第44話 第五章6
ひとつ確認をさせて、と姫華が言った。
「魔法使いの正体と目的がわからない以上、葵依にも危険が及ぶ可能性は拭い去れないわ。それはわかっているのね?」
「もちろん」
深くしっかりと、葵依は頷いた。
――葵依と姫華は、再び別世界の過去へと来ていた。
昨日とは違う、別世界の過去へ。
一之瀬歩乃海の自宅は学園の徒歩圏内にあった。
庭の広い一軒家で、二階にはバルコニーがある。
塗り直したばかりなのか、色合いのくっきりした赤い屋根は、葵依に姉妹の着ていた赤いダッフルコートを連想させた。
姫華はコートのポケットから黒いスマートフォンを取り出すと、それを葵依へと渡す。
「魔法省製のスマホよ。それなら別世界でもお互いに通話が出来るの。わたしの番号を登録しておいたから、必要に応じて使ってちょうだい」
「おお。よもや現世界でも使い放題ですか?」
きらきらと瞳を輝かせる葵依に、姫華は残念そうな目を向ける。
「それ、現世界では使えないわよ。ちなみに通称は『電卓付き目覚まし時計』。電卓機能とアラームと、時計だけ現世界でも使えるの」
「うわー、がっかり感が半端ないね」
「文句を言わないの。さっそく始めましょう」
姫華はポケットから葵依と同じデザインのスマホを取り出すと、慣れた手つきで数回タップした。
最後にスピーカーへ切り替え、葵依と並んで液晶に目を向ける。
「もしもし、いちのせでーす」
五回のコールの後、可愛らしい舌足らずの声がスピーカーから聴こえた。
「あ、タマちゃん? パパだよー」
低い穏やかな男性の声音で、姫華が喋る。
「うわっ! 姫華すご――」
感嘆の声を上げる葵依の口を、姫華は慌てて塞いだ。
「パパ! どうしたの? おしごとおわったの?」
父親からの電話がよほど嬉しかったようで、珠希はきゃっきゃとはしゃいだ声をだす。
「まだ終わってないよ。休憩中なんだ。それでね、タマちゃんにちょっとお話があって」
「おはなし?」
「うん。お祖父ちゃんたちがプレゼントしてくれるランドセルね、届くのが明日になっちゃったんだ」
「えー! やだー!」
スピーカー越しでも、珠希がいやいやをする姿が目に浮かんだ。
――これが今回の作戦だった。
父親に成りすまして電話をかけ、珠希たちが外出しないように仕向ける。
更に外部から干渉されないように、一之瀬家を魔法の防壁で覆っていた。
「ごめんねタマちゃん。でも明日ならパパとママも一緒に行けるよ。そうだ。帰りにタマちゃんの好きなパフェを食べようか」
「ぱへ! ほんとう?」
「うん。だから今日は――」
「もしもしパパ?」
スピーカーから聴こえる声が変わった。
姉の歩乃海が電話口に立ったのだろう。
珠希のぐずる声が漏れ聴こえてくる。
「ああ。ホノちゃん? いまタマちゃんにも話したんだけど、ランドセルがまだ届いていないんだ。受け取りが明日になってしまったから、今日は家でお留守番をしていてね」
姫華は動じない。
これは好都合だ。
姉妹の両方に釘を刺せれば、この作戦はより磐石となる。
歩乃海にしっかりと言い聞かせれば、珠希の外出を避けられるだろう。
「……ホノちゃん?」
どうしたのだろうか。スピーカーの向こうで歩乃海は黙っている。
「ホノちゃん? どうかしたのかい? パパの声が聴こえないの――」
「お姉さん誰ですか? なんでパパの真似をしているの?」
歩乃海が強い警戒を含んだ口調で訊ねた。
葵依と姫華は互いに顔を見合わせる。
そして聞き間違いではないと確信した。
歩乃海はいま『お姉さん誰ですか?』と言った。
姫華の声音は、どう聞いても男性のそれだ。
歩乃海は電話の相手が父親ではないことだけでなく、声の主が女性であることまで見破っている。
「……なにを言っているのかな? ホノちゃんはパパの声を忘れ――」
姫華が会話を続けようとするもスピーカーからの音声は途切れ、ツーツーと通話の終了を知らせる音が流れた。
「な、なに? どういうこと? どうして歩乃海さん、お父さんからの電話じゃないってわかったの?」
葵依の問いに、姫華は即座に答えられない。
顎に拳を当てて考え込む。
「……たぶん、葵依のときと同じよ。あなたがわたしの『嘘を見抜く魔法』に気づいたように、歩乃海さんもこれが魔法だと気づいたのかもしれない」
「そんな。私のときはまだしも、いまのって気づきようがないと思うんだけど」
けれど歩乃海は見破った。葵依のように。
なにかふたりに共通点があるのだろうか?
