第45話 第六章1
暑さの残る九月の夕方から、一転して冬の寒さが頬を突き刺す。
葵依と姫華は珠希を救うべく、三度目の別世界の過去へ来ていた。
昨日は充分な睡眠を取り、姫華のコンディションは万全を期している。
ふたりが最終的に決めた作戦は、姫華の気力によるところが大きい。
姫華が一度に使える魔法は五つまで。
それをフル活用する策をとった。
その理由は『歩乃海が魔法を重複して使用できる可能性』を考慮したからだ。
姫華の魔法に対策させる数を増やせば、そのぶんだけ歩乃海が同時に使える魔法の数を減らすことができる。
姫華が使う一つ目の魔法。
それは過去の別世界へ転移する魔法だ。
これだけはどうしても使わないわけにはいかない。
一之瀬家の玄関前で、葵依が自分の手のひらを見詰めた。
「姫華。念のためにもう一回だけ聞くけど、本当に私の姿は消えているんだよね?」
「ええ。消えているわ。出かける前に部屋の鏡で確認したでしょ?」
「そうなんだけど……。自分からは見えるから、なんか変な感じで」
姫華が使う二つ目の魔法。
それは葵依の姿を人の目に触れないように透明化する魔法だ。
葵依の役目は珠希の監視。
家に独り取り残された珠希が、階段から落下するなどの不慮の事故を防ぐためだ。
だが家に見知らぬ女とふたりで取り残されれば、珠希はそれだけでパニックに陥るかもしれない。
それは珠希の死へと繋がるリスクとなる。
故に葵依の姿を消す。
「葵依。準備は良い?」
「うん。姫華はどう? ちゃんとドアとか窓に、魔法で鍵をかけた?」
姫華が使う三つ目の魔法。
独りになった珠希が、家から出られないようすべての出入り口を魔法で塞ぐ。
前回に使ったのと同じ魔法だ。
「もちろんよ。――始めましょう」
「姫華。がんばってね」
姫華と腕を組み、葵依は瞳を閉じた。
頬を撫でる冷気が、柔らかな暖かさへと瞬時に切り替わる。
葵依は瞼を開いた。
暖房のついた室内。
窓には水色のカーテンがかけられ、床にはふわふわとした白いカーペットが敷かれている。
ベッドでは熊のぬいぐるみが、ピンクの毛布をかけて眠っていた。
青い壁紙の壁に沿って、三段だけの本棚が設置されている。
本棚を埋めているのは、大小様々な絵本だ。
葵依の目頭が熱くなる。
部屋の持ち主は家族から大事に、とても大切に育てられているのだとわかった。
部屋の中央には、ちいさな木製の可愛らしいテーブルが置かれている。
そこで向き合って座っている姉妹は、口を開けたまま硬直していた。
それも当然だと葵依は思う。
突然に部屋へ見知らぬ女子高生が現れたら、きっと自分も同じ反応をするはずだ。
姉妹はそれで遊んでいたのだろう。
珠希の手には白いコンパクトが乗せられていた。
上蓋に白馬の彫刻のあるコンパクト。
葵依たちが標的としている品だ。
葵依は姫華から腕を離すと、靴を脱いで部屋の隅へと移動した。
姫華は無言で珠希へ近づき、その手からコンパクトをひょいと取り上げる。
「これ、お姉ちゃんが貰うね」
姫華はにこりと笑うと、歩乃海の頭にポンと自身の手を乗せた。
これが四つ目の魔法。
歩乃海がどこにいても姫華にわかるよう、察知の魔法をかけた。
追跡してくるであろう歩乃海を見失わず、不意を突かれないための魔法だ。
そしてこれにはもうひとつの役目がある。
歩乃海を呪詛使いにするには、歩乃海か珠希に影響する魔法を使う必要があった。
この魔法は、その役目も兼ねている。
「じゃあね~」
室内から姫華の姿が消えた。
まるで脊髄反射でもしたかのように、歩乃海が窓へと駆け寄る。
窓の外、玄関の前で姫華が挑発をするように手を振っていた。
歩乃海の眉間に皺が寄る。
「……待っていて珠希。すぐに取り返してきてあげる」
そう言うと同時に、歩乃海の姿も部屋から消えた。
独り残された珠希はあんぐりと口を開け、いまだ身動きひとつ出来ずにいる。
――姫華が使う最後の魔法。
それは歩乃海から逃げるための転移の魔法だった。
窓から見える歩乃海の姿が消えるよりも僅かに早く、姫華は三メートル真横へ転移した。
寸前まで姫華の立っていた場所で、歩乃海がたたらを踏んでいる。
「残念。こっちよ」
姫華はコンパクトを持った右手を、歩乃海に向けて左右に振った。
歯を噛み締め、眉間に皺を寄せた歩乃海が姫華を睨む。
その形相に内心で怯えながらも姫華は後方へ十メートル転移した。
入れ違いに転移した歩乃海が乱暴に手を振り上げるも、それは虚しく空を切る。
姫華は確信した。
やはり歩乃海は『心を喰う夢』からなんらかの影響を受けている。
