第39話 第五章1

「だからこれまでに何度も説明したじゃないですか。わたしにはパートナーなんて必要ありません」

 制服姿の少女は苛立ちを隠そうともせずにそう言った。

 机を挟んで向かい合うのは、グレーのスーツを着た四十代くらいの女性だ。

 十二畳ほどの面談室にいるのは、少女と女性のふたりだけだった。

 机上には少女のスマートフォンが置かれている。

 女性は頬に手を当て、困ったように首を傾げた。

「でもねぇ……魔法省で推奨されていることだし、特にあなたは解決までに時間が掛かるでしょう?」

「時間が『掛かる』んじゃありません。時間を『掛けて』いるんです。これだって何度も説明したはずですよ?」

「けど、他の子たちはみんな一度目で終わらせているのに、智絵里さんだけは何回も過去へ――」

 智絵里と呼ばれた少女が机をバンと叩く。

「わたしは四度目で解決させると決めているんです! だいたいこの仕事をしている魔法使いが何百人いると思っているんですか? ここ最近では、半月も案件がないなんてざらですよ? それに対処方法は個々の魔法使いに一任されているはずです。遣り方くらい拘って当然だと思いますけど?」

「そんなこと言って、そのうち五回六回とどんどん無駄に増やして――」

「現在遂行中の案件がありますので! これで失礼します!」

 智絵里は乱暴に立ち上がると、女性の返事も待たずに部屋を出る。

 後ろ手に扉を閉めてから紺色のブレザーと同色のスカートの皺を伸ばし、胸元の赤いリボンを正した。

 睨み付けるように正面へと視線を向け、腰まで届く長い黒髪を翻して歩き出す。

 融通の利かなそうな鋭い目元と、一文字に閉じられた意志の強そうな口元。

 贅肉を削ぎ落とした身体はスレンダーというよりもシャープだった。

 顔の造りは美人のそれだが、近寄り難さは野生の肉食動物を思わせる。

 とても十七歳の少女とは思えないアスリート然とした雰囲気を漂わせていた。

「……なんであんなこと言われなくちゃいけないのよ? 『無駄』だなんて」

 意図せず、そんな言葉が口をついて出る。

 智絵里が魔法使いになったのは、八歳の秋だった。

 以後、今日まで九年の間、智絵里は一度もパートナーを持ったことがない。

 夢に喰われたクライエントの過去へ跳び、そのきっかけとなった出来事を矯正する。

 『トラウマスイッチの解除』などと揶揄されることもある仕事だが、智絵里は誇りを持って遂行していた。

 智絵里にとってこの仕事は、他者の手を借りて行うものではない。

 クライエントとじっくり対話し、もっとも負担のすくない方法でそれを成す。

 クライエントを救うのは、四度目の過去への跳躍時だと智絵里は決めていた。

 誰に言われたものでもない。

 彼女自身の経験から生み出した答えだった。

 それが自分のスタイルであると、魔法省の担当者には伝えてある。

 しかし半年毎に行われる面談では、パートナーを作れと必ず言われるのだ。

 パートナーのいない自分が欠陥品であるかのように言われたこともある。

 今回だって、似たようなものではあったが。

 早足で魔法省の廊下を歩く。

 智絵里は仕事柄、外での活動がメインとなるため、普段はあまりここへ足を運ぶことはない。

 新宿駅から徒歩十五分ほどの場所にある高層ビル群。

 魔法省はその中のひとつにあった。

 表向きは関連のない複数の会社が入っているオフィスビルだが、その実は二十四階建ての一棟が丸々魔法省の建物となっている。

 ――現在、智絵里が担当している案件。

 それは『通り魔に母親を襲われた娘』だ。

 娘はその日、母親と外食をする約束をしていた。

 お互いに仕事が終わった夕方、駅前の噴水で待ち合わせてレストランへ食事に行こうと。

 二十五歳の娘と四十九歳の母親。

 ふたりは同じ家で暮らしているが、時折こうして食事に出ていた。

 ふたりは仲の良い親子だ。

 母親が待ち合わせの噴水に到着したのは、午後六時二十四分。

 娘が到着するのは同三十一分。

 母親が通り魔に襲撃されたのは同二十七分のことだった。

 痩せた小男は母親の右手側後方、円形の噴水の縁に沿って近づいてきた。

 互いに面識はない。

 男が母親を狙った理由はひとつ。

 自分より弱そうだったからだ。

 母親が最初に感じたのは、痛みではなく熱だった。