姫華はある仮説に辿り着く。
「――まさかとは思うけど……。ちょっと強引な手でいくわ。一之瀬家の扉や窓、外に繋がるすべての場所を魔法で封鎖して、歩乃海さんと珠希さんを家へ閉じ込める」
えー、と葵依が抗議の声を上げた。
「それって別のトラウマが出来ちゃわない? 家から出られないとか完璧ホラーだよ」
「手遅れよ。もう魔法をかけてしまったもの」
ガチャガチャと玄関のドアノブを回す音が聴こえてくる。
次いでドンドンと内側から叩く音。
「開かない」という声と共に、それがしばらく繰り返された。
やがて玄関が静かになると、今度は庭に面したガラス戸を必死に開けようとしている歩乃海の姿が見えた。
ごめんね、と葵依が呟く。
「可哀想だけど、これで事故に遭わずに済むからね」
姫華はスマホの液晶を見る。時刻は午後一時四十二分。
「もう間もなく珠希さんが事故に遭う時間になるわ」
「お願い。このままなにごともなく終わって」
葵依は顔の前で両手を握り合わせた。
――歩乃海たちは諦めたのだろうか。
家を出ようとする一切の動きが見られなくなった。
一之瀬家は静まり返り、物音の一つもしない。
「……疲れて眠っちゃったのかな?」
「事故の起こった時間はとっくに過ぎているわ。でも――」
過去がまだ変わっていない。
姫華は親指の爪を噛んだ。
酷く胸騒ぎがする。
さきほど浮かんだ仮説が、姫華の心を絡め取ろうと指を伸ばす。
姫華は葵依の腰に手を回した。
「葵依。目を瞑って。あの交差点へ飛ぶわ」
「ええっ? なんで? ここで見張っていなくていいの? っていうか、目に見える範囲じゃないと跳べないんじゃ?」
「一度行った場所へは行けるのよ。早く! 言うとおりにして!」
「わ、わかった」
目を閉じた葵依の耳に飛び込んできたのは、悲鳴混じりのざわめきだった。
「……葵依。目を開けてはダメよ」
姫華は手のひらで葵依の目元を覆い隠すと、もう片方の手を固く握り込んだ。
葵依がごくりと唾を飲み込む。
交差点の先では、青いトラックが車体の前面を電信柱にめり込ませていた。
道路にはブレーキをかけた痕すらない。
――横断歩道では、独り立ち尽くす幼い歩乃海の背中があった。
姫華は寮の自室へ戻ると、ベッドに座っている葵依の隣へ腰掛けた。
「魔法省の調査結果がでたわ。一之瀬歩乃海さんは魔法使いよ」
姫華は感情を押し殺した平板な声で言う。
自身の困惑が伝われば、葵依をより混乱させてしまうとわかっているからだ。
葵依は額を手のひらで押さえ、頭の中で姫華の言葉を反芻する。
姫華が口にしたそれは、葵依にとって最も聞きたくない事実だった。
歩乃海の救出に二度失敗した日から、更に二日が経過している。
