第40話 第五章2

 どう救えば、母娘の心への負担が一番軽く済むだろうか。

 今回の智絵里は、それを突き詰めるべく行動していた。

 娘を母よりも早く、待ち合わせ場所へ到着させる。

 母親を別の場所へ誘導する。

 通り魔を前もって拘束しておく。

 過去を変えるだけなら簡単だ。

 方法なんていくらでもある。

 しかし智絵里は考える。

 娘の到着を早くしても、母娘は待ち合わせ場所で立ち話をするかもしれない。結果として、娘の前で母親が襲われるかもしれない。

 母親を別の場所へ移動させても、通り魔に尾行されるかもしれない。

 通り魔を拘束しても、別の日に別の場所で誰かを襲うかもしれない。

 それは娘の母親かもしれない。

 智絵里は考えられうる不安要素をすべて取り除いた手段で、クライエントを救う。

 四度目の過去へ跳ぶまで、智絵里は一切の手を出さない。

 ひたすらに観察を続ける。

 魔法使いが過去へ跳び、そこでクライエントの過去改変を失敗する。

 その度に、そのクライエントはより夢に深く喰われる。

 そんな噂話を智絵里は聞いたことがあった。

 だが智絵里は、自身でそれを体感したことはない。

 悪意のある噂話に過ぎないと、智絵里は判断していた。

 母親に対し、噴水を挟んだ対角線上となる場所で智絵里は待機した。

 現在の時刻は午後六時二十五分。

 母親が通り魔に襲われるのは二分後の二十七分だ。

 智絵里は母親の後ろ姿を注視した。

 何も知らない彼女の後姿は、娘との食事をうきうきと楽しみにしているように見える。

 智絵里が手を下せば、母親がここで傷を負うことはなくなる。

 だが彼女は遠くない未来で、右腕に同程度の傷を負うことになる。

 それが事故か、彼女の不注意か、それ以外の理由なのか。

 そこまではわからない。だが少なくとも娘の心に傷を残すことにだけはならない。

 最善へと至るための道筋。

 それは『この場の誰も傷つかない』ことだと智絵里は考えた。

 その方法を見つけるために、三度の観察を経たのだ。

「そんなこと言って、そのうち五回六回とどんどん無駄に増やして――」

 面談室で言われた言葉が頭へ唐突に浮かぶ。

 カッと額が熱くなった。

 まるで手を抜いているかのように言われたのが悔しかった。

 誰かに認めて欲しくてやっている訳ではない。

 それでも不当な評価を受けて平気でいられるほどに、智絵里は達観していなかった。

「きゃあー!!!」

 周囲に響く悲鳴で智絵里は我に返る。

「しまった。私――」

智絵里は慌てて母親の元へ駆けつけるも、彼女は既に三人のサラリーマンに庇われていた。

「ああ! もう!」

 智絵里は地面を強く踏む。

 考え事をしていて母親を救うタイミングを逃してしまった。

 こんな失態は初めてだ。

 智絵里は唇を噛んだ。

 だが反省はしない。

 それはこの仕事を終えてからだ。

 智絵里はひと気のない場所へ移動すると、現世界へと戻った。



 五度目の過去。

 もう失敗はしない。

 智絵里は母親の左手側二メートルの距離で立つと、デジタルの腕時計と母親の右手側を交互に見続けた。

 午後六時二十七分十六秒。

 智絵里は通り魔の姿をその目に捉える。

 男は早足で近づき、コンバットナイフを振り上げた。

 智絵里は魔法を使う。

 自身と母親の位置を入れ替える魔法を。

 右の二の腕から肘にかけて、上から強く押されたような衝撃を受ける。

 制服の袖が切り裂かれ、傷口からドロリと赤い血が流れた。

 痛みはない。

 あらかじめ魔法で痛みを感じないようにしておいた。

 それでも傷口の深さを目の当たりにして、眩暈がした。

 しゃがみ込まないよう、気をしっかりと持つ。

 左腕を引かれた。

 引いたのはスーツ姿の中年のサラリーマンだ。

「早く離れて」

 男は切羽詰った顔でそう言った。

 過去が変わったと、智絵里にはわかった。

 智絵里は膝を折ってその場に座り、成り行きを見守る。

 野球少年たちに先導されてきた警察官が、通り魔を取り押さえた。

 智絵里がほっと息をつく。

 彼女が選んだ『この場の誰も傷つかない』方法。

 そこに智絵里自身は含まれない。

 智絵里は、そういう魔法使いだった。

 残る仕事はひとつ。

 この世界の魔法省に連絡をして、後始末を任せるだけだ。

 智絵里はスカートのポケットを探り、そこで己のミスに気づく。

 スマートフォンを魔法省の面談室に置いてきてしまっていた。

「あ、あなた、大丈夫?」

 智絵里に声をかけてくれたのは、被害者となるはずだった女性だった。

 彼女の顔は蒼白で、こちらへ恐々と手を差し伸べている。

「ええ。大丈夫です。不思議とあまり痛くなくて。すみませんが、電話を貸していただけませんか? 父と母に連絡をしたくて」

 ミスはしたが、リカバリーできないほどのものではない。

 智絵里は電話を受け取ると、魔法省へ連絡をした。

 電話を切り、発信履歴に残った番号を消す。

 母親に礼を言って電話を返すと、ほどなく担架を持った五人の救急隊が現れた。

 救急隊の到着があまりに早い。

 だがそれに周囲の誰も気づいてはいないようだった。

