第41話 第五章3
別世界の過去へ飛び、クライエントを救う魔法使い。
その数が激減するきっかけとなった、居村智絵里の消滅。
彼女が消滅した理由は、未だ魔法省でも解明されていなかった。
五度目の跳躍後に消滅したのはわかっている。
だが彼女が迎える最期の瞬間を、知る術がなかったのだ。
居村智絵里の過去には、誰も飛べなかった。
彼女にかけられた呪いが、それを邪魔したからだ。
姫華が偶然にも智絵里の最期を知ることになったのは、彼女が智絵里ではなく葵依の過去へ跳んだためだった。
智絵里の最期に葵依が立ち会っていた。
それは姫華にとって、想像外の事実だった。
だが同時にこうも考えてしまう。
その邂逅は、必然だったのかもしれないと。
葵依は優しい少女だ。
本当に、それだけが特徴とも言える女の子だ。
故に葵依は出会ってしまうのだろう。
自分を必要とする相手と。
姫華が葵依と出会ったように、智絵里も過去に葵依と出会っていた。
結果として、葵依はいま夢に喰われている。
過去の傷を抉られて。
やるべきことはひとつだ。
葵依を夢から救う方法。
葵依と智絵里が出会う過去は変えられない。
過去において、人との出会いは改変できないからだ。
だったら智絵里が封じた記憶を、姫華の手で完全に消してしまえばいい。
記憶自体が存在しないのであれば、夢が抉る葵依の傷も存在しなくなる。
しかし姫華は踏み切れない。
智絵里の記憶が消えることによって、いまの葵依と自分の関係性が損なわれてしまうかもしれないからだ。
ふたり初めて出会った日に、葵依が姫華を受け入れたのは、過去に聞かされていた智絵里の言葉に寄るところが大きいのだろう。封じられていても、その記憶は葵依の中にあったのだ。
葵依が智絵里と出会っていなかったら。
その想像は姫華を恐怖で縛り付ける。
姫華と葵依の出会いが変わることはない。
だが葵依は姫華を受け入れないかもしれない。
同じ部屋で暮らしているのに、姫華と葵依の間に会話はない。
葵依は迷惑そうな顔で姫華を睨み、葉月達の部屋へ入り浸る。
そしていつしか部屋へ帰ってこなくなる。
そんな情景を思い浮かべてしまう。
葵依がそんな人間ではないと、姫華にはわかっているのに。
彼女はこれまでと同じように、姫華に優しく接してくれるだろう。
けれどすべてが元通りにはならない。
別世界で過去を改変すれば、その影響は必ず現世界に及ぶ。
過去を『変える』のではなく、過去を『消して』しまったら。
それは川澄葵依という人間を形成する人格の一部を、奪うということ。
現世界で記憶を消しても、過去の別世界に影響は無い。記憶を消された状態で、あるべき未来へ進んでいくだけだ。
しかし消し去った過去は、未来へと影響を与えてしまう。
葵依は姫華との出会いを異なった感情で捉え、そのまま異なった思考のもとで後の生活を過ごすのだ。
それはもう、姫華の知る葵依ではない。
――別の『誰か』だ。
葵依を救う堅実な方法は記憶の消去。
他に確実な方法はなどないし、模索している時間もない。
自分の感情を優先させて万が一にも失敗すれば、それこそ葵依を永遠に失うこととなる。
考えるまでもない。
迷ってはいけない。
姫華は葵依の手を握った。
自分よりも少しだけ大きく、暖かい手だった。
この手に、これまで幾度励まされてきただろうか。
いつか必ず葵依との別れのときはくる。
でもそれは、ずっと先に訪れるはずのものだった。
ずっと先であって欲しいと願っていたものだった。
こんなにも急だなんて、信じたくない。
こんなにも突然、葵依を失うなんて。
葵依との時間を、失うなんて。
あなたを――あなたとの時間を、まだ失いたくない。
これから先、あなたと過ごすはずだった時間を、失いたくない。
いつの間にか手に入れていた、ずっと想い焦がれていた願い。
――それを手放さなくてはならない。
姫華は握った葵依の手を、自身の頬に当てる。
涙の雫がひとつ、流れた。
「……ありがとう。葵依。さようなら。葵依。わたしあなたと会えて――」
「姫華、泣いているの?」
葵依の声が、姫華の耳に届く。
しかし姫華は顔を上げない。
これはきっと自分の未練が生んだ幻聴だ。
