第46話 第六章2

 一之瀬歩乃海は目的も無く、ぶらぶらと高校の廊下を歩いていた。

 こうしてひとりきりで行動するのは気が楽だった。

 誰かが傍にいると、なんだか煩わしく思えるからだ。

 目の端で、なにかがちらちらと動いている。

 正体のわからないそれは、歩乃海を異常なまでに苛立たせた。

 狂おしいほどの空腹感に襲われる。

 けれど食事を摂れば吐いてしまい、そのせいで胃が荒れている。

 空腹感はあるのに、食欲がわかない。

 身体は栄養を欲しているのに、その身体がそれを拒んでいる。

 自分の身体がなにをしたいのか、わからない。

 クラスのみんなからは、ここのところ急激にやつれているみたいだと心配された。

 それを笑顔でかわしているが、内心では関わらないで欲しいと考えてしまう。

 うるさいと怒鳴りそうになる。

 机や椅子を振り回して、二度と修復できないほどに関係を破壊してしまおうかと思ってしまう。

 そんなことをしてどうするのか。

 どうなりたいのか。

 それすら歩乃海にはわからなくなっている。

 誰を悲しませてしまうのか、わからなくなっていた。

 ――妹の名を、思い出せないときがある。

「えー。なにそれ本当に?」

「ほんとほんと。あのドラマの脚本家とヒロイン役の女優できてるんだってー」

 中央階段で女生徒がふたり、お喋りに興じていた。

 他愛の無い話で、いつもであれば気にもならないし視界にも入らなかったかもしれない。

 けれどいまは、無性に癇に障った。

 そうだ、と歩乃海は思いつく。

 手っ取り早く破滅する方法がある。これなら弁明の余地は無い。

 ――なぜ破滅したいのだろう。

 頭の片隅に疑問が沸く。

 けれどその誘いはあまりに甘美で、抗うなんてできそうもない。

 歩乃海は手を伸ばすと、二人の女生徒がいる階段へと近づいていく。

 決して気づかれないよう、慎重に慎重に歩みを進めていく。

 知らぬうちに口角が上がる。

 近づいて、そして。

「突き落として――」

 歩乃海がそう声に出すのと、その肩と腕を捉まれたのはほぼ同時だった。

 振り向いた視線の先には、川澄葵依と西行寺姫華の青ざめた顔がある。

 葵依が肩を、姫華が腕を。

 それぞれに強く握っていた。

 ふたりは無言で、ただ悲しげだった。

 歩乃海の唇がわななく。

 それは全身へと広がっていった。

 瞳に溢れ出る涙が、頬を伝って顎からぽたぽたと廊下へ落ちる。

「……私、なんてことを――」

 どうしたの? と非常階段でお喋りをしていた女生徒たちが心配そうに葵依へ訊ねた。

 なんでもないの。ごめんねと返事をしてから、葵依は歩乃海の背中を抱いてその場を離れる。

 人通りの少ない渡り廊下から部室棟を経由して、一階のLL教室へと葵依たちは向かった。

 LL教室には大きなスクリーンとプロジェクターがあり、映像資料を用いた授業を行う際に使われる。

 職員室の並びにあるので生徒たちは普段近寄らないが、ドアの鍵が壊れているため、こっそり忍び込んで隠れて遊ぶのにはうってつけの場所でもあった。

 教室内に人がいないのを確かめてから、葵依と姫華は歩乃海を連れて入る。

 気持ちの整理がつかないのだろう。

 歩乃海はずっとしゃくり上げて泣いていた。

 椅子に座らせ、姫華はハンカチでその涙を拭った。

 少女は両手を固く握ったまま、床の一点を見詰めて涙を零している。

 もう時間がない。葵依はその現実を目の当たりにしていた。

 葵依と姫華にとっても、歩乃海にとっても、次が本当に最後の機会となるだろう。

 どうしてなのかと、葵依は考える。

 こんなにも妹思いの優しい女の子が、どうしてここまで苦しまなくてはいけないのか。

 いったい彼女になんの罪があるのか。

 葵依は過去の姉妹を見てきた。

 妹は姉が大好きで、姉は死んだ妹を未だに愛し続けている。

 ふたりは互いに想い合い、助け合い、それ故に珠希を死へと向かわせてしまう。

 そんな連鎖は断ち切らなくてはいけない。

 聞いて、と姫華が言った。

「これから起こる出来事は、すべて現実なの。わたしたちは、いまからあなたの妹を救いに行くわ」

 歩乃海が床に向けていた視線を上げた。

 涙はまだ止まっていない。

「葵依とふたりで、ずっと考えていた。ずっと話し合ってきた。どうすれば歩乃海さんと珠希さんを救えるかって。――でも無理なの。相手側に魔法使いがふたりいる限り、わたしひとりでは太刀打ち出来ない。こちらももうひとり、魔法使いを用意しなくてはいけないの」

 妹を救う。

 その言葉のおかげか、歩乃海は姫華の話に耳を傾けている。

 だが揺らぐその瞳は、彼女がまるで話を理解していないと物語っていた。

 歩乃海さん、と葵依が呼びかける。

 固く握られた歩乃海の手に、自身のそれを重ねた。

「私と歩乃海さんって、魔法使いだったかもしれないんだって。

 そんな話って信じられる?

 実は私ね、まだ信じられないんだ。

 だから想像できる。

 これから起こること、歩乃海さんは夢だと思うだろうなって。

 でもそれでもいいの。

 夢の中だけでもいい。

 私と姫華を信じて。

 私たちが、歩乃海さんの味方だってこと」

 葵依が親指の腹で歩乃海の涙を拭った。

「――それを約束してくれるなら、私と姫華が歩乃海さんを魔法使いにしてあげる。珠希ちゃんを救うことの出来る、世界でたったひとりだけの魔法使いに」

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