歩乃海が魔法使いであるということ。
その可能性にふたりは考え至っていた。
しかし別世界の過去における歩乃海も、現世界と例外なく呪詛使いであった姫華の『魔法使い誕生の破棄』の影響を受けているはずだ。
――そこから導き出される答え。
「それじゃあ、やっぱり……」
搾り出される葵依の問いに、姫華は頷いて答える。
「呪詛使いであったわたしの力は『魔法使い誕生の破棄』。
つまり『呪詛使い誕生』にはなんら影響がないと言うこと。
――歩乃海さんは『歩乃海と珠希に影響のある魔法』を感知して呪詛使いに覚醒するそうよ。
その力は『現存する、すべての呪詛使いの力の無効化』。
つまりわたしの呪詛使いとしての力を無効化してから、魔法使いに覚醒するの。
加えて言うと、歩乃海さんが呪詛使いと魔法使いでいられる期間は、その一日だけ」
葵依と歩乃海の共通点。
それはふたりが共に魔法を感知したということ。
ふたりに魔法使いとなる可能性があったということ。
「そんな……そんな滅茶苦茶なこと、ありえるの? それじゃまるで歩乃海さんが、珠希ちゃんを事故に遭わせるために存在しているみたいじゃない」
「――事実、そうなのかもしれないわ。歩乃海さんは現世界も含め、無数の別世界で夢に喰われている。珠希さんを事故で失ったことをきっかけに。『珠希を事故で失う』。それは歩乃海さんにとって、絶対に避けることの出来なかった過去でなくてはいけない。そうでなければ、歩乃海さんは夢に喰われなくなる。それは夢にとって都合が悪い」
人の心を喰う夢。
その現象をまるで人間のように表現している自分に、姫華は居心地の悪さを感じた。
魔法を使えない葵依では、この話は理解しがたいだろうと姫華にはわかっている。
けれど葵依は、彼女なりにそれらを懸命に飲み下そうとしていた。
「じゃ、じゃあ歩乃海さんを喰っている夢が、別世界の過去で、歩乃海さんを呪詛使いにしているってこと?」
「現時点では、それ以外に考えられないの。珠希さんに死が訪れるたった一日だけ、歩乃海さんが呪詛使いと――魔法使いとしての力を持つのも、それが理由だと考えれば辻褄が合うわ。根拠は他にもあるの。歩乃海さんは一度目にわたしの魔法を打ち消して、二度目はそれをせず事故現場へと転移した。こちらの手段に対して、使う魔法を最適化させて――」
ごめん、と葵依は姫華の言葉を遮る。
「私には、姫華の話がよくわからない……」
「葵依……」
姫華は葵依の肩を抱く。
彼女が混乱するのも無理はない。
姫華自身、すべてを納得しているわけではないのだから。
かつて世界に呪詛を撒いた魔法使いたち。
彼らの撒いた呪詛の正体とはなんであったのあろうか?