 どうしたのだろうと視線を向けると、刃物を持った男が立っている。

 帽子も、マスクも、サングラスも、なにも身につけてはいない。

 素顔を晒したままの男の手には、刃渡り二十センチのコンバットナイフが握られていた。

 歳の頃は二十歳前後といったところか。

 あまり特徴のない顔立ちをしている。

 街で数回すれ違っても、なかなか覚えられそうになかった。

 けれど母親は、その顔を生涯記憶に刻むこととなる。

 左腕を強く引かれた。

 母親はたたらを踏む。

 自分を引っ張ったのは、見知らぬ中年のサラリーマン。

 早く離れて。

 男は切羽詰った声でそう言った。

 戻した視線の先には、同じくスーツを着たふたりの男性がいた。

 刃物を持った青年と自分を、遮るように立っている。

 腕を引いた男はスマートフォンでどこかへ電話をしていた。

 女性の悲鳴が聴こえる。

 それは連鎖していった。

 ここで初めて、母親は自身の右腕に痛みを感じる。

 指先から、尋常ではない量の血が滴り落ちていた。

 切りつけられたのだと、ようやく気づく。

 母親はその場に座り込んでしまう。腰が抜けていた。

 野球のユニフォームを着た少年たちに先導されて、三人の警察官が走ってくる。

 駅のすぐ近くに交番があった。

 少年たちは交番へと駆け込み、警官たちを引っ張ってきてくれたのだ。

 刃物を持った青年はすぐに取り押さえられ、後ろ手に手錠をかけられる。

 いつの間にか、娘に身体を抱かれていた。

 彼女は半狂乱になって泣き叫んでいる。

 大丈夫よ、と頭を撫でた。

 救急車に乗せられた後も、泣きじゃくる娘の背中を撫で続けた。

 襲われたのがこの子でなくて良かったと、心から思う。

 母親の命に別状はなかった。

 だが右腕の傷は深く、骨にまで達していた。

 リハビリの後、右腕は以前までとほぼ遜色なく動かせるようになった。

 しかし傷跡は残り、季節の変わり目には痛みも出る。

 痺れて力が入らないときもある。

 だがそれだけだ。

 母親はなにも気にせず、日々の生活を送っていく。

 ときどき、襲われたときのことを夢に見る。

 その度に、襲われたのが娘でなくて良かったと胸を撫で下ろした。

 けれど娘は違った。

 同僚とお喋りなどせずに、一本早い電車に乗っていれば。

 外食しようなんて言い出さなければ。

 別の場所で待ち合わせていれば。

 考え始めるときりがない。

 母親の腕の傷を見るたびに。

 腕をさする姿を見るたびに。

 箸を取り落として笑う顔を見るたびに。

 心に罪悪感が降り積もってゆく。

 それは溶けない。消えない。

 ただただ、積もってゆく。

 母親は自分を恨んでいるかもしれない。

 そんなことを娘は考えるようになる。

 父親にも相談してみた。

 彼は呆れ顔で「そんなわけないだろ」と言った。

「母さんが、おまえを恨むわけないだろう」

 そう言った。

 事実、その通りなのだろう。

 頭ではわかっている。

 それでも一度湧き出した疑念が消えることはなかった。

 ただのすれ違いだった。

 母の想いが、娘にすこしだけ、ほんの少しだけ伝わらなかった。

 それはきっと、どこの家庭でも珍しくないことなのだと思う。

 夢に喰われてしまったのは、彼女が人より強い責任感を持っていたからに他ならない。

 彼女が人よりも、優しい心を持っていたからに他ならない。

 その美徳は、夢にとっての好機となる。

 付け込む隙となる。

 奴らは狡猾で、弱っている人間を見逃さない。

 智絵里の胸には、いつも静かな怒りが燃えていた。

 自分達の敵である『夢』。

 連中はどういう存在なのだろうか。

 智絵里はそれを、漠然とした呪いだと考えていた。

 呪いを撒く呪い。

 それが智絵里にとっての敵だった。

 智絵里は周囲に人がいないことを確認してから、ちいさくため息をつく。

 ここは魔法省が管理する建物の中だ。

 誰に見られても問題はない。

 智絵里は魔法を使う際に、神経質なほど周囲を警戒する。

 他人に魔法を使う姿を見られないためだ。

「……これって、パートナーがいない弊害なのかも」

 呟いてから、過去へ跳ぶ。

『通り魔に母親を襲われた娘』

 その四度目の過去へ。

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