「居村智絵里さんですね?」

 隊員のひとりが智絵里に耳打ちする。

 智絵里はそれに頷いて応えた。

 隊員が智絵里の右腕に触れる。

「傷はまもなく完治します。あとは我々に任せて、速やかに現世界へお戻りください」

「ありがとうございます。お任せします」

 智絵里と隊員は互いに小さく笑む。

 隊員たちは手際良く智絵里を担架に乗せて、現場を離れる。

 ロータリーに止められた救急車に乗せられると同時に、智絵里は現世界へと帰るべく魔法を発動させた。

 智絵里は帰還の場所を、自宅の玄関と定めている。

 ひとり暮らしなので魔法を誰かに見られることもないし、靴の履き替えをしなくてもいいからだ。

 智絵里にとってそれは当たり前で、仕事を終えたのだと実感できる瞬間でもあった。

 しかしその日は、なにもかもが違っていた。

 現世界へ戻ってきた智絵里の目に映るのは、見慣れた自宅の玄関ではない。

 前のめりに倒れた先にあったのは、灰色の砂。

 なぜ自分は倒れているのか。

 そもそもここはどこなのか。

 智絵里は周囲を見渡す。

 黄色い滑り台と、錆びて元の色がわからないブランコ。

 それと三つのベンチだけがある小規模な公園だった。

 どこの公園だろう。

 智絵里は上半身を起こして立ち上がろうとした。

 だがそれは叶わない。

「――――っ!?」

 智絵里は声にならない悲鳴を上げた。

 立ち上がるために必要なつま先が、少女の足から失われていた。

 正確には、膝から先がなくなっている。

 引き千切られているのでも、切断されているのでもない。

 ただ消えていた。本来あるべき部位が、忽然と。

 智絵里は即座に理解する。

 呪われたのだと。

 自分は敵に、呪われたのだ。

 ――すべての魔法使いは呪いを受けている。

 人間もまた、魔法使いとは異なる呪いを受けている。

 智絵里が魔法省で最初に教わった言葉だ。

 なんのために敵は魔法使いを、人間を呪うのだろうと当時の智絵里は考えた。

 その疑問に対する答えの一端を、意図せず彼女は知ることになった。

 他ならぬ、智絵里自身が呪いを受けることによって。

 智絵里が得た答え。

 それは『敵の呪いには理由がない』と言うことだった。

 『同一のクライエント』に対して、『同一の魔法使い』が『五度』に渡って、別世界の過去へ跳ぶ。

 それが智絵里の受けた呪いが発動する条件なのだろう。

 智絵里はそう推測する。

 無茶苦茶だと少女は歯噛みする。

 そんな呪い、防ぎようがない。

 呪いを受けてから、初めてその存在を知る。

 呪いの発動に、なんらかの理由さえあれば予測し、対策ができる。

 けれど敵の呪いには一切のそれがない。

 故に恐ろしい。

 どれだけ時間が掛かっても構わない。

 魔法使いの誰かが、ひとりだけでもその呪いを受ければいい。

 まるで彼らはそう考えているかのようだ。

「どうしよう……」

 誰かに助けを求めようにも、周囲に人の姿はない。

「魔法省に連絡しないと」

 智絵里は考えを声に出す。

 そうしないといまにも自分の存在が消えてしまいそうに思えたからだ。

 うつ伏せに倒れたまま、スカートのポケットへ手を伸ばす。

 全身から血の気が引いた。

 スマートフォンは魔法省の面談室へ忘れていた。

 消失は、現在も徐々に進行しつつある。

 太腿がほぼ、消えている。

 いずれ自分はこの世界から消え去ってしまう。

 このどことも知れない公園で、独り消えていく。

 恐怖で気が狂いそうだった。

 だが、智絵里は冷静に打開策を考える。

 そう。まだ手はあった。

 ここがどこかはわからない。

 わからないが、転移の魔法で魔法省へ跳ぶことは出来る。

 最初からそうすれば良かったのだ。

 わざわざ助けを呼ぶこともなく、自分で動けばいい。

 歩けなくても、魔法使いである自分には移動手段がある。

 そんな智絵里の期待を、敵は嘲笑う。

「……転移の魔法が、使えない」

 使えなくなったのではない。

 封じられているのだとわかる。

 絶対に逃がさないという、敵の意思が流れ込んでくるようだった。

 それは混じり物のない純粋な戦慄を智絵里に与えた。

「まだ、諦めない」

 智絵里は浮遊の魔法を試みる。

 現在地はわからないが、魔法省の近くという可能性がゼロではないはずだ。

 誰かに目撃されるかもしれないが、そんなことを気にしている場合ではない。

 ――智絵里は拳を地面に叩きつけた。

 浮遊の魔法も、封じられている。

 逃げる術が、助かる術が、これ以上は思いつかない。

「くそっ! くそっ! ふざけんな! こんな最期なんて!」

 両の拳を地面に打ち付ける。

 何度も何度も打ち付ける。

 皮が破れ、血が滲む。

 これが自分の最期なのか。

 こんな誰もいない場所で、独り消えていかなくてはいけないのか。

 ずっと人々の心を守るために尽くしてきたのに。

 報いが欲しかったわけではない。

 しかしこれではあまりにも、救われないのではないか。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 まだ十七年しか生きていないのに。