「――葵依。原因を考えるのは無意味よ。どうせ正しい答えなんてわからないのだから。大丈夫。まだ手はあるはず。わたしに出来て、歩乃海さんには出来ないこと。それがある限り」
「……姫華に出来て、歩乃海さんにできないこと?」
葵依が顔を上げて訊ねる。
「ええ。魔法使いは通常、魔法をひとつ、多くてもふたつしか同時に扱えないの。前に話した『魔法の力を弱める呪詛使い』の影響で、わたしたち魔法使いの力はそれほどまでに制限されてしまったのよ。でもわたしは違う。五つまで同時に魔法を使えるわ」
「ええっ!? なにそれ凄くない? あんたって落ちこぼれだったんじゃないの? なんでいままで黙っていたのさ?」
「……どうしてあなたは、わたしを落ちこぼれにしたがるの? 話さなかったのは、出来るだけ他の魔法使いのみんなと同じ条件で仕事をしたかったからよ。わたしも呪詛使いだった頃はひとつしか魔法が使えなかったのだけど、解放されてからは同時に五つ使えるようになっていたの。でもそれだと、わたしだけずるいことをしているみたいでしょう? ひとりだけ、たくさん魔法を使うなんて」
そういえばと葵依は思い出す。
美菜の過去で姫華は、浮遊の魔法を使わずにヒィヒィ言いながら自転車を押していた。
あまり魔法を使いたくないとも言っていた。その理由がいまになってわかる。
「でも、歩乃海さんの力は『呪詛使いの力を無力化する』ものなんでしょ? それって『魔法使いの力を弱める』ってのも無効化しちゃうんじゃないの?」
「まぁ。そこに気づくなんて凄いわ。でも葵依はひとつ忘れているみたい。歩乃海さんの力は『現存する』呪詛使いの力を無効化するだけなの」
「……そうか。その呪詛使いの人はもう亡くなっているんだよね。つまり『現存』している呪詛使いじゃないんだ」
「正解よ」
姫華はパチパチと拍手した。
葵依は考える。この優位性を生かす方法を。
「――姫華が魔法使いだってこと、やっぱり別世界の歩乃海さん達に知られたらダメ?」
「ダメよ。と言いたいところだけど、なりふり構っていられる状況じゃないしね。最悪ふたりの記憶を消せばいいのだから、どうにでもなるわ。本来なら出会うはずの無いわたしと葵依の記憶を消しても、歩乃海さんたちの未来に影響はでないわ」
「わかった」
つまり、一之瀬姉妹の前で姫華は堂々と魔法が使えるということだ。
この制限解除は大きい。
考えるべき策は、それを最大限に活用する手だ。
――白いコンパクト。
葵依の頭に浮かんだのは、歩乃海が大切にしているもの。
「ねぇ姫華。歩乃海さんが持っていた白いコンパクト覚えてるでしょ? あんたがヘタレて、いまだに鏡の破片を返せていないやつ」
「……なにか引っかかる言いかたね。もちろん覚えているわ」
「あれを過去の歩乃海さんの前で盗もう。あのコンパクトはたぶん珠希ちゃんのものだから、絶対に追いかけてくるよ」
姫華が怪訝な顔をする。
「……盗む、とは物騒な話ね。わたしもあれは珠希さんの形見だと思うけれど、確証はないでしょ? もしかしたら珠希さんの死後に購入したものかもしれない。わたしたちが行く過去では、まだ彼女たちの手元にはないかもしれないわ」
「それは大丈夫だと思う。あのコンパクト、どこかで見たことあるって、ずっと考えてたんだ。あれ、ちょうど八年前にテレビでやってた『魔銃少女デザートイーグルちゃん』が持っていた変身用のコンパクトだよ。上蓋に白馬の刻印があったから間違いないと思う」
「デザート……なに? アニメの話?」
「そうそう。私も大好きで毎週観ていたから、なんとなく覚えていたんだと思う。こないだ気になってネットで調べたんだ」
姫華は口元に手を当て、しばらくなにごとかを考え込む。
「……確かにそれなら珠希さんから歩乃海さんを引き離せるわね。珠希さんがコンパクトを失うということは、歩乃海さんが現世界でいつも持ち歩いている形見がなくなるということになるから。きっと歩乃海さんはコンパクトに執着するはずよ」
「うん。たぶんそこが、作戦を成功させるスタート地点になるんだと思う」
姫華はベッドから降りると、自分の通学鞄からノートを一冊取り出した。
それを手にして葵依の隣へと戻り、ふたりの間にノートを広げて置いく。
「珠希さんを救う手段と、その問題点を洗い出していきましょう。これ以上の失敗は、歩乃海さんが夢に喰われるまでの時間を更に縮めてしまう恐れがあるわ。わたしたちに残された機会も、後は二回しか残っていないのだから。慎重に作戦を練りましょう」
「わかった。完璧に仕上げて、次で終わらせよう」
葵依と姫華は頷き合い、互いにその決意を確かめる。
――ふたりの話し合いは、翌日の未明まで続けられた。
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