「……ごめんね、姫華。泣かしてごめんね」
うあああ、と葵依が声を上げて泣く。
「あお、い?」
幻聴ではない。
姫華が視線を向けると、葵依は止め処なく涙を零していた。
「ごめんねぇ。うわああん。ひとりにしてごめんなさいぃ」
「あ、葵依? あなた目を覚ましたの?」
そんなことはありえない。
葵依は確かに夢に喰われて、それを除かなければこうして目覚めることはないはずだ。
しかし現実に葵依はこうして目を覚ましている。
それは、つまり――。
葵依が夢から解放されたということだ。
「葵依! 葵依! あなたどうやって夢を退けたの?」
姫華が葵依の胸に縋りつく。
葵依はその背に手を回した。
「ひぐっ。退けた? なんの話?」
葵依はしゃくり上げながら姫華に問い返す。
葵依の鼻からツーと鼻水が流れ出る。姫華は慌てて身を離すと、ボックスティッシュを渡してやった。
「あなた、夢に喰われていたのよ? 覚えていないの?」
「私が夢に? ……そうだ。私、昔の夢を見た。それで思い出したんだ。居村さんとの約束。早く助けてあげないと」
身体を起こそうとする葵依を、姫華が抱きとめて押し留める。
「落ち着いて。お願いだから、いまはベッドから離れないで。思い出したのならわかるでしょう? 葵依はまだ智絵里さんを救えない。わたしたちがいま救うべきは、歩乃海さんなのよ」
「そ、そうだね。ごめん」
葵依は起こした身体を横たえる。
そのまましばし天井を眺め、頬を赤らめた。
「……姫華。私、夢に喰われていたことも思い出した。真っ暗な場所にいてなにも見えなくて。怖くて、もう二度と目が覚めないんだなってわかった。でも、姫華の声がしたんだ」
「わたしの声? そんな魔法、使っていないわ。わたしはなんと言っていたの?」
「そ、それはちょっと私の口からは……」
葵依が目を逸らす。
少し遅れて、姫華の顔が真っ赤に染まった。
葵依と過ごすはずだった時間を、失いたくない。
その想いが、葵依に伝わってしまったのだと知る。
「あ、あなたねぇ! 無断で人の心を覗くような真似しないでくれる!?」
「知らないよ! 姫華が勝手に聞かせたんでしょ!? 私には魔法が使えないんだから。で、でもまぁ、私も気持ちは同じっていうかなんというか」
ゴニョゴニョと葵依が言葉を濁す。
「……呆れた。そんなことが夢を退けたっていうの? こんな話、聞いたこともないわ」
はーっと姫華が長い息を吐く。
安堵から湧き上がる涙を、手のひらで拭った。
「私は別になにもしてませんけど。助かったんだから素直に喜んでよ」
どうして葵依が夢から解放されたのか。
彼女の身体に触れてわかった。
僅かながらに残る、魔力の残滓。
つい先程に初めて知ったそれは、智絵里のものだった。
魔法が発動する条件はきっと、葵依と心を通わせた魔法使いの存在だ。
発現したのは、想いを繋げる魔法。
姫華は葵依を失いたくないと願い、葵依も姫華の傍にいたいと願った。
それぞれの想いが、互いの心に気づきを与えた。
自分には葵依がいる。
自分には姫華がいる。
ふたりの心にとってそれは、湧き上がる強さだった。
過去において、葵依の前から消失した智絵里。
その思い出は『傷』ではなく、果たすべき『約束』に変わった。
葵依は信じた。
姫華と一緒なら、智絵里を救えると。
傷ではなくなったそれを、夢が喰らうことはできない。
――ところで姫華、と葵依が頬を膨らませる。
「私はちゃんとあんたに謝ったからね。あんたは私に言うことないの?」
葵依の言葉で、姫華は姿勢を正した。
次は自分が、葵依を信じる番だ。
「あるわ。葵依に聞いて欲しい話があるの。少し長くなってしまうけれど」
「朝までには終わらせてね。明日の朝は校長室へ出頭しなくちゃいけないんだから」
葵依は茶化すように言う。
けれどその心根は違った。
なにがあっても受け止めよう。
葵依はそう決意している。
姫華は思う。
智絵里との記憶を思い出した葵依なら――。
人間と魔法使いに共通の『敵』がいると知った葵依なら、これからの話がすべて真実だとわかるはずだ。
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