 たったの十七年しか。

 智絵里は拳を振り下ろす。

 振り下ろし続ける。

 痛みを感じるうちは、まだ生きている。

 そんなものに縋ってしまう。

 痛みなんかに縋ってしまう。

 ――もう、腰から下の感覚がない。

 滲む視界が絶望に染まっていく。

「消えたく、ないよ……」

「手、痛いよ? やめよ?」

 幼い声が、智絵里の耳に届く。

 血に塗れ、小石が無数に突き刺さった両手は、温かな感触に包まれる。

 顔を上げた先にいたのは、白いワンピースを着た赤毛の少女だった。

 年の頃は七、八歳だろうか。

 瞳一杯に涙を溜めているその少女に、智絵里は見覚えがなかった。

「待っててね。すぐにお兄ちゃんを呼ぶから。お兄ちゃん、なんでも出来るんだよ」

 少女は片手で智絵里の手を握ったまま、スカートのポケットから携帯電話を引っ張り出した。

 しかし血に濡れ、震える指先はそれを取り落としてしまう。

 少女は自分の胸元に指を擦りつけて血を拭った。

 純白の白いワンピースにくっきりと紅い跡が残る。

 少女は腕で目元をごしごしと擦った。

 涙で前がよく見えていないようだ。

「ワンピースが、汚れて――」

 智絵里は口篭る。

 なにかを見つけた。

 大切ななにかを。

 そんな気がした。

「大丈夫なの。ちゃんとごめんなさいすれば、お母さんに許して貰えるんだ」

 少女は笑う。ぽろぽろと涙を零しながら。

 ――少女は泣いている。少女は智絵里のために涙を流してくれている。

 智絵里はそこに未来を視た。

 比喩ではなく、正しい意味での未来を。

 たったいま、自分には『未来を視る魔法』が使えるようになったのだとわかった。

 智絵里は少女の未来を視る。

 目の前の少女は、生涯において二人の魔法使いを救う可能性を秘めている。

 未来視の魔法が、そう教えてくれた。

 ひとりはまだ出会っていない相手。

 そしてもう一人は智絵里自身だ。

 けれどその未来はまだ不安定で、約束されていない。

 ほんの少しの揺らぎで変わってしまうような、不確かな未来。

 だが確約された未来もある。

 少女はまだ、智絵里を救えない。

 ここで一度別れることになる。

 その先で、少女の未来は分岐する。

 いくつもの未来へと。

 その中でも最悪の未来が、少女のもっとも近くにある。

 なにをしても、少女はこの場では智絵里を救えない。

 それを少女は悔い、数日の後に夢に喰われるのだ。

 夢に食われた少女を救う魔法使いは現れない。

 これから智絵里が消えることで、過去の別世界へ跳ぶ魔法使いが一桁まで激減するからだ。

 自分たちも消えるかもしれない。そう怯えて。

 少女を救う確実な方法は、この場で自分と出会った記憶を消してしまうこと。

 しかしそれは『少女が救うはずのふたりの魔法使い』――自身を含めたふたりともを救えなくなるということだ。

 智絵里は考える。どうするべきかを。

「……お名前、教えてくれる? わたしはね、智絵里。居村智絵里」

 智絵里は少女へ微笑みかける。

 涙を零しながら、少女も微笑む。

「葵依はね、葵依っていうの。川澄葵依。お兄ちゃん、すぐに来てくれるから、痛いのちょっと我慢してね」

 少し舌足らずに喋る少女を智絵里は可愛く思う。

 少女に電話を借りて魔法省へ連絡しても、もう間に合わない。

 それも未来視が教えてくれた。

 ――この子に託そう。

 記憶を消すのではなく封じて、夢に喰われないくらい強くなるのを待とう。

 そして信じるのだ。

 葵依が未来に出会う魔法使いを救うと。

 それがいずれは自分を救うことに繋がる。

 だから話そう。

 いまはすぐに忘れてしまうけれど、魔法使いがどんな存在であるのかを。

 その知識は、きっと葵依と彼女の友人を救うはずだ。

 葵依ちゃん、と智絵里は少女の名を呼んだ。

「これから話すことを覚えていてね」

 少女は不思議そうな顔をしながら、それでもしっかりと頷いた。

 ありがとう、と智絵里が言う。

「――いずれ魔法使いの女の子が、あなたの前に現れるわ。そのときは力になってあげてね」

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