一之瀬歩乃海は、誰かへあんなにはっきりとした憎しみを向ける娘ではない。
察知の魔法は、歩乃海の動きを『三秒』だけ早く姫華に伝えてくれる。
姫華は運動を不得意としているが、この魔法のおかげで歩乃海の動きを先回りできた。
今度は長めに四十メートル。
姫華は転移で歩乃海と距離を取る。
あまり長い距離をあけてしまうと、歩乃海が追跡を諦めてしまうかもしれない。
それでは意味がなくなる。
「お願い。ついてきて」
姫華は祈る。
察知の魔法が、その願いは叶ったと教えてくれた。
転移した歩乃海は背後から姫華に組み付こうとするが、それも空振りに終わる。
少女は苛立たしげな視線を姫華へ向けた。
今度は少し短く七メートルの距離を取る。
即座にもう七メートル。歩乃海が連続で転移してくるとわかっていた。
こうしてじょじょに、一之瀬家から離れていく。
このまま一之瀬家の周りをうろうろしていたら、なにかの拍子で歩乃海が葵依の存在に気づくかもしれない。
そうなれば歩乃海はコンパクトの奪還ではなく、珠希の保護を優先するはずだ。
コンパクトを諦めた歩乃海は、珠希をつれてあの交差点へ向かうだろう。
そこで待ち受けているのが、大切な妹の死だと知らずに。
――ここまでは完全に作戦通り進んでいる。
後は歩乃海の気力が尽きるまで、逃げ続けるだけだ。
珠希はベッドの上へ乗り、壁を背に膝を立てて座り込んでいた。
熊のぬいぐるみを胸に抱き、その後頭部に顔を埋めている。
姉の言いつけに従って、大人しく待っていると決めたようだ。
これだけでも珠希がいかに姉を慕っているかがわかる。
珠希は眠ってしまったのか、ほとんど動きを見せない。
ちいさな少女だと葵依は思う。
独り残されて、どれだけ心細いだろう。
ごめんね、と葵依は心の中で謝罪する。
可哀想に、と背中を抱きたくなる。
連れて帰って歩乃海に逢わせてあげたい。
ここで失われてしまうのなら、自分たちの世界で守ってあげたい。
けれどそれが赦されざる罪悪であることは、魔法使いではない葵依にだってわかる。
この世界における珠希の存在が完全に消えてしまったら。
自分たちの世界へ連れて帰ってしまったら。
それは他の世界へも影響を与えてしまう。
連鎖的に珠希の存在は消滅していき、その発端となった珠希も結局は消えてしまう。
姫華がそう言っていた。
六歳の珠希の死は決まっていて、覆らない。
それがどれだけ理不尽なことであろうとも。
鞄屋の閉店する午後七時、もしくは両親の帰宅する午後八時まで、過去が変わらない可能性があると姫華は言っていた。
歩乃海が自宅へ戻ってしまっても、両親さえ帰宅していれば鞄屋の閉店している時刻に外出は許可されないはずだ。
そこが歩乃海の魔法使いでいられるデッドラインとなる。
葵依はスマートフォンで時間を見る。
現在の時刻は午後二時十七分。
珠希の死は午後一時四十分前後なので、運命の時間からはすでに三十分も経過していた。
姫華と歩乃海がいなくなってから、じきに一時間となる。
――姫華からの連絡は未だ無い。
彼女は本当にこのあと何時間もひとりで逃走を続けるのだろうか。
葵依にとってそれは、上手く言えないがなにかが違うように思えた。
自分は姫華ひとりに負担を強いている。そう考えてしまう。
自分が姫華の傍にいても、なにも出来ないとわかっているのに。
それでも一緒に成功を見届けたいと願ってしまう。
姫華が戻っていないだろうか。
葵依は窓辺に寄って外を覗く。
だから気づかない。
葵依には気づけない。
顔を上げた珠希が、見えないはずの葵依の背へ、その視線を向けていることに。
どれくらいの時間が経ったのだろうと姫華は考える。
すでに数時間が経過しているようにも思えるし、まだ五分十分しか経過していないようにも思える。
歩乃海からの逃走に集中していて、時間の流れに見当がつかない。
しかし携帯を取り出して時間を確認するほどの余裕はない。
歩乃海にかけた察知の魔法は正しく機能している。
想定外の事態や油断が無い限り、歩乃海が姫華を捉えることはないだろう。
転移の後、姫華は自らの足で半歩後退して上半身を捻る。
コンパクトを握った姫華の手を、歩乃海の指先が掠めた。
「うわっ! 危ない!」
姫華は転移で歩乃海と一メートル弱の距離を取る。
歩乃海の舌打ちが聴こえた。
いまのは上手くやれたと、姫華は内心で自分を褒める。
姫華は歩乃海に追い詰められたのではない。そう装ったのだ。
こうしてときおり、歩乃海にあと一歩を味わわせる。
まったく手が届かないのでは、幼い歩乃海が追跡を諦めてしまうかもしれないからだ。
