歩乃海は思う。

 もっとも子供の客になんて心当たりはないが。

 靴を脱いでリビングダイニングへと向かう。

 手洗いとうがいをするためだ。

 ついでになにか水物を摂ろうと考える。

 相変わらず空腹だが食欲が無いという、意味のわからない状態に変わりはないけれど、少しでも腹になにかを入れておいたほうがいいはずだ。

 リビングダイニングの入り口で、歩乃海はちいさな誰かとぶつかりそうになる。

 その誰かは素早く歩乃海を避けるも、バランスを崩して廊下で尻餅をついた。

「あ、ごめんね。大丈夫?」

 家へ遊びに来ている子供だろう。

 母の友人の子供かもしれない。

 怪我でもさせたら大変だ。

 ぼんやりとした何かに思考を絡め取られながらも、歩乃海はその子供へと顔を向ける。

 それは少女だった。

 ぽかんと口を開けて歩乃海を見上げている。

 歩乃海はその少女に見覚えがあった。

 いや、見覚えなんてものじゃない。

 毎夜、夢に出てくる少女だ。

 毎夜その死を、見届けている少女だ。

「……たま、き?」

 湿り気を失った喉から、歩乃海は声を絞り出す。

「――おねえちゃん?」

 パチパチと瞬きをしながら、珠希がそう訊ねた。

 歩乃海がこくりと頷く。

 これは夢だろうか。

 歩乃海は珠希へ手を伸ばそうと試みる。

 いつもの夢ならば、自分の思う通りになんて動けはしないはずだった。

 しかし手は動いた。足も動いた。

 歩乃海の膝は力を失い、へたりとその場に座り込む。

 珠希と目の高さが近くなる。

 珠希の顔がみるみると笑顔になっていく。

 眩しいくらいの輝く笑顔に。

 珠希は立ち上がると、歩乃海の胸へと飛び込んだ。

「わあ! おねえちゃんどうしたの? なんで大人になってるの?」

 歩乃海の胸に顔を埋めながら、珠希は楽しげに身体をゆさゆさと揺すっている。

「な、なんでって、珠希こそ、どうして――」

 歩乃海は、珠希が握っている白いコンパクトに気づいた。

 そして同時に葵依の言葉を思い出す。

 彼女は言っていた。

 これがあなたを魔法使いにする言葉だと。

 珠希を救う、世界でたったひとりの魔法使いになるための言葉だと。

 意味も意図もわからなかった。

 だが、その言葉は覚えていた。

 歩乃海は溢れそうになる涙を懸命に堪えながら言う。

「――お姉ちゃんね、魔法で大人になったんだよ」

「きゃー! やっぱりそうなんだ! おねえちゃんすごい! たまきも大人になりたい! まほうをつかいたいよー!」

 珠希は歩乃海の腕の中で、きゃっきゃと跳ね回る。

 歩乃海は珠希の頭を、恐々と撫でた。

 柔らかくて細い髪。その感触が確かにある。

 それは記憶の中にある、珠希の髪と同じだった。

 そうか、と歩乃海は思う。

 葵依と姫華。

 きっとふたりは、神様なんだ。

 私に――こんな私に、やり直す機会を与えてくれた。

 歩乃海は珠希をぐっと強く抱きすくめた。

 今度は絶対に離さない。

 もう決して間違えない。

 私は珠希のお姉ちゃんなのだから。

 やるべきことを考え、成さねばならない。

 状況を理解し、把握し、最善の行動をとる。

 珠希、と歩乃海は最も愛しい者の名を呼んだ。

 まだ泣くなと自身に言い聞かせる。

「――珠希。お姉ちゃんと約束して欲しいことがあるの」

「なあに?」

 珠希が胸の中でもぞもぞと動く。

 少し痛くて苦しかったけれど、それを遥かに上回る幸福感が押し寄せてくる。

「お姉ちゃんが魔法使いだってこと、みんなには内緒にしてくれる?」

 それを聞いた珠希は神妙そうに頷くと、小声で言った。

「うん。ないしょにする。だってばれたらワンちゃんにされちゃうんだもんね」

 そうだった。

 あのアニメはそういう設定だった。

 主人公の女の子は、妹以外の誰かに正体がばれたら魔法で犬にされてしまう。

「そうだよ。お姉ちゃんワンちゃんになりたくないし、珠希もお姉ちゃんがワンちゃんになったら困るでしょ?」

「こまる!」

 ありがとう、と歩乃海は珠希の頭を撫でた。

「それと今日は、お姉ちゃんと一緒にずっとお家にいてね。お姉ちゃん、今日は一日中、大人のままなの。お外に出たら、魔法使いだって誰かにばれちゃうかもしれないから」

「うん! たまき、おねえちゃんとずっとお家にいるね!」

 迷うことなく珠希が答える。

 ランドセルのことはすっかり忘れているようだ。

 それも当然だろう。

 目の前に魔法で大人になった歩乃海がいるのだから。

 大好きな姉を、守らなくてはならないのだから。

「葵依さん。姫華さん」

 歩乃海は呟く。

 葵依にも姫華にも、歩乃海はなにも聞かされてはいなかった。

 仮に聞かされていても、自分はきっと信じなかっただろうと歩乃海は思う。

 それどころか、からかわれたと怒りをぶつけていたに違いない。

 だがいまの歩乃海にはわかる。

 自分がいま、九年前のあの日にいるのだと。

 あの、生涯最悪の日をやり直せているのだと。

 ぺたり、と珠希は歩乃海の頬に触れ、心配そうに見上げている。

「おねえちゃんどこか痛いの? へいき? 痛いのとんでけーしてあげようか?」

「ううん。どこも痛くないよ。どうして?」

「だって、おねえちゃん泣いてるよ」

「え?」

 歩乃海は自分の頬に触れた。

 手のひらが確かに濡れている。

 いつの間に泣いていたのだろう。

 自分では堪えているつもりだったのに。

 歩乃海は袖で目元を拭うと、そのまま珠希を抱き上げて立つ。

 泣き顔なんて見せたくない。

 珠希には笑顔の自分だけを覚えていて欲しい。

「――珠希。お腹空かない? あなたの好きなオムライス、お母さんに作り方を教わっておいたの。お姉ちゃん、なんだかすごくお腹が空いちゃった」

「おむらいす! たべたい! きゃほー!」

 歩乃海がにっこりと微笑むと、珠希は両手を挙げて喜んだ。

「じゃあ珠希も手伝ってね。――お姉ちゃんの傍にいるだけでもいいから」

「うん!」

 珠希が嬉しそうに、歩乃海の首へと抱きついた。

 ――ありがとうと、歩乃海は心の中で葵依と姫華に感謝する。

 葵依は言っていた。

 これを夢だと思うかもしれないと。

 けれど歩乃海は、これが現実だと知っていた。

 首から、頬から、胸元から、珠希の熱を感じる。

 珠希の呼吸を、鼓動を感じる。

 これが夢なんかであるはずはない。

 この瞬間を忘れたくない。

 この暖かさを手放したくない。

 歩乃海は頬を、珠希のそれへとすり寄せた。

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