それを提案したのは葵依だった。
絶対に拾えそうに無いスパイクよりも、あと少しで拾えそうなスパイクのほうが、次も頑張れるしやる気もでる。
彼女の言葉だった。
そういう感覚が姫華にはよくわからない。
真剣にスポーツへ取り組んだことがないからだろうかと自分では思う。
事実、歩乃海はムキになって追いかけてきた。
充分な効果を発揮している証拠だ。
葵依がいなければ――姫華ひとりだったのなら、絶対にない発想だった。
魔法使いだから出来ること。
魔法が使えないからわかること。
その両者が交わることで、新たな可能性が広がっていく。
魔法省がパートナー制を推奨しているのは、それが理由なのかもしれないと姫華は今更ながらに思う。
パートナーを得るということ。
けれどそれは、姫華を弱くもしてしまった。
彼女はずっと独りだった。
独りで戦ってきた。
その日々は姫華にとって当然で、変わることのない未来で、定められた結末だった。
けれど願いはあった。
想いはあった。
それは綺麗な夢だった。
心のどこかで叶わないと諦めていた。
そうでなければいけないと決めつけてもいた。
自分のような不誠実な人間には。
他者を信じられない心根が、自己防衛の魔法を発現させた。
嘘を見抜く魔法。
唾棄すべき力だ。
自分以外の使い手を、姫華はひとりとして知らない。
――なにがきっかけだったのだろう。
どうして葵依を信じられたのだろう。
頼れたのだろう。
寄り添えたのだろう。
姫華は知ってしまった。
他人と暮らす日常を。
おはようとおやすみを交わす安らぎを。
いってらっしゃいとおかえりを。
いってきますとただいまを。
みんなでお喋りしながらとる朝食を。
おかずを交換する昼食を。
夕食の後に、こっそり食べるデザートの甘みを。
みんなで遊びに出かける休日を。
友と、過ごす毎日を。
だから考えてしまう。
いますぐそこへ戻りたいと。
逃げ出してしまいたいと。
なにもかもを投げ出して戻っても、きっと彼女たちは笑顔で迎え入れてくれる。
焦がれて、焦がれて、焦がれて。
信じられないけれど、手の届く場所にある。
けれどそれはまだ、まやかしに過ぎない。
姫華自身が変わらない限り。
彼女たちに対して、恥ずかしくない人間になりたい。
これはきっと、その一歩だ。
この想いは、姫華の弱くなった部分をも上回る。
なによりも、葵依の喜ぶ顔が見たい。
それが一番の願いだ。
少し疲れはある。
けれどまだ体力も気力も充分に残っていた。
それに引き換え歩乃海は、この寒空の下で汗だくになっている。
呼吸も荒く、転移後にバランスを崩して転ぶこともあった。
魔力が底を尽き始めているのだろう。
もうさほど時間はかからないかもしれない。
このまま問題なく終われるはずだ。
姫華のそれは慢心ではない。
経験と現状からの判断だった。
だからこそ気は緩めない。
これで失敗するなど赦されるはずがない。
姫華は右手のコンパクトを握り直す。
二秒後の歩乃海の動きに合わせて転移する。
その姫華の手から、コンパクトが忽然と『消えた』。
あまりの予期せぬ事態に、姫華の思考が一時停止する。
転移後の着地と同時に地面へ膝を突き、なにが起こったのかと歩乃海を見た。
歩乃海は追跡を止めている。
ゼィゼィと息を吐き、虚ろな瞳をこちらへ向けていた。
その歩乃海の身体を支えているのは、妹の珠希だった。
コートのポケットに入れた姫華のスマートフォンが着信を知らせる。
それを合図にでもしたかのように、歩乃海と珠希の姿が消えた。
察知の魔法はまだ生きている。
姫華は姉妹を追って転移した。
――交差点。
姫華は立ち尽くす。
その光景を凝視しながら、コールを続けるスマートフォンを震える手で取り出した。
「姫華! 珠希ちゃんがどこにもいないの! 私が目を離したせいで……珠希ちゃんがいなくなってしまった。どうしよう。ごめんなさい。私のせいで――」
スマートフォンから漏れ聞こえるのは、自身を責める、葵依の声。
「……違うわ、葵依。あなたの、せいじゃない」
掠れる声で、姫華は区切りながら言葉を紡ぐ。
チカチカと視界が明滅する。
焦げたタイヤの臭い。
もう聞き慣れた、耳を衝く悲鳴と怒号。
コンクリートの壁に突き刺さった黒い乗用車。
それを前に座り込む少女はひとり。
姫華が呻くように言葉を続ける。
「――わたしたちは、見落としてしまった。一之瀬珠希が、魔法使いである可